カガノミヤ・リンの遺産
コトリノことり(旧こやま ことり)
カガノミヤ・リン
「ロボット工学の三原則」
第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視していてはならない。
第二条
ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第一条に反する命令はこの限りではない。
第三条
ロボットは自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは第一条,第二条に違反しない場合に限る。
アイザック・アシモフ著「わたしはロボット」
【http://www.system-brain.com/gensoku.htm】
ボク、鏡宮レンが求めるものは多くない。
祖父から受け継いだ年季の入った洋風建築の屋敷。陶磁器で作られた、金の装飾が見事なアンティークのティーカップ。本物の茶葉で入れられた紅茶。そして美味しい紅茶を淹れてくれる存在。それで十分だ。
だが。そんな平穏で平凡なささいな望みはなかなか叶わない――鏡宮レンという名前をもって、うまれたせいで。
屋敷のリビング。お気に入りのソファと好きな本ばかりが集められている、居心地のいい部屋。
だが、残念ながらボクの心はとっても、非常に、かんばしくないほどすさんでいる。
思い切り顔をしかめながら、用意された紅茶に手を伸ばす。
「これで、ボクの命狙われるのって何回目?」
「直接のもので456回、誘拐・拉致・未遂計画を含めれば828回目です、マスター」
淡々と天気を教えるような口調で答えたのはボクの護衛兼世話係兼番犬兼従者であるミカエルだ。
はあ、と大きなため息を吐き出す。ミカエルだったら溜息の数も数えていそうだ。
ボクとミカエルしかいない、少し古ぼけた屋敷で開催されていた平和なお茶会は、無粋な暗殺犯に邪魔をされた。
襲撃はもちろん阻止した。じゃなきゃこんなのんきに紅茶を飲んでいられない。とはいっても冷めかけていて、一番美味しく飲める最高のタイミングを逃したのが苦々しくてたまらない。
襲撃犯は床に転がっている。ピクリとも動かない。これだけ見たら死体だと大慌てになるだろう。だが、厳密に定義すれば彼らは死体ではない。なぜなら彼らは自立型エージェント、人造人間――アンドロイドであるから。
とある天才科学者の発明により、ここ数十年で爆発的にAI技術は進化し、アンドロイドは普及した。
見た目は人間と変わらず、皮膚に触れても専門家でもない限り違いはわからない。高度なAIはジョークつきの会話までできる。
ただ、残念ながら床に転がっているアンドロイドたちは家庭用アンドロイドとは違う。見た目は量産型男性タイプの容姿だが、中身は違法な武器改造をこれでもかと搭載されている。
ミカエルはバッテリーを落として動かなくなったアンドロイドの首元にあるカバーを開いて端末端子からハックする。もちろん汚染トラップの類は解除済みだ。
「――今回の襲撃計画はこの5体ですべてのようです、これ以上の襲撃はないかと。指示したものは――」
「別にいいよ。どうせカガノミヤ・リンの『遺産』目当てには変わりないし。その5体はいつも通り処理しといて」
「畏まりました、マスター」
角度を測ったような――実際角度計算している可能性は大いにある――礼をしてくるミカエルは、おそろしいほど美しい男だった。
乱れた髪一本なく、まとめられた黄金の髪は光にあたると透き通った色合いを見せるプラチナブロンド。瞳は極上のルビーをはめこんだような深い赤色が瞬く。スラリとした体躯は細身でありながらもしっかりして、いついかなるときでも骨格パーツは理想通りに動く。時代遅れの執事服も、ミカエルが待とうと執事服は彼のために存在しているのではないかと錯覚してしまう。そしてどの角度から鑑賞しても見惚れて溜息がでてしまう完璧な造形。
ミカエルを独占しているから命を狙われているのだ、と言われたら納得してしまうほど、まさにつくりものじみた、人離れした美しさ。
だがミカエルを手放す気はない。なぜならミカエルは、ボクにとって欠かせない護衛兼世話係兼番犬兼従者である。それに、なによりも。
「最近じゃあ、カガノミヤ・リンの『遺産』はキミじゃないかって騒いでいるヤツが増えてるみたいだよ。あ、それと一緒に紅茶飲む?」
「それはそれは。1ミクロンも隠すつもりのない遺産ですね。あと、私はマスターと同席する資格はございませんので、謹んで辞退させて頂きます」
ご丁寧な言い方をしているが、眉どころか睫毛一つ動かさないミカエルはわざと皮肉を言っているかと勘ぐりたくなる。
ただミカエルはボクと違って水分をとる必要はないし、わざわざ露悪的にふるまう対応を選ぶ必要もない。
ミカエルは――主人のオーダーに忠実で、この世の美の頂点に立つ造形をした、世界最高峰の性能を誇るアンドロイドだから。
だから、この美しい人造人間を独占していることが罪だと言われても仕方ないとは理解できる。
それでも他のヤツらにミカエルを渡すつもりなど、ない。それはミカエルを作った創造主の意思でもあり――ボクにとっては世界で一番おいしい紅茶を淹れてくれる従者なのだから。
◆
今から数十年前。人類は技術革命を起こし、新たなステージに至った。
革命を起こしたのはカガノミヤ・リンという一人の天才科学者。
彼が作ったのは、今までのAIとは比較にならないほど、人間と同等以上の高度な人工知能を搭載したアンドロイドだ。
見た目は人間と変わらない。けれどアンドロイドは睡眠や食事を必要とせず、脆い人間の身体よりも丈夫で優秀だ。
世界で瞬く間にアンドロイドが普及した。家事も仕事もすべて優秀なアンドロイドが行ってくれる。
一度、火を知ったら前時代には戻れないように、現代の人間たちはアンドロイドなしでは暮らせない。
さて。ここまでなら別にいい。アンドロイド普及に伴って人間の失業率が増加したというような社会現象はあるけれど、少なくともボクには関係ない。
問題は、偉大な発明家、人類を数世代先に導いた革命者、異能の才を持ったカガノミヤ・リンが――三年前に死んだこと。
そして、カガノミヤ・リンは、彼の最期の発明品として、彼が生み出したアンドロイド以上の『遺産』を残して死んだと噂されていることだ。
カガノミヤ・リンの死後、彼の財産を相続したのは、法的にも肉体的にも、唯一のカガノミヤ・リンの親族であったボクこと鏡宮レンである。
ようするに、お偉い方々は、ボクがカガノミヤ・リンが残した『最後の遺産』を受け継いだと、そしてそれを秘匿していると考えている。
そして無理やりにでも奪取しようと試みている。
最初は誘拐・拉致程度だったが、ことごとくミカエルが撃破しているせいでより襲撃は苛烈になった。456回にいたっては、もう殺意を隠してすらいない。
「はあ。ちゃんと遺言書にしたがって相続したお金はNPO団体に寄付して、財産関係は大体処分して残っているのはこの古い屋敷くらいだっていうのに。なにを探すつもりなんだか。やっぱりミカエルかなあ」
「このお屋敷自体が『遺産』なのでは、と考えておられるかたもではじめているようで」
「いやいや、そんなバカな……ってあり得るかぁ。屋敷全部にアンドロイド対策の特殊電磁波とか死なない程度の地雷とかほぼ半永久的な自家発電エネルギーとか、特許出してないセキュリティ機能満載だもんなあ。でもこの家なくなったらボク、住むとこなくなっちゃうし」
「そうですね。マスターはニートですしね」
「ボクの職業はこの屋敷の管理人ですー! そのぶんの給与は相続金から引き抜いて受け取ってますー!」
「マスター。少し前にですね、自宅警備員なる言葉がありまして」
「人間に危害をくわえちゃいけないっていうプログラムは精神攻撃には関係ないのかな!?」
コミカルに会話をしながらもミカエルは表情を変えない。性能面でいえばカガノミヤ・リンが残した最高傑作といえるだろうに――量産型アンドロイドレベルの数段上の会話、家事、専門技術、高速処理を行うことができ、また戦闘特化のアンドロイドを無傷で捕縛できるほどの戦闘技能を持っている――インターネットで買えるアンドロイドよりも人工表情筋肉が死んでいるのはどういうことだ。バグだろうか。
とにかくも、古今東西の季節の事項から放送禁止用語までが人工知能にインプットされているミカエルに口で勝てるわけもなく。「ところで」と不毛な会話をきりあげる。別にむざむざ敗北を受け入れるわけではない。これはあれだ、屋敷の管理人の職務を忠実にまっとうするためだ。
「さっきは尖兵型アンドロイドだったみたいだけど……次は人間のお出ましかな?」
視線を天井側に移すと、侵入者警報の赤ランプがぴかぴかと点滅していて、監視用ホログラムからは武装した幾人かの不埒者が屋敷に入ろうとしている映像が浮かび上がっている。
「一日に二度もあるなんてツイてないな。それにしても人間、か」
「どうやらセキュリティ対策はしているようですね。自動トラップを無効化しています。いえ、いくつかは無理やり突破しているようですね、あれは――」
「うん、人体じゃ耐えられない高温や銃撃トラップ、それに窒息エリアも超えてきてる――アレは、サイボーグだ」
アンドロイド革命以降、アンドロイドの技術水準を高める裏側で進んでいる発明があった。
それが、サイボーグ。
アンドロイドはどれだけ人間に模していようとも、最初から最後まで人造物だ。しかし、サイボーグは人間だ。違うのは、身体の一部を機械化すること。
アンドロイド技術を利用し、人は人であることをやめて機械化していく。より『完璧な人間』を目指そうとするアンドロイドとは反対の方向だ。
サイボーグ化した襲撃者たちはいくつか手間取りながらも、着実に屋敷のなかへと侵入していく。
その様子を眺めているとミカエルがこちらを見た。その顔はなんの感情も浮かんでいないが「どうしますか」と問いたいのはわかる。
「ま、ミカエルは『人間に危害を与えられない』という前提がある以上、仕方ないからね。ここはいつも通りボクがいくよ」
「ですが、マスター」
「いいから。キミは人間を攻撃できない――そういう風に、プログラムされているんだから」
お気に入りのソファから立ち上がり管理室に行こうとするとミカエルは無言と無表情で訴えてくる。いや、そこで心配そうな顔だとか、不満や怒りでも、とりあえず表情筋を動かせばいいのに。
まあ、ミカエルとしてマスターであるボクが動くのは許せないのだろう。
護衛レベルならミカエは危害を与えず相手を無力化できる。しかし、相手は殺意満々だ。そしてアンドロイド兵士とは違い、サイボーグ人間はバッテリーを落とせば終わり、ではない。
リビングからすぐ隣にある管理室に入る。ホログラムに浮かび上がるのは各部屋、通路、そして侵入者の姿がマップ上に表示されている。
ボクはどうしたものかと少し悩んでから、ぽんっと手を打った。
「あ、そういえば新しいヤツの機能試してなかったんだった。ちょうどいいから実験するか」
空中に浮かんでいるホログラムにコードを素早く入力。
『制御型安全機構 A-827 制御解除しますか?』確認メッセージに迷わず『YES』を選ぶ。あとは起動コマンドを押すだけ。
ホログラムに映るサイボーグ――人間を見て、ボクは笑った。
きっと今の笑顔は、とっても人間らしく、醜悪だろう。
「屋敷もあげられないけど――ボクからミカエルを奪おうなんて、考えるのが悪いんだよ?」
『制御型安全起動装置A-827:対戦車ミサイル小型版 起動しますか?』
赤く浮かび上がった『YES』をためらいなく押す。
直後。何層にも防弾防音の機構が重なっているのに、飛び切り大きい爆発音が聞こえた気がした。
「生存者は……ま、いないよね。いくら機械化しても対戦車ミサイル食らって無事なわけないし。たえられるのなんて、ミカエルくらいじゃない?」
「さすがに私でも、無事ではいられないかと」
管理室の入口にミカエルが立っていた。基本、ボクがここを使うとき――侵入者をボクの手で殺すときはミカエルは中にはいらない。ただ『傍を離れない』『マスターのメンタル管理』あたりのプログラムで、こうして心配そうに立っている。あ、もちろん無表情だけど。
ホログラムが映すのは、散り散りに裂けた人間らしき物体とミサイルの高温で溶けかけている機械部品械。
「だいたい、なんで外側から侵入できるって思うのかなー。狙われてるのわかってるから対策するに決まってるってのに。外から入っても、トラップ部屋が連続ループしているだけで、どうしたって中に入れないのにな」
「僭越ながらマスター。普通はひとの住宅というものは外と中がつながっているものです。マスターのようにずっと中で引きこもっている方からはわからない常識かもしれませんが」
「やっぱりキミ、どっかバグってない!? 『オーダーに忠実』なアンドロイドはどこへ行った!」
「『オーダー』には忠実ですが?」
「ぐぬ」と変な声が出た。確かにオーダーには忠実だ。基本アンドロイドによる襲撃はミカエルが対処するし、こうしてボクが手を下すときは邪魔をしない。とはいっても、アンドロイドにほとんどを任せるようになった社会では、人間が暗殺しにくることは、ほぼないけど。
「……じゃあオーダー。紅茶のお代わりをお願い」
しぶしぶ呟くと、ミカエルはワントーン高い声で「畏まりました」と礼をした。
その時も無表情だったけど。なぜか笑顔が見えた気がした。
◆
美しい指先が、ゆっくりとティーポッドから紅茶をそそぐ。
今となっては骨董品である陶磁器のティーポッドに、希少品の茶葉を使って、ボクにはよくわからない七面倒な工程――わざわざいちからお湯を沸かして、蒸して、ジャンピングだかいう茶葉を技術を私用して――で紅茶を淹れる。
現代なら最高級の紅茶を用意することなんて、スイッチ一つ済むはずなのに、そんな面倒なことをするのは、ただたんにボクがミカエルがいれた紅茶が一番好きだから。それだけだ。
ティーカップに満たされた透き通った赤い色に満足して、口に含む。
「やっぱりミカエルのいれた紅茶が一番だな」
「恐縮です」
「ミカエルの紅茶のうまさは、じい様――カガノミヤ・リンがプログラムしたのかな」
「さあ、どうでしょう。あいにく、私は他のアンドロイドと紅茶の味比べをしたこともありませんし……」
「ミカエルはさ、ボクが人を殺すのは、イヤ?」
突然。話の流れを無視して切り出す。
一瞬、ミカエルの変わらない瞳がほんの一ミリだけ大きくなった気がした。
「……マスター、それは」
「正直ボクは気にしてない。人と関わることが少なかったからかもしれないけど、殺人がイヤって思わない。……ただ、ミカエルがボクにしてほしくないって思っているなら、イヤなんだよね」
紅茶をテーブルに置いて、真正面に立つミカエルを見返す。
「……もしもキミが望むなら、ボクはキミを自由にしても、いい」
ミカエルの眉がピクリと動いた。その反応を見て、なんだまだ表情筋は死んでないのか、なんてことを思った。
他の誰かにくれてやるつもりは毛頭ない。
だけど、この閉鎖的空間にいたらミカエルはボクに従うしかないし、人間相手に危害をくわえられないっていう縛りがあるたび、ボクが直接殺すことだってある。
ヘンな話だ。ミカエルは人造人間、アンドロイド、つまりロボット、機械部品の集合体。
そのミカエルが「ボクが殺人を犯すことを厭う」という感情を抱いている、なんてワケがないのに。
ただ、この結論に至ったのは、幻想の感情のためだけではない。
なぜなら。ミカエルの主人は。
「大体、ボクはミカエルの『マスター』だけど、『主人』じゃない。ミカエルは――キミを作ったカガノミヤ・リン、キミの正真正銘の主人のオーダーに従って、ボクの傍にいるだけ、だ」
ミカエルはボクを『マスター』と呼ぶ。それはミカエルにオーダーを『現在』与えていい立場のことを言う。
ただミカエルの本当の主は違う。ボクではない。
あの、異能の天才、カガノミヤ・リンこそが本当の主人。
カガノミヤ・リンが人生最後に作ったアンドロイド。全ての精魂を込めて作った最高傑作。
それを、死後、自分の遺産を相続する人間へと預けた。ドロドロの遺産争いが繰り広げられることを予期して。
「ボクは……ボクは、『カガノミヤ・リン』じゃ、ない。キミがどれだけ素晴らしいアンドロイドでも、それに報いることも、アップデートすることもできない。表情筋のバグすら直せない。そんなボクが、キミのマスターとして相応しいかどうか、なんて、キミの高速演算を使わなくたって、わかる、だろう?」
もうまともにミカエルの姿を見ていられなかった。声もみっともなく震えている。喉が詰まって、目元が熱い。ダサいな。アンドロイドの雇用解約を告げているだけで泣くとか。
きっと声の震えている振動も計算式にいれられて、ボクの涙腺が決壊寸前なことはミカエルはわかっているだろう。でも、ダサい顔を見られたくなくて俯く。
いつもはポンポンと言葉を飛ばすミカエルが、40秒ほど黙っていた。それからいつも通りの声音で話した。
「マスター、すこし、失礼してもよろしいですか?」
「え? なに? ………………って、痛ァッッッ!!!!!!」
頭に痛覚。衝撃。小気味のいいパアンという音。
しばらく思考がフリーズした。ちなみに衝撃で涙は止まっている。
頭の痛みと、綺麗にスイングを決めた後の姿勢のまま止まっているミカエルの手を見れば何が起こったかは一目瞭然だ。だが、自分の常識がそれを簡単に認められない。
―――― ミカエルが、僕の頭を、叩いた?
呆然としてミカエルを見上げる。
「ミカエル、なんで……」
「なんで私がマスターをお殴り遊ばしたか、ということですか?」
「めっちゃ丁寧に言いまわしても殴ったことにかわりはないからね? いや、そうじゃなくて、なんで」
なんで、殴れたのか。
ロボットの三大原則。
色々解釈の余地はあるし、物議をかもすテーマなのは重々承知だ。だけどカガノミヤ・リンがアンドロイドを作ったときから、大原則として決まっていることがある。だからこそ、ボクが代わりに、襲撃犯を処理することだってあるのに。
―――― ロボットは人間に危害を加えてはいけない。
信じられない、という顔をしているボクに対して、「ふむ」と考えるように無表情のまま首を傾げる。
それから、ゆっくりと。まるで芝居の一幕のように。
ミカエルはボクの足元に跪いた。
「確かに。私は人間に危害をくわえることはできません。ですが」
赤い、ルビーの瞳が、宝石の眼がボクを見据える。
「私にはある特殊プログラムが加えられています。それは――『一度だけ、プログラムされた決まりを破ってもよい』というものです」
それを聞いてハッとした。
驚くボクをよそに、ミカエルは跪いたままボクの手を握る。
その皮膚はやわらかく。人肌の体温をしていた。
「なので、私はそのプログラムを私用して、『人間に危害を加えない』という規則を破りました」
「は……? いや、なんで……? だ、いたい、そんな裏技あるなら、こんなことに使わなくっても……」
「私があなたを殴った理由、でしたね。なんで、や、こんなこと、とあなたはおっしゃりますが……」
ぎゅっと包まれた手に力がこめられる。
ボクの顔を見上げるミカエルは。
名前の通り天使のような美しさを秘めた造形で。それでいて、唯一の神様にあった、敬虔な信徒のような顔をしていた。
「あなたがあまりにもバカなことをおっしゃるからです。確かに私のプログラム上、本来の主人はカガノミヤ・リンかもしれません。ですが――私がお傍に仕えたいと、願っているのはあなたです。レンさま」
ふっと。ずっと動かなかった、ミカエルの唇の端が、3ミリだけ緩む。
だけどそれ以上は確認できなかった。
涙腺が暴発して、視界がにじんで何も見えなくなったせいだ。
「っ…つ、うっ……ひっ…、おまえ、ばか、だよ。わざわざ、そんな、大事な裏技つかって……こんな、ボクに……」
「そうですか? もともとこの特殊プログラムは使う予定はありませんでした。レン様に出会ってからは、あなたの傍を離れることはないと決めていましたから」
「……それは、」
「『カガノミヤ・リンからのオーダーだからか?』とたずねるおつもりでしたら、自分で頭に衝撃を与えてバグを起こらせて、もう一度あなたの頭を叩きますね」
「……ミカエルが調べるべきバグは頭じゃなくて、表情筋だと、思うよ」
みっともなくずっと泣いているボクの手を優しく撫でる。その絶妙な力加減も、プログラムされたものから来ているのだろうか。
だけど。そんなことは今は気にしなくたっていいだろう。
プログラムに則っても。それを裏切っても。
ミカエルが選んだのは、泣き虫で、平凡で、異能なんて発揮しないボクなんだから。
「……喉かわいた。紅茶、飲みたい」
ようやく泣き止んで、掠れた声でつぶやく。
「……ボク好みの紅茶を作れるのは、ミカエルしかいないんだから。これからも……紅茶、いれてよ」
ぽつりとつぶやいたその言葉は、高性能アンドロイドはしっかりととらえて。
それはそれは嬉しそうな声音で、「畏まりました、マスター」と答えた。
その声を聞いて、ボクは思わず笑ってしまった。
「……きっとカガノミヤ・リンの遺産は、世界で一番紅茶を美味しく淹れられる、キミの腕前だよ」
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