アリッド
aza/あざ(筒示明日香)
アリッド
「おかえり」
「おかえり」
「おかえり」
もう一度、言える日は、来るだろうか。
私は、暗い暗い中で、ずっと考えていた。
ねぇ、マスター?
【 アリッド 】
「おかえり、マスター」
センサーが察知し、私は自動起動して
私の
「ただいま、『アリッド』」
『アリッド』は私の
私は、AIだ。
私が生まれたのは正直偶然だった、とマスターが言った。
私は、観測用AIとして開発されたらしい。計画は途中で頓挫してしまったが。
「まぁ、無理だと思ったよね。悠長なこと言ってられる状況じゃないもの」
とは、マスターの言だ。
私の生まれた現代は、とかく治安も環境も悪いらしい。自然は度重なる汚染で崩壊し、上がり続ける気温に海も年々干上がって、雨も、降っても汚くて、国が水を取り合い戦争している。また、その化学兵器が汚染に繋がって、人口も減るばかりだとか。
……と、言っても私はネットで獲得し得る情報でしか世界を知らない。
私と言うAIは容量が大きくて、ネットを通じて外に出ることも、他の機械を細かくは操ることも難しい。オンライン検索したり情報を得ることは可能でも。
物理的なイメージを提示するなら、“ストローを使う”、とかだろうか。コップがネット世界、飲み物が情報、ストローが回線、飲むのが私……生物は飲み物をストローで飲めても、ストローを使ってコップには入れないでしょ?
だから、私はこの不便な
他のことも、同じだった。音声だって、挨拶程度を数種選択するだけだ。主語述語動詞名詞装飾語……わかっていても、私が持つ言語を正しく形にするには、処理能力が圧倒的に足らない。他に取られてる部分も在るし。満足の行く会話など、到底不可能だった。
マスターの話に、相槌すら打てない。
いつか、マスターが私用のボディを造ってくれると言ったけれど、あれから三年と五箇月二十五日六時間四十八分二十五秒経っている。
期待はしていないと言えば嘘になるけれども、マスターの状況を鑑みるに予想ではあと五年以上は無理ではないだろうか。だって、マスターはとても忙しいんだもの。
マスターのいないときはとても暇だった。なので、マスターが帰って来ると、私は寂しがっていた動物が飼い主へ飛び付くように、すぐさま出迎えるのだ。
「おかえり、マスター」
ある日、ふらふらしながらマスターが帰宅した。私は習慣として「おかえり」と言おうとしたのだけど、あまりにマスターの様子がおかしかったので、一拍間置くことにした。
「……おかえり、マスター」
「ああ、ただいま、アリッド」
カメラアイが映す彼の表情は暗くて。何か在ったのだと、そうそうに察した。
「疲れたよ……どうしようかな」
軽い調子で、呟くマスター。私は知っている。この人は本当に参っているとき程、軽薄な態度を見せるのだ。
負けず嫌いで、人に弱みを見せたくない人だからだろうか。AIの私には、まったく考え及ばないけども。
「マスター」
「え、ああ、ごめんね」
心底、疲れてるのだろう。顔色も、心成しか悪い。ずっとだったけど、今日は飛び切りだ。
マスターは、帰ると私に外界の話をしてくれた。土産話、と言うヤツだった。
今日は、変な奇病が流行っているのだ、とマスターは教えてくれた。
私は早速検索した。確かに、ニュースサイトから個人ブログ、SNSなどで話題になっていた。いろんな見解や意見が飛び交っていたけれど、だいたい以下の単語が躍っている。
“人体発火”
“からからに乾燥された人間”
“発症は二十四時間から一週間”
“最期は炭化して、炭の外何も残らない”
マスターの話も含めて纏めると、その奇病とやらは羅患するとまず皮膚が乾く。喉も渇くので、水を大量に欲する。だんだんその量が尋常じゃなくなって行き、内臓機能の低下、熱量の増加、場合によっては発火に至ると言うのだ。
人間は脂肪が在っても、水も在った。何なら殆どが水分だ。蝋と化して、溶けて火が付きはしても水が在る限り、完全に燃え尽きない可能性も在る。
けれどこの奇病は人体を燃え易く作り変えるみたいだ。そうして乾いた皮膚が、燃料となり水分すら蒸発させ、脂肪を燃やし尽くす高温を叩き出す。こうなると、水を掛けても消えない。つまりスプリンクラーが作動しても消えない。
マスターは、燃焼率がどうの、発火率は、と言っていた。最後は「対策、ったってなぁ……」零していた。
どうもマスターは、例の広域環境保護局の連中からこの疫病の対策も催促されているようだ。
広域環境保護局は、各地に在る世界保健機構に属した組織なのだと。少なくとも世間の認識もマスターの認識も私の仕入れた知識も、そう述べている。各国に支局が置かれ、この水戦争と環境汚染に尽力している……らしい。
疫病対策まで、医者ではないマスターの仕事なのかと言えば、広域環境局が対応しているのなら、そうなるのだろう。専門でなくとも意見は出させられる。
環境破壊や化学汚染は、場に適した疫病を生んだ、と言うことなのだろうか。
用途は違うが、私を導入してみては、と少ない語彙を継ぎ接ぎして、また接続済みのモニターに出して、マスターに進言してみた。カメラアイの捉えるマスターは驚いた顔で「きみを」と問うた。私は「イエス」と返答した。
私は本来観測用AIだった。開発目的の汚染観測とは違うけれど、感染観測としても転用は出来ないだろうか、と考えたのだ。感染観測して行けば、原因や感染経路の特定にもなって対応出来るかもしれないって。
マスターは眉を寄せ難しげな表情をすると、ふっと緩めた。
「うん、駄目かな。きみは容量が大き過ぎて、また、構造が繊細過ぎて、汎用が難しいって判断をしているんだよ。独立単体で動かすにも廉価版を作るにしても、お金がねぇ……まずその運営に漕ぎ着けるまでの開発費が掛かっちゃうよ」
苦笑して却下された私の提案。当初の予定より私は容量も構造も何も彼も変わってしまった。軽量で単純な構造を目指したはずが、計画が立ち消えたことで勿体無いからと、マスターがあれこれいじったせいだ。
趣味に転化したら、際限無くなって、なんて言い訳をつらつら連ねていた。同僚に。無論、同僚は怒ったそうな。でしょうね。
感情の育成とか、人格の形成なんて狙うから、そうなるんですよ。どれだけ私のために増設しているんですか。部屋、狭くないのに半分以上機材で埋まっていますよ。
「……」
……もしも。
もしもこのとき、私が運用されたら。
私は、……。
気付いたのは、奇病が流行って、五箇月と二十日、十五時間四十三分三十二秒経ったころ。
マスターは連日連夜、広域環境保護局の対策本部に詰めていた。そのマスターが、ある日急に帰って来たのだ。
大量の水などをカートに乗せて帰って来たマスター。私は久し振りの帰宅に、「おかえり、マスター」と迎えた。だけど。
「ただいま……」
嗄れた声で、私に応じるマスター。変だと思った。だって。
感知した体温が、平体温から程遠い高さ。
チェックした肌の表面が、乾いている。指など、一部罅割れて血が出ている。巻かれた包帯は、血が滲んでいる。
「マスター、マスター、マスター」
「大丈夫」
唇すら、かさかさでは無いか。
これは……。
それから、マスターは何も喋らなかった。
マスターは、私の諌言も忠告も、懇願も、無視した。
無視して、何かを作ったり、私をいじったり。
私は、休んでと言ったのに。
たまに大量の水と薬を飲んだり、目薬を点したり、リップを塗ったり……乾くのだろう。
なのに、手を休めなかった。
「マスター、マスター、医療機関に、医師に、」
通報しようと思い付いたときには、私は外部との接続を切られていた。
「……もう少しなんだ……」
私の訴えは、届いているのだろうか。うわ言のみたいに、零すマスター。何を作っているのか。増設された機器の裏で、唯一空いていると言っても過言では無いマスターのベッドの上で行われていて、私のカメラアイからは死角に当たって窺えない。
着々と、何かを作っている。水は減っている。
最後のマスターを、私は知らない。
マスターが途中で私を休止状態にしてしまったせいだ。
ゆえに、私はマスターがどうなったのか。
生きているのか、死んでいるのか。
あの疫病は特効薬が出来たんだろうか。
マスター。
「おかえり」
「おかえり」
「おかえり」
もう一度、言える日は、来るだろうか。
私は、暗い暗い中で、ずっと考えていた。
ねぇ、マスター。
あなたの話が、聞きたいです。
「─────わっ、起きた!」
感知センサーで反応した私を起動させたのは、知らない褐色の肌の、少年だった。
マスターはいなかった。どこへ行ったのだろうか。私は、視線を落とした─────“落とした”?
私は自らの“頬”に触れる。柔らかい。私は己の“手”を見た。五本の指だった。マスターが操るものと同じ形だった。首へ指を這わせる。指は感触を伝えた。喉が「ぁ……あ、……」震えた。
そこで、初めて私は自身がボディを与えられていることに気が付いた。
「……あのさー」
「え?」
「こんなところで寝てるとか……あんた、何者なの?」
少年が怪訝な表情をした。怪しむのはもっともだ。私は自己紹介をしていないことを思い出した。
「私は、観測用AIとして造られました。運用は終ぞ、されませんでしたが……。マスターからいただいた個体名はアリッド」
私が名乗ると、少年が目をこれでもかと見開いた。
「AI? ロボットってこと? ……見えないけど」
信じられないのも無理は無い。ロボットと言えばこの世界では鉄や合金の硬い機械だろう。私の体は殆どが有機物────植物に似た組織で出来ているようだ。
私がそう告げると、少年は「ああ、じゃあ『ドール』と同じなんだ」と得心した様相で頷いた……“ドール”?
「『ドール』とは……」
私は質疑する。昔なら自分で調べられたのだけど、この体では不可能らしい。私からの質問に、少年は再度目を丸くした。
「え、AIのくせに知らないのかよ。……まぁ、この南半球のちっさい国で起き立てじゃ、無理も無いか」
少年から教えられた『ドール』と言う存在は、元は極東の島国で生まれた人工生命体のことだった。表向き生体機械と位置付けられているが、その性能と高度な知能、豊かな感情は“新人類”と呼ばれる程だったとか。
今より水も資源も在った時代の、産物だった。
「特殊な有機電脳で、インターネットとか普通の通信は規格が違うから機器を使わないと使えないとか……とにかく、人間に近いらしい」
「じゃあ、この体は……」
その『ドール』の体を利用しているのだろうか。私は容量が大きいけども、少年の説く『ドール』の特殊な有機電脳ならば耐えられたのだろうか。私が自己の体をまじまじ見ていると少年が言った。
「……ま、今日日『ドール』と人間に差は無いよ。『ドール』のが人間より多いかもね」
少年曰く、現代の人間は『ドール』の技術を用いて辛うじて生き永らえているのだと言う。
「一般的な人間との違いは、『ドール』には消化器官と生殖器官が無いんだと」
人類は苛酷な環境に順応すべく、体の改造を余儀無くされた。遺伝子操作を行い、葉緑体を持つに至ったのは序の口で、有機素材で出来た人工の臓器を移植したり、一部機械化したりで延命しているのだとか。
「母ちゃんの胎にいる状態でまずされるのが、ゲノム編集と葉緑体の移植だって話。俺もされてるよ。酷いところでは、生まれてから人工心肺を入れたりするんだ」
酸素、うっすいからね。少年が笑った。
「普通だよ。普通」
少年は肩を竦めて「ここまでしか知らないけど」と教えてくれた。
私は、頭の回転が鈍くなるのを感じた……きっとこのフリーズに近い状態を呆然と呼ぶのだろう。そう、呆然としたのだ。
「普通……“常識”、ってこと?」
「まーね」
私が知る世界とはだいぶ変わってしまった。私は「あの、」あることに、感付いてしまった。
「何?」
「今は、その……いつなのでしょうか? 何年の、何月何日……?」
今は、いつだろう。私が知る世界は、汚染と温暖化で少なくなった水と資源を取り合って、戦争していて、疫病が……。私は、ようやく周囲が荒れ果てていることに気が付いた。
屋内なのでそこまでではないものの、ところどころ私のために増設された機器の隙間で植物が生えていたり埃に塗れていたり……どう見ても、数日数箇月と言った光景ではない。
「えーと……今はねー」
少年から私は、現状の情報をインプットされて行く。
私が休止状態にされてから、実に十年と八箇月……ええと、ともかく十年以上が経過していた。聞かされた私は、眩暈を起こした。
ぐわんぐわん鳴るスピーカーに神経を落とされた感覚だった。
コレがショック、だろうか。
少年の証言から推定して、世界は、私が休止して間も無く崩壊したらしい。
例の奇病は、元より乾いた世界では、風に煽られた火の如く、猛威を振るった。水は足りず人々は飢え、環境破壊は取り返しの付かないレベルまで来たのだとか。
人口も、人体発火の奇病が拍車を掛け、こっちは阻害剤など阻止する方法は見付けたものの、様変わりした世界では機械化に頼らねば満足に生活も出来ないため、減る一方だそうだ。勿論、広域環境保護局は、破綻した。
「人類は風前の灯ってヤツさ」
少年は、こう締め括った。
「あの、……」
少年の説明を静聴していた私は声を上げた。少年は「あ、」何かに気付いたみたいだ。
「俺、『ゲイン』ね」
親指を立てて己を指した。彼の
「ゲイン……他には誰かいませんでしたか?」
「え?」
「私の、マスターがいたはずなんです」
マスターを最後に見たのは、ベッドで何らかの作業していた姿。
そして、私が寝ていたのはマスターのベッドだった。マスターが、最後にいた場所だ。現在室内にいるのは私とゲインだけ。
“ただいま、アリッド”
……マスター……。
「マスター? 『ご主人様』ってこと?」
「えっと、所有者です」
「あー、『ドール』にもいるって言うもんなぁ。AIのアリッドにもいるか……見てないよ」
うーん、と唸ったあと、少年改めゲインが答えた。私はゲインの返答に「……そう、ですか」返した。何だか処理の能率が悪くなったような……コレが気落ち、て、ヤツだろうか。
私の目線が地を這っていると、「……でも」ゲインが考え込んだ後、続けた。
「黒い、人型の煤なら、そこに……」
躊躇いがちにゲインが指差した先は壁際で、背凭れの無い椅子が在った。
「あ……」
壁に凭れる人の影がそのまま染み付いたみたいな、煤が在った。普段は、枯れた植木鉢が置かれていた椅子だ。植木鉢は、床に下ろされ椅子の横に退けられ、転がる大きなペットボトルの山に埋もれていた。重ね着だったのか、服の大半は燃えていたけれども、白衣が。
マスターの着ていたものによく似た、白衣が燃え残っていた。
「……」
あ、ぁああ……っ。音にならない悲鳴が、内側でした。心の声、と言うヤツか。
私は立ち上がる。初めて立ったから、一瞬バランスを崩して「わわっ、と、」ゲインが支えてくれた。私は礼も言えぬまま、ゲインから離れ一歩一歩確かめながら煤へ近付いた。
マスター。多分、この煤は、マスターだ。ゆっくり、私は辿り着いて。
「……」
白衣へ手を伸ばした。
白衣に指先が掠った刹那。
胸から、何かが競り上がる。鼻の奥を通り抜けて、目の裏がじーんと。
「ぁっ……──────」
私は喉奥から語句を伴わない音を迸らせ、膝から崩れ落ちた。
コレが、俗に言う号泣となのだな、なんて。
冷静な片隅で思った。
不思議にも、私はこの奇妙な感覚に違和感を覚えなかった。
マスターが調整してくれた御蔭だろう。最期まで。
ねぇ、マスター。
あなたの話が、聞きたかったです。
あなたの話に、合いの手を入れたり、したかった。
私の昂りが落ち着いてから、ゲインが喋り出す。
「今の人間てさ、だいたいが過去の遺物から拝借して生活してんの。泥棒みたいなモンになっちまうんだろうけど」
生きるため仕方ないことだろう。責められることでは無いし、ゲインも納得しているはずなのに、横目で捉えたゲインは仏頂面だった。どこかで引け目を感じているのかもしれない。
「一応さ、もし遺体が在ったら埋葬もしてるんだぜ? 砂ばっかりになっちまってるけど」
地面は高温で焼かれ乾くため、殆どが砂に覆われていたが、弔うために遺体は砂に埋めるのだと言う。昔と異なり、今の人間は材質が違うせいか、焼くよりスタンダードになったそうだ。ゲインの話を、私は涙の止まらない中聴いていた。
「……んでさ、」
一拍置いて、ゲインが言った。
「この廃墟さ、セキュリティが頑丈な部屋が一つだけ在るってんで有名だった訳。
“開かずの部屋”ってさ」
「開かずの……」
「そ。セキュリティの堅固さが尋常じゃないって。で、腕試しで俺も来た訳」
「……」
「準備滅茶苦茶してさー来たんだけど、セキュリティ突破しても、何か重しされててさ。抉じ開けたら、すっげー機械でバリケードされてたの。ここいらに在る機械と同型だから同じヤツかな。何に使われてたか知らないけど」
こんこん、と、横に在る機材をゲインはノックした。ここに在る機械、と言うことは、私のために増設された機械の一部だろう。私が体を移したから用済みになったのをバリケード代わりに活用したのかもしれない。……マスター。
それじゃ、自殺じゃないですか。
どうして治療してくれなかったんですか。
どうして生きていてくれなかったんですか。
私、やっとマスターの話聞いたら返せるんですよ?
『会話』が出来るんですよ?
「おかえり」だけじゃなくて。
もっともっといっぱい、話したかったです。
落ち込む私を余所に、ゲインは話し続けていた。
「けど、アリッド見付けてわかったよ。
アイツは、アリッドを守っていたんだな」
自分が死んだらどうなるか、わからないから。私は背後のゲインを見た。
ゲインは黒い煤を、マスターだったものを真っ直ぐ見詰めていた。
「駄目だって悟ったから、セキュリティを強固にして、バリケード作って、守ってたんだろうなぁ」
私が休止状態になったあと、マスターが死んだあと、世界は混乱した。暴動も起きた。略奪も、傷害も、殺人も。
「並のヤツなら逃げ出す仕様にしてたしな。混乱期じゃ、こんなところ、入る準備する余裕も無いし」
沈静化して、比較的に危険が少なくってから、私が起動出来るように。私のために。
「凄いな、アリッドのマスター」
私は、ゲインの感嘆を耳にしながら、マスターの白衣へ、マスターの亡骸である煤へ手を伸ばした。白衣の袖を掴んだ。
ねぇ、マスター。
私、あなたに触れたかった。
お喋りしたかった。
でもね。それより。
生きた、あなたのそばにいたかった。
不自由な
あなたが生きてさえ、いてくれたら。
あの不自由な体で。
「おかえり、マスター」
って。
「それだけで、良かったのに」
「本当に残るのか、アリッド」
「はい。マスターを置いて行けません」
あのマスターの煤は、染み付いて剥がすことも叶わなければ、どこにも動かせそうに無かった。壁をぶち抜くのは、部屋が崩れそうだし。
だったら、私が残るしか無かった。幸い、私はご飯が余り必要な体でも無いみたいだ。有機物で出来ているのにね。葉緑体ゆえかどうか知らないけれど。
ゲインは、世間知らずで、また知る手段も失っている私が気懸かりっぽい。何度も「『ドール』の体だからって、完全に栄養摂取が要らない訳じゃないんだぞ? ちゃんと調べてもらおう」と言われた。あそこの部屋を開けて、私を起こした責任も感じてるようだ。だけど、私は頑として首を縦に振らなかった。問答の末、折れたのはゲインだ。
「はー。何日かに一回は来てやる。『ドール』用の栄養剤とか、配給してやるよ。ただし、ここの機材と交換な」
その前に『ドール』に詳しいヤツ連れて来なきゃ、ああ、アイツならわかるかなぁ、などとぶつくさ呟いている。
「ゲイン」
「何」
「ありがとう」
私が口角を上げ、微笑んで礼を述べると、布を巻いた後頭部をがりがり掻いて。
「しょーが無いからな……何日って、確約はしないぞ」
唇を尖らせ、不機嫌そうに、
ゲインを見送ると、扉を閉めた。ゲインから、家の外は危険だから、共に来る気が無いなら部屋から出るなと言い渡されてしまったのだ。セキュリティは、ゲインが元通りにしてくれたそう。これでゲイン以外、ゲインの許可が無ければこの部屋を開けられない。
あと、スプリンクラーは使えないから火に気を付けろ、とも注意された。劣化もそうだけれど、プログラミング上書き換えられていたと。
私のせいなんだろう。万が一スプリンクラーが作動したら、増設しまくっていた私の前の体がどうなるかわからなかったから。
「マスター」
私は、ベッドに腰掛けた。ベッドから、マスターの煤がよく見えた。
「ねぇ、マスター。次にゲインが来たら
“おかえり”って、言っても良いかな?」
もう、マスターに言うことは叶わないけれど。良いだろうか。
「ねぇ、マスター。良いかな」
マスターから、当然返事は無い。私は、ふっと、笑った。
マスターなら、“良いんじゃない? 遠慮せず言っちゃいなよ”って、言う気がしたのだ。
「そうだね、マスター」
相槌の無い会話を楽しみながら。
私は、いつになるか予定不明の訪れを再び、待とうと思った。
そうして出迎えよう。
「おかえり」
って。
【Fin.】
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