第3話 チャペル 前編
陽が落ちかけて辺りは薄暗くなっていた。
午後六時過ぎ、田辺譲は職場のホテル『星華』の敷地内にある遊歩道を歩いていた。
会社から支給される制服に身を包み、コートを持ってこなかったことを少しだけ後悔した。
さすがに四月になったばかりの夕暮れ時はまだ肌寒い。
このホテルは本館が短期宿泊客向け、別館が長期宿泊客向けとして営業をしている。
創業から百年を越す老舗ホテルで、田辺は総支配人をしていた。
昨年、三十五歳になったばかりで総支配人に就任し、周囲に助けられながらもなんとか一年が過ぎた。
そのホテルで今度、結婚式場を併設することになり、今日はオープニング記念のイベントが盛大に行われていた。
チャペル担当の宇佐美響子がイベント参加者たちを本館へ送り届けている。イベント参加者は近隣から来ている人たちもいれば遠方からきて、このホテルに宿泊してイベントに参加している人たちもいた。
響子がその宿泊客たちを本館まで送り届けている間に、チャペルスタッフが数人残り、後片付けをしていた。
田辺はその様子を見にいく途中だった。
チャペルへ向かう途中のカフェを覗く。元総料理長の佐伯雅之を引き留めるために始めたカフェだが遊歩道を散策する宿泊客に人気で盛況だ。店内には佐伯の他、バリスタの松本達也の姿が見えた。
昼間は賑わっていた遊歩道やカフェもこの時間になるといつもの静けさに戻っていた。
カフェを通り過ぎると分かれ道になっていて、チャペルへ向かう道と遊歩道の続きがありその先は本館に繋がる。
田辺は迷わずチャペルへの道を歩き出す。
チャペルの白い建物が見えた時、スタッフの数人がワゴン車に乗り込むのが見えた。
「総支配人。お疲れさまです」
スタッフの一人が声を掛けてきた。
「片付けは終わりましたか?」
「最終確認でまだ二人残っています」
「みなさんはこれで上がりですか?」
「はい。今日はこれで終わりです」
「そうですか。気をつけて帰ってください」
「ありがとうございます」
スタッフたちは疲れを感じさせない元気な声で挨拶をして帰って行く。
今日のイベントの盛況が気持ちを高揚させているのか皆、明るく元気そうに見えた。
(後で疲れが出なければいいが)
田辺はワゴン車を見送ってから建物の前にある庭園へ歩いていく。太陽が沈み切った後で静けさの中に波の音が響く。昼間の賑やかさの中では感じることの出来ないものだ。
田辺は昼間より、どちらかというと夜の波の音が好きだった。
〇〇〇
チャペルの広間で沈む夕日を横目で見ながら片付けをしていた島崎克巳は少し焦っていた。
日が沈みきる前にここを施錠しなければいけないのだが最終確認がまだ残っている。呑気に夕日を眺めている場合ではないと自分にいいきかせるが、同じく最終確認をしている堀内貴弘は焦る様子もなくのんびりしている。
堀内の態度に苛立ちを覚えながらも庭園を見回ることに集中した。
島崎と堀内はこのチャペルのオープニングスタッフとして半年前に転職してきた。
チャペルのオープニングスタッフはみんな同じ年代だが、前職は様々だった。
面接官を務めた、総支配人とチャペル責任者、カフェ責任者の三人は人柄とやる気で選んだと言っていた。
堀内の行動を見ているとハズレではないかと疑いたくなってくる。
その堀内を見るとズボンのポケットから何か出して口に入れていた。口がもごもごと動いている。島崎は大きなため息をついた。常にこんな状態だ。暇さえあれば、隠れて何かを食べ、時には煙草を吸っている。
チャペル責任の宇佐美さんからは接客業なので就業時間の喫煙は控えるように言われているが守られたためしがない。
それに堀内は見回りをしているふりをして、庭園に出ているが、ずっと携帯を気にしている。
誰かからの連絡を待っているのだろうか。
二時間ほど前までこの場所でイベントが行われていた。三十人ほどが披露宴で出される食事をとり、ウェディングドレスの試着や教会の見学をする。明日以降もイベントは続く。その準備やイベント中も堀内は誰かに隠れてすぐさぼろうとしている。それを別のスタッフに見咎められて喧嘩を始めていたのだ。
島崎は、明日にでも宇佐美さんに言って堀内とのペアを変えてもらおうと考えていた。
もう一緒に仕事をすることは出来ないと思った。
島崎が庭園の見回りが終わるころには太陽は沈みライトアップがなければ暗闇が広がっていただろう。急いで広間に戻ろうとした時、声がした。
「終わりましたか」
振り返ると総支配人の田辺がいた。
「後は施錠だけです」
島崎が答える。
田辺はスタッフと一緒に室内に入ろうとした時、視界の端に何かが見えた。と同時にドスンと鈍い音がした。
田辺は音がした方を見ると大きな物体があった。側には堀内が腰を抜かして座り込んでいた。
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