王国

アキ

王国


 GRS180クラウンロイヤル、平成19年式97000km。六ヶ月先に検査有効期間満了。



「まあ腐ってもクラウンだからね。値が良ければ考えますよ」



 オーナーは自信満々気に云う。

 ハッタリだ。衝突被害軽減ブレーキ付きの現行型の軽自動車がカーポートに停まっている。

 加齢のために小回りの利く車に買い換えようとして、下取り価格が芳しくないために手元に残しただけだろう。

 


「事故はありました?」


「ここだけ、」



 指差したリヤバンパー角に擦り傷、連続したアウターコンビネーションランプレンズにもヒビ。

 高齢者の起こす交通事故をメディアがこぞって取り挙げる昨今、こんな程度の自損事故でも家族に咎められたであろう事は想像に難くない。



「これ。保安部品だから、最悪改善命令ありますよ」


「大丈夫でしょう、少々は」



 涼しい言葉とは裏腹に、声が微かに緊張の色を帯びた。

 残念だが僕は知っている。その少々の恥を極端に嫌う人種の選ぶ車種なんだ、これは。





 助手席ドアのヒンジのナットが緩く、そのせいで少しきしんだ手応えがある。

 無言で何度も開閉して音を確かめる僕を前に、オーナーの口元が強張ってゆく。



「ちゃんと直せてないねえ、」



 嘘ではないが、真実に満ちているとも云えない。僕は、鈑金業者が増し締めを失念しただけだろう、という意味で呟いただけだ。

 次にあなたはこう云う。ありふれて素人じみた言葉を。



「経年劣化でガタが来てるんだろう。少し前からそんなだよ」



 僕はそれ以上の追及はせず、ニコニコと検査証の写真を撮る。次に、コーションプレート。最後にエンジンカバーを外してシール部分を随所に撮る。

 とくに理由は無い。原動機、補機類ともいたって好調だ。タイヤはREGNO。ディーラーに勧められるがままに付けたような上級銘柄がいまだ深い溝を残している。


 オーナーは離れた所から仁王立ちで僕を眺めていた。

 足回りは乗らないと分からないけど、億劫なのでオーナーの人柄で判断することにした。





「6万円です」


「…はあ。そんなもんかね」


他所よそさんは5万円じゃない?違うかな、」



 この手合いは堅い店にしか査定を依頼しない。そして、それらの店は往々にして貿易のパイプがまるで貧弱である。

 シュレッダーダストで3万円、自賠責の返還保険料で5000円。国内オークション相場ではR評価修復歴ありでアベレージ5万円。ディーラーは必ず安牌を切る。

 ドアパネルの脱着鈑金塗装が修復歴にあたる、と思い込んでくれているのは分かった。もちろん余計なことは云わないけど。



「…いや。どこも3万円だった。参った、まるでお見通し」


「まいど。印鑑証明あります?」



 移転登録の書類が揃ったところで、オーナーが力なく笑って云った。



「これ6万円って、もったいないと思うだろ?」


「はい。だから買い取ります」

 


 2500cc以上のセダンかハッチバックがあったら探して欲しい。4日ほど前、そんな依頼が来ていた。

 行き先は東アジアかアフリカ大陸じゃないかな。

 直販に恵まれなければそっちに出そうと思う。





 ーーーーーーーーーーー




 成績表を前にして、改めてグラフを確認する。

 何故か、様々な業界において営業職とはどこか古典的で、扱う単価が大きいほどアナログな風習が続いているものだ。

 成約件数・商談件数・成約率。僕の今月は、どの値も他の営業の倍から三倍を超えている。入社初月から現在まで、瞬間的にすらトップを譲ったことはない。


 尤も、これは勝てる品に絞って社内向けの数字を作り出しているに過ぎない。額の大きいものは他所も張り合うし時間がそれなりに食われるので、経験が足りないなどと適当に仕立ててロートルに投げることにしている。



「火星石油電力の大型集塵機ベンチュリースクラバー、第一見積りが6億だそうです」

「どこ?」

はなぶさ商事、」

「無理っぽいね。専務と行ってくる?」

「それは…最近は購買が厳しいんで、どうでしょうか、」

「何とかこじ開けようよ。主席に話してみて」



 不毛な会話と、アナログな訪問。人間関係とは良くも悪くもいびつな力学で、それで1億円の差が埋まることすらままある。営業とは得てしてそこへつけ込み、あらゆることを追い風にして、最終的には受注を、利益を獲れば佳しとする。

 ただ、何度も足を運び、相手方の時間を割いて『お願い』するのはもはや営業と呼んでいいのか分からない。火星石油の電力部が僕なら、この男に任せるだろうか。





 火星石油は、地場の主要な商社八社の大株主でもある。弊社の取引の九割方が火星石油相手なのだから、最上得意というか会社存続の生命線なのであるが、向こうからすれば仕入先はどこでもいい。一定の金額を上回る仕入れは見積りを最低5社から取り、競合させる規定がある。

 仕様満足を前提として従来より経済的合理性を求める。火星石油を含め、社会全体がそういう方向へ舵を切っている。ここ十年で弊社の売上高は20%ほど減ったそうだ。十年前の弊社を僕は知らないが。




 メーカーから直販で仕入れ、施工も直発注で一番安く済むのでは。

 そのように請け負うメーカーも中にはあるが、グループ連結従業員数一万人超規模の製造業とはそう簡単なものではない。

 補修や御用訊きといったアフターサービス、保証。そういったある種のバッファが一枚欲しいということだ。機械自体の欠陥や施工の瑕疵など不測の事態のあったとき、平たく云えば、商社のせいにできる。

 誰しもが自分で責任を負いたくないし、云うまでもなく一人の購買担当者が億単位の損失を被り切ることは不可能に近い。





 遠慮がちな視線をチラリと感じた。今月、というより万年ドベに位置している中年の営業マンである。剃りきれないのか常に青髭で、半袖のワイシャツの下には白のランニングが透けている。

 気に留めず、僕は喫煙室へ向かった。



 ひとりしかいない喫煙室で、ぼんやりと煙を吐き出しながら思いに耽った。

 上席に褒められようが申し訳程度のインセンティブが入ってこようが、僕には社内での数字は守りでしかない。

 給与所得者なんか守りに回った臆病者で、まさしく、今の僕は半分その通りでもある。





 間抜けな失敗は枚挙に暇が無い。


 とあるプロダクトの開発時には、制作費が想定以上に嵩むことが判明し、やむなく断念した。木材にNCルータでザグリ加工を施すことがここまで高額かと、その時は驚いたものだ。

 入念に進めてきた仕入先の確保、ガラスシェルフやコンクリートフックなど潰しが利かないパーツの代金30万円ほどがパーになった。



 プログラミングを習得してアプリケーションの開発をしようと試みた時などは、なんと最初の”Button”で躓いた。

 エラーが四つ発生して、ひとつエラーを修正すると何故か他所で新たに五つのエラーが発生して、修正しにかかるとまた別のエラーが増えていく。頭を抱えたくなるような倍々ゲームである。

 足掻きに足掻いて、最終的にエラーが千を超えた所で僕はプログラミングに向いていない、ということを嫌というほど理解し、諦めた。

 中古のMacBookPro代の13万円余がパーになった。ちなみにこの小説はそのMacを使って書いている。作ろうとしたアプリのアイデアはあまりにバカバカしくて今は云えない。



 全て自己資金だから借金や滞納等は無いのが救いで、ただただ形ばかりの、屋号の載った名刺三百枚が手元に残った。

 やたら紙質とフォントにこだわった名刺に書かれた『代表』の肩書きは、今見てもちょっと笑える。



 


 莫迦げた経験だが、得られたのはそう悪い事ばかりでもない。

 仕事をする振りをして上席のご機嫌を伺っているような給与所得者には、ベテランであろうと当然のように負けなくなった。



 手が空いた時に自動車の売買をするようになって二年ほどになる。

 時流が頻りにせどり、せどりと云うものだからウトウトと始めてみたら、これがなかなか。国税が鬼より恐いからきちんと数字は申告しているが、それでも本業に迫る収入だ。抜かりなく住民税だけ普通徴収にしておけば、勤め先からのやっかみも気にせず済む。

 何よりサラリーマンとして、月給という名の申し訳程度の施しを頼りに生きなくていい。





 バタン、と乱雑にドアを開けて男が入ってくる。

 パチンコ店の名入りのライターをひらひらと揺すりながら、唇には既に火がついた煙草を咥えていた。食に興味が薄く、昼にはカレーばかり食べている馬鹿な同僚だ。



「金魚の糞よな」


「なにが?…なら俺ら、そこへたかるバクテリアかよ。商社なんかそんなもんだろ」


「確かに」


「メシどこ。カレーでいっかな」


「またかあ、」

 





 ーーーーーーーーーーー




『車を手放そうと思っているんだけど。…良くしてくれるなら、』



 以前に付き合いのあった客から電話があった。



「いいけどワダさん。買い換えるの、」

 

『そうそう。ほとんど嫁しか乗らないし、5ナンバーでいいんだ』


「じゃあ、十六時に伺います。よろしい?」


『よろしく』



 約束の十六時、挨拶もそこそこに査定にかかる。


 ZVW30プリウス、Gツーリングセレクション。平成24年式42000km。評価点4.0程度。

 下調べしてあるオークション相場では135万から110万円。間をとって125くらいで売りたい。



「トヨタ、いくら?」


「85だって。」


「…検査、通したばかりだね。今月なら95で買い取ります。どうですか?」


「お、さすが。そこまでいくと思わなかった。是非それでよろしく、」


「印鑑証明あります?」


「明日取ってくるよ」



 代車でとんぼ返りした僕はワダさんに現金を支払い、現物をヤードへ持ち帰った。これで一旦は安心だ。人の心は三十分で変わる。

 帰る時間にあわせて馴染みの買取業者を呼びつけた。電話一本で飛んでくる。





 ーーーーーーーーーーー




 カレーの同僚が突然の欠勤からの退職を決めてからひと月が経った。ありがちな話で誰も気にしない。

 特に連絡もせず放っておく。早々に見切りを付けた彼を、僕はそういう形で応援したい。


 彼の業務引継の為に後輩とふたりで仕入先を同行訪問した帰りだ。禁煙のはずなのに煙草臭い営業車の中でなんとなく話をした。



「営業。大変ですよねえ」

 

「そう?」


「やっぱ詰められますし…先輩、しんどく無いんならもう天職でしょ。俺も考えようかな、とか」



 顔はどうにか誤魔化し笑いの体をとっているが、ヨウジの声には虚無の色が漂っていた。



「なんか僕、ひとりで延々とドラクエ3のレベル上げやってたらしい。小二くらいのとき。」


「なんすかそれ。」


「や、儲かるし楽しいってことだよ」


「あー。アキさんくらい数字やってたらそりゃあ、」




 僕らの所属は営業と施工管理を組み合わせたような部門であり、大型機械を扱う商社にはよくある形態である。世界的には総合商社というのは日本独特のビジネスモデルということらしい、という話はどこで読んだのだったか。


 とにかく、昔ながらの年功序列でいままでもこれからも年寄りが幅を利かせ続けるだろう。何十年後に部長クラスに上がるか、間接部門を省いてコストダウンしつつより具体的なコンサルティング力が強い新興企業に成す術なく力尽きるか、どちらが早いか。





弊社うちの偉い人が云うところの営業なんか営業じゃない。ただのマスオさんだろ」


「ッハハ、確かに。何も残らないっすね」



 この会話だって、会社に帰着したら他の同僚との話の種にするんだろう。

 ヨウジは誰にでも尻尾を振る男で、それが世渡り上手のつもりなのだ。


 僕がここに入社してすぐに着手したことと云えば、火星石油の購買担当者と部門首席の身辺調査だった。

 多くの人には誇りがあるし、疵だってある。膨大な無駄と長い年月をかけてそれを共有してゆくことを営業というならば、その大部分は金で得られる情報でしかない。仲が良いから、気に入られたからお願いして買ってもらえるなんて営利企業に対しては妄想だ。



「それで、辞めるの?」


「いやそうじゃ無いんですけど、うーん。」



 迷って苦しんで、他人儲けさせてどうするの。

 時おり自分に投げかけたくなる尖った言葉は飲み込んで、作業服や安全帯を積んだ車を静かに走らせた。





 ーーーーーーーーーーー



 MH21SワゴンR、平成18年式126000km。五ヶ月先に検査期間満了。シリンダーヘッドガスケットから少量のオイル漏れが認められる。

 これはもう飛び道具にしかならない。

 金の無い客…クレジットが利かないか、新免の若者か、年金暮らしの高齢者の足がわりに回すほかはない。車体をスクラップとして5000円、自賠責の返還で3000円。そこまでなら最悪でもペイできる。



「ちょっとでも足しになればと思って、」



 金髪で襟の伸びたTシャツの女が傍に立って云う。手にはやたらとメタリックで巨大な財布を携えている。

 僕はエンジンルームから顔を上げて云う。



「3000円です。どうかな、」


「うーん…もうちょっと頑張れない?」


「買う車、もう決めてます?」


「あー、違うの。ウチ生活保護になるからさ。まず滞納してる支払いに充てなきゃだめなんだって。マジ糞だよねえニッポン」



 自動車は多くの人がおそらく最も身近に触れる高額商品であるだけに、様々な事情が露わになる。

 見たくないものまで見えてくるほどに、深く。



「そっか。ごめんけどこれは3000円まで、」


「ふーん。…まあいいや、それで」



 僕が売買契約書を書いている間、水垢のこびりついた暗いアパートの窓から、客の子が無表情でこちらをじっと見ていた。





 適当な定食屋で昼食を摂った後、タブレットでネットニュースを流し読みする。

 数時間前に逮捕されたという男の話題がトップを埋めている。

 金目当てで首都圏のマンションに押し入って住人の女性を刺殺し、現金5万円を奪って逃走。

 或いは、介護従事者の待遇改善の必要性を説く記事。

 働き方改革の是非を問う記事。

 最低賃金が何円上がったと知らせる記事。






 僕はハンカチを口に当てて小さく欠伸をしてから、安っぽいグラスの氷水に口をつけた。心はもう他所事へ飛んでいる。

 頭の中のリストを捲り、顧客情報を当たる。

 もちろんクレジットカードを案内して、ついさっき仕入れた廃車寸前の車をリボルビング払いで売るためだ。新規は破産者を除いてまるでザルなカード屋を知っていた。10万円分のショッピング枠があれば十分である。



 直販は、やらなくもない程度に留めている。読めない上に手離れが悪い。

 とくに格安で売って後からあれが悪いのここが壊れただの云われた日にはたまらない。がめつい客は得てしてそういう嫌いがあるので一切相手にしない事にしている。

 どうにも金が無くて日銭にも困っている貧乏人は上客だ。丼勘定で目先しか見ないうえ、他に選択肢が無いから話が早い。ギブかテイクかで云えばテイクを繰り返しているのだけど、客は何故かギブだと勘違いして感謝する。


 クレジットカードの加盟店審査は、キャッシュレス決済の乱立期である現代において、非常に簡単なものだった。




 ーーーーーーーーーーー




 イズミからLINEの着信が入った。


栗勝くりまさあるよ』


 イズミの祖母が作っているというそれは何度か相伴に与り、今ではすっかり好物になってしまった。

 栗に勝る甘味だから栗勝。そんな南瓜カボチャの品種だ。

 変なスタンプを返事代わりに送ってから向かう。

 玄関先に車を停めると、まだチャイムも鳴らしていないのにイズミがドアを開けて顔を出した。

 


「なにその車…キモ」


「ほら。おみやげ」


「ありがちゅ。お母さーん、先生きたあ」


「へへ。めんべい」


「最近色んな種類あるのな、」


「また顔変わったよね。なー、コーヒー行こ」



 顔が変わった。

 

 よくそう云われる。

 同窓会で髪を整えてスーツを纏った僕を見た元同級生は、最初は誰か判らず会場のグランドスタッフかと思ったという。

 違う体験や思想を得れば相貌が変わるのは当然だと自分では思っていたが、世間ではそうでもないらしい。





 ーーーーーーーーーーー




 飴色に染まったナラの引戸を開けて、入口をくぐって三和土たたきを踏む。

 しばらくのち、主がばたばたと履物をつっかけながら通り廊下の奥から現れた。



「おっ、アキちゃん。相変わらず、」


「最近やってないけどね」


「またゴミ拾いかあ」


「客が聞いたらお怒りだ。それ」


「ま。お茶でも、」



 久しく足が遠のいていた老舗の金物店へ来ていた。県内でも数少ない天然砥石を扱う店で、日本刀をいでいたころには随分とお世話になった。

 イズミの家に寄った後、特に用は無いがついでに挨拶に覗いたという体である。



秤屋はかりやに行ったらしいやん、」


「あれ、云ったっけ」


「遠いんで普段あんまり話すことないけど。あそこの娘、同級生やから」



 一年振りに会う大谷さんは艶のある黒髪を少し短くして活発な印象を増した。

 それでいて、静かにお湯を点てて山吹色の煎茶を注ぐ様は、声をかけるのをためらうほど色濃い。



「お母さん、顔がポワーなってたで。いまどき手紙なんか送ったら女のひとには毒やわ、」





 大谷さんは楽しそうに揶揄からかって碗に漂う湯気に鼻先を向ける。

 石油ヒーターが暖かい風を送り、振り子時計の音が壁際の大抽斗おおひきだしに反響するほか、店内は静まり返っている。





「…砥いだんやろ。ひいらぎの、」


や」


「うそ、」


さびだらけだったし。…なんで見せたがるのか判らなかったけど」



 柊は、浅水あさみずと並んで亀井の傍流であった家だ。

 あの時は確かにたまたま行きがかり上、奥へ通されて接待を受けた。そして久しく名家と羨まれるに相応しい数の書画・器・二十口を超える刀に出会ったのだった。

 だが、それらの素性でなく数を誇るような当主の振る舞いは、現代にあって薄れゆく過去の栄華にしがみつくようで、僕にはひどく泥臭く見えた。




『一帯が戦火で焼け野原になったあとはじめに建て直したのがここよ。ありものの木材をかき集めてもらったから、構えはここらでいちばん粗末なの。』


 柊の令室は自嘲するような言葉を誇らしげにも語った。ぼかすのではなく、それは染み付いた二面性だった。

 そうして謙遜し、当方が『さかえあるこちらにあって真っ先に皆さまがうれえる御家だったのですね』と添えて表裏二面の応酬が完成する。




 現代の柊は秤屋の暖簾のれんのもとに、他所よそから取り寄せた香木を並べるようになっていった。

 つまり総ては暖簾を残し受け継いでゆくため。

 当時、絶対的な価値基準を任すに足るとされた秤座はかりざを統べた家を受け継いでゆくため。

 そこにどれほどの心を注ぎ込んできたのか。どれほど試し、そして誤ってきたか。所詮、外の者には分かり得ないことだ。





「それが継承やと思うんやろ。あっちはほら、絲原いとはらが在ったから」


「…」



 少なくとも刀剣の世界においては、保守的なものこそ上等と考える時代はとうに過ぎた。本歌ほんか物にロマンを見出す古道具好きがありがたがるだけで、本来は新旧の別なく、優れているものが優れているのである。


 職人たちが代を超えて連綿と練り上げてきた技術と魂の賜物たち。

 年月とともに技術もまた歩みを進めて、現代、それらの多くは造作もなくまたたきの間に、同等以上の機能性と美観を備えたものが模される。

 人の手で成すかどうか、は、もはやコストの問題となった。





 鉄師てつし、絲原。

 刀工は名を残し、砥師とぎしは富を残すと謂う。では鉄師は何を残したのだろう。

 今となってはもう誰にも解らない。


 僕からすれば、夢物語のような起承転結こそ如何物いかものだ。

 何も起こらず起こせず死んでいく人がほとんどだというのに。

 次々に謎が現れて順々に総てが解けるなんて、おかしい。

 眼前に在る障礙しょうがいを誰かが除いてくれるなんて、おかしい。

 見たくない事実に目を背けるのは、大なり小なり、人の心の機微と云えると思う。

 無いものを在ることにするのは、まるで救いを乞う姿に似て…





畢竟ひっきょう、一国一城一家の心鉄しんがねは様々ありますれば、」



 大谷さんの眩しい微笑みは、揺れる水面にみおいていく。



「会えるものは全部会った方が楽しいやろ、少年」





 帰り際、僕はポケットに入っていた物を差し出した。



「また来ます。…これ、良ければ飾ってあげて」


「うわ可愛い。フクロウ」


「眼がよく見えるように、って。僕の部屋にも同じのを置いてる」


「…お揃いやんかあ。ありがとう、」





 彼女は真っ白で小さいふくろうを大事そうに両手の中に抱き、俯いて胸元に引き寄せた。

 大谷さんの左眼は、今はまだわずかに光と色を感じるが、徐々に視野が欠けていき、いずれ視力を失う。そういうやまいだ。



「毎度、」



 僕の病は何処にあるだろう。

 引戸を開けると相生鼠あいおいねずつくばいが響く。


 リン…


 こもった高い音が僕を見送った。






 ーーーーーーーーーーー




 久しぶりに何も予定のない休日だった。


 昼食を片付けたあと、自室の廊下と居間の板張りを拭き上げた。大窓を開け放して陽の光を部屋へ招き入れる。玄関と出窓のサッシもき清めて、わずかに肌寒さを感じるががそのまま少し開けておく。


 掃除は良い。汚れを落とすのに没頭していると自分の心までが澄んでいくように感じられて。

 仕上げに花台に載った香炉をおこした。香料としてわりあい珍しい、屋久杉ヤクスギを主とする印香である。白檀ビャクダンが基調のものより匂いが優しく、ほのかだ。

 薄い煙が室内にできた風の道に乗って緩やかに部屋を巡り、空気を清めていく。





 マンデリンを淹れて、深くソファに沈んだ。

 昼なかをとうに過ぎた。辺りは静まって時おりピチピチと鳥の声だけが聴こえる。


 古の人々は居室において自然光を巧く採り入れることで四季を眺め、日常における空間を彩った。

 音も匂いもまた、それらはいつも溢れて全局面的に作用しうるものであるが故に…近くを惑う鶺鴒せきれいの声もヒサカキの木洩れ日も、”無い”ひとにとっては”無い”。


 幾久しく、それに気づくと同時に少しの寂しさも来る。







 ああ、ずいぶんと季節の巡りに無頓着になった。

 大人になるってこういうことか。




 電話が鳴った。ちょっと懐かしい名前が画面に表示されていた。

 やたらと声が大きい奴だから、スピーカーから耳を離して受話する。



『元気?』


「シュウ。総務がキレてたけど退職届になんか書いたの、」


『え、普通に辞めますって社長にメールして終わったわ』


「社長ってお前、馬鹿ちゃうのお前、ハッハハ」


『あれって法的に社長に云うもんだろ。真似していいぞ』


「そうしよっか」


『なに。辞めるの?時期が悪いよ時期が』



 何となく口元からくすり、と笑いが漏れ出てしまう。



「お前と一緒にするな、」


『ふーん、いいじゃん。これから何すんの』


「知らんけど。何処かで会ったらまたよろしく、」






 いかにも男同士の短い電話を切ったあと、立ち上がった僕は天井に向かってうんと伸びをした。馬鹿な奴と話すとこっちまで馬鹿になって心地良い。






 香炉のおきはすでに消えて、灰はしんと冷えている。


 夕刻にさしかかった窓辺に寄ると、煌々と輝く鴇色ときいろの雲と出会った。

 やがて全てがゆっくりと金藍きんあいに沈みゆき、冷たく澄んだ風は街にを入れてまわる。


 しばらく言葉を失い、その色を眺めていた。

 十二月の黄昏こうこんは黎明のように鮮やかな光を湛えて、確かに僕の目に映った。






【了】

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