アキ

 二〇一三年、春。





 細かく織り込んだ黒繻子くろしゅすに綿を固く詰めた小さな枕。

 当時の僕は香など薫きはしなかったが、仄やかな真那賀まなかの香りがあたりに揺蕩う。

 語るに及ばず、清浄と畏敬をもって主を迎えるために添えられた、作り手の心である。



 霖雨の続く晩春の日だった。

 その刀枕に、大小合わせて三口の刀身が並んで横たわっている。精錬から数百年を経た炭素鋼の表面はどれも様々に黒く、白く、または赤茶色に曇っている。

 僕は刃たちの正面に構えて座し、深く静かに礼をした。





 白く曇った平造りの短刀を手に、キッチンへ向かう。

 玄関から部屋へ至るまでの廊下も兼ねているフロアは作業場と化していて、足の踏場は慎重に探さなければならない。

 バケツ一杯の水を汲み、適量の炭酸ナトリウムを加える。

 それらが溶け切って水のpHが安定するまで、先々日から続けている刃引はびきの用意に取り掛かった。


 浅い白磁器には、数々の灰色の小さい石板を盛ってある。漆を染ませた吉野紙で裏打ちした、内曇うちぐもり砥の木端こっぱだ。

 その中の一枚を取り出して表面をじっと眺める。そうして堅さの目算を着け、巣や異物の混淆がないか注意深く確認してゆく。


 

 面取りした親の内曇砥の塊に先ほど作った水を垂らし、木端をしばらく擦り合せる。

 刀身の重ねにも満たない薄い板が熱を保ちはじめる頃、水は灰色の砥垢とあかを湛えて粘り、砥石の表面を満遍なく覆う。

 フロアへ座し、擦り込むように刀を引いていくと、砥垢は瞬く間に緑がちになり、鉄の臭気を放った。

 内曇砥はごく弱い酸化作用をもち、初めは鋼の表面を全体に白く曇らせる。細かく柔らかい石肌は、やがて地鉄の折り返した鍛えを彩り、刃に潤んだ艶を取り戻してゆく。





 身幅、重ねともに控えめな姿で砥ぎ減り少し。鋩子ぼうしは浅く返り、刃文は小乱れ。

 反りの無い典型的な懐刀だ。

 淡々と焦らず刃引を進めてゆくと、徐々に鋼のもつ見所の輪郭が濃くなってくる。

 ぼうっと浮かび上がる小沸こにえ出来の刃淵には華やかに金線がかかり、地鉄は小目だが、物打ちのあたりに目立つ鍛え割れがある。



 ホオの木の簡素な休め鞘に収まったこの刀は、仕入れた時は黒錆が刃を斑らに覆っていた。大部分はいわゆる四酸化三鉄で、水分や塩の付着による錆ではない。

 それに対して、浅く下がるやすりがかかった振袖のなかごには酸化第二鉄の橙色が散っている。

 僕はこのように推測する。

 節目あるごと、律儀に刀身へ油を引かれていたが、何かの理由でそれが行われなくなった。

 長らく蔵や押入れへ仕舞い込まれ、篭る湿気を吸ってゆく。そうして、古い油が引かれたままの刃には黒錆を、そうでない茎には赤錆を生じたのではないか。



 曰く、初出うぶだしで無銘ながら賀州國宗の識と。

 だが骨董屋の云うことなどは須らく如何物いかもので、半ば口伝をでっち上げて売っているようなものと諒解している。

 僕には、いまここに在るもののほか、興味はない。そのはずだが。

 純白の卯木ウツギが眼も綾に咲き誇り、憂い匂いを纏いながら静かに坐す見知らぬ女性の姿を、瞼の裏に思った。





 ーーーーーーーーーーー



「先生のくせに留年ってどうなのよ…」



 まるで我が事のように大きく肩を落とし、イズミはため息とともに言葉を吐いた。



「アリだと思う」



 言いながら、僕はホットサンドに齧り付いた。

 昼刻、その喫茶店は埃っぽくて一輪挿しは萎びていたが、料理はいつも光っている。

 来るたびにホットサンドを頼んでいたら、やがて来店と同時に手を少し振るだけでホットサンドが出てくるようになった。たまにメニューを開いてみたりもしたが、閉じる頃にはホットサンドが出てきてしまうのでまあいいやと思い現在に至る。

 気さくなおばさんがサイフォンでキリマンジャロを淹れてくれて、その酸味がまた食後に合うのだった。



「くっふ。自分で言うなし」



 彼女はレモンスカッシュのグラスに点いた水滴を指先でいじる。



「母さんと一緒に卒業祝いしてあげようと思ってたのにさ、」


「おー、祝ってくれ」


「そ、つ、ぎょ、う。意味分かる?もーモグモグしながら喋んなー」



 その年、僕の単位の取得は進級要件を四単位下回り、四月からは四年生をもう一度始めることになっていた。

 四並びで実に縁起が悪い。





「どうすんの?バイトだけで生活していけるの」



 真っ直ぐ真剣な視線を向けながらも控えめに訊く。

 彼女自身、親元を離れて暮らしたことが無いため、具体的な知識にいまいち欠けるのだろう。



「や、無理。奨学金と合わせて生活してたんで」



 基本的に、奨学金という制度は当該の学生が留年すると給付を停止する。再び申し込むことはできるが、そういうケースでは大方弾かれることになっているらしい。

 勉学に励まず遊び呆けた学生は奨励するに値しない、ということだろう。

 本当にその通りだからぐうの音も出ない。



 イモい大学には無かった割と本格的なダンスサークルを立ち上げ、いくつもの飲みサーを渡り歩いては朝に寝て夕方に起きる生活。僕には夜こそ真実だった。

 大学祭やクラブイベントで催されるショウケースの時だけは、割れるような拍手と絶叫に近い声援を浴びる。

 夜な夜なスピーカーの前を陣取り、オールドスクールの四〇Hz周辺のキックとタイトなスネアに溺れる僕を、後輩達は『低音兄さん』と呼んだ。





 彼女が、眼を逸らして何かをモゴモゴと言い淀んだ。



「え?なに」


「っ、だからあ。家賃とか、もし払えないならウチに住めば、って」



 普段の溌剌とした調子と違って口ごもるように言った後、慌てて彼女は俯く。



「住めばっていうか、まあ。住んでもいいよ、的な。…部屋余りすぎだし、」




 相変わらず、彼女は母と二人暮らしだ。父がいた頃に買った家のことを、広すぎると常々零していたのを思い出す。母と彼女の間を遮るものは皆無で、それがゆえ互いに苦しんだことも多々あっただろう。


 以前、お揃いで買った怪しい格安のペンタブの片割れは、すんなり押入れの中に入った。実用に耐えるような物ではなく、玩具に限りなく近かった。

 しかし、彼女の方は自分で貯金してきちんとしたものに買い換えた。

 暇潰しが暇潰しでなくなった時からイズミは変わりつつある。最近、何かの挿絵を描いたと誇らしく言っていた。

 おもちゃのようなペンタブに帽子と服を着せた謎のオブジェが、今も彼女の学習机の最上段の棚に飾られている。 



「聞いてないよね。腹立つ、」


「ん。うん。お金無くなったらお願いするわ」



 コーヒーの香りが充ちてゆく店内には、僕らのほか客はない。

 静けき有線のジャズピアノに、どうしてここでこうしているんだったか。ふと、自分から自分が離れる感覚に陥る。





 さら、と気配を感じる。

 格子の入った飾り窓の向こうに眼を遣ると、風に揺れ合う連翹レンギョウの生垣が見える。

 音が遠のくのはあれのせいだろうか。

 湿り気を孕んだ風に陽が映り、細い枝は事もなくしなやかに撓む。

 ありふれて純朴な黄色の花々が数多、それでも我こそと前へ咲く。


 


「今日はまた違う娘やねえ」



 おばさんがキリマンジャロを淹れたカップを僕の前に置き、爆弾を投げた。





 ーーーーーーーーーーー



 学費、食費、光熱費、家賃、娯楽費、エトセトラ。

 字面から漂う悲壮感とは裏腹に、僕の心は躍り始めていた。

 人によってはやさぐれて絶望したくなるのだろうが、空腹感溢れるこんな状態が僕は好きなのだった。

 新たに何かを始める必要がある。始めざるを得ない。さあ、何を。



 当時、国内最大の某ネットオークションで刀剣のカテゴリが新設されたころだ。今までは違反商品という扱いであった。

 刀剣は美術品のひとつとして一定の地位はあるが、物が物なので配送方法も特殊だし、なにかと怖ましい想像を掻き立てられがちな商品でもある。

 刀剣の個人間売買とは、その市場が大きければ大きいほど、元締にとってはとにかく気を遣うものだ。



 逆に、規模は小さくも刀剣の取引に定評のあるオークションがいくつかあり、住み分けができている状況だった。

 このたびは、何かしらのビジネスチャンスを見出したのかも知れない。

 なにせ、一般的な消費財などと比べて価格が高めなぶん件数あたりの手数料が桁違いで、しかもリセールがよく浸透している商品でもある。





 新設日に早速覗いてみると、既に大量の出品と入札があった。

 一千万円というとてつもない金額のものから、錆びたもの、折れたもの、果ては残欠を削ってどうにか小刀に体裁をとったもの。

 そんなものを誰が買うのか?また、誰が売るのか?

 そこに、日本刀のみならず刃物独特の相場観がある。 



  蒐集家の老人が亡くなり、扱いに困る遺品を家族が叩き売る。

  古い蔵を取り壊した際に出てきたガラクタをそのまま流していく。

  骨董屋が溜まりに溜まった不良在庫を一掃しようと躍起になる。



「…いける、」



 ひとりでそう呟いた僕は、引越し費用として貯めていた資金を仕入れと砥石につぎ込んだ。


 以上が、僕が刀剣研磨を始めるに至った顛末である。

 べつに伝統工芸文化の保護などという大それた名目によってではない。

 ここぞとばかりに群がる商いの熱気に心を惹かれ、紛れてみることにしただけだ。





 日本刀に触れるという事は、禁忌である。

 保管にあたっては半年毎を目安に不乾性油を薄く引き、なおかつ通気性の良い朴の木でできた専用のこしらえに収めるのがセオリーだった。

 鞘を払ってからは刀身に息がかかることすら許されない。

 何も宗教性などによる慣習では無い。そこからさびを生じるからだ。

 比喩でなく、一滴の水を付けておくと十分後には染みのように白錆が写っている。

 研磨直後の刀のようにイオン化傾向の高まった炭素鋼などは、水道水で濯ぐうちに表面が曇ってゆく様が見えるほどだ。

 古くは、研ぎ水を塩基性に寄せるため藁灰わらばいを加えたという。



 放っておけば錆びる。間違った扱いをすれば錆びる。

 曇りひとつ無い美しい鋼を保つためにはただ一途。正しい手入れを正しい間隔で行う。これのみに尽きる。

 だが当然そんなシビアなお世話焼きに関心のある人は少なく、市井しせいの刀は埋もれ朽ちてゆく。

 事実上、発見と同時の銃砲・刀剣登録の義務が課されて四〇数年になるが、それでも年間に一万口もの刀剣が新規登録されるという。

 今や、鑑賞に耐える姿で日の目を見る刀は皆無である。




 ーーーーーーーーーーー




 夏の盛り。


 夏は人間に適した環境では無い、と毎日思う。

 電車を降りて湿気の強さにうんざりする。

 陽炎の立つ駐輪場で昼寝をしている猫の姿を横目で恨めしく見ながら僕は歩き出した。

 アスファルトの照り返しを凌ぎながら、ほど近い駅裏の一角へ回った。

 しんと静まった影がちな細い通りには平屋の古い商店が並び、辺りは心なしか暑さも和らいでいる。



 年月を経て飴色に変わったナラの引戸を開くと、いつも足元から、リン…と篭った音が鳴る。

 引戸のそばに相生鼠あいおいねずの地にうわぐすりを引いたつくばいがあり、来訪の音をよく捉えて内部でわずかに反響させるのだ。

 音を聴きながら僕は背の低い入り口をくぐった。

 県内でおそらく唯一、天然砥石の取り扱いがある老舗の金物店である。



 三和土たたきを敷いた店内には、誰もいない。

 薄暗くひやりとした空間に時計の振り子の音があるばかりだ。

 当時物と思わしき壁際の大抽斗からは、ささめき沈香じんこうの名残が漂う。

 そんな創業当時を偲べるような構えとは対照的に、店内のさまは風雅とは言いがたく、歪んだガラスが嵌まったショウケースや棚が所狭しと並ぶ。

 足元のすぐ近くには何故か草刈機が放置されている。

 あらぬところで躓かないようにしばらく待っていると、障子が開いて店主が顔を出した。





「いらっしゃい。お、アキちゃん」



 作業着姿の店主は、屋号と同じく大谷さんという。

 妙齢に見えるが黒髪の似合うしなやかな躰つきで、案外僕に近い年頃なのかも知れない。

 ここのところ僕が一番の上得意だと言っていた。

 僕を見るやニコリと愛想を出す。



地艶じづや、あるかな」


「ん。この前ぎょうさん買ってったやろ」



 彼女は履物をつっかけながらかまちから降りてくる。



「刀の方がやたら硬くてさ。全然晴れない」


「嵐山、っちゅうのある。人造やけど。よう光らすけど伏さるのもすぐ。高いよ」



 紙のように薄く成形した砥石だった。これを通常の地艶のように小さく切り別けて、指先で刀に当てていく。

 煙草の箱より小さいものが三枚。

 言われた金額を払って僕はそれを受け取った。



月山がっさんでもかかりよるの?ナハハ」


「そんな刀、僕が砥いだらバチが当たるわ。加賀の長次だよ」



 釣銭をこちらへ渡しながら、大谷さんが呟く。



「…もうなんぼ砥いだ?」


「今のが九口目かな、」





「そう。うん、よう手が汚れて来たねえ」



 砥垢の付いた僕の右手を見て、彼女はしみじみと目を細めて言う。

 仕上砥と鋼がごく細かい粒子となった砥垢は指紋の谷まで入り込み、普通に洗っただけではとても落ちない。

 時間をかけて皮膚を蒸すか、代謝に任せて放っておくかだ。



「触っちゃうと、何だか寂しい。…分からないものを分かってしまうというか、」



 桜の散る頃、ごく軽やかに無責任に…なんとなくその一歩を踏み出した刀剣研磨は、いつのまにか遊びの域を超えつつあった。



「鉄が好きなんやね、」


「どうだろう。でもちょっとだけ会話できるよ。子どものときから」


「ほんまに?」



 大谷さんはコロコロ笑ったあと、真っ黒な大きな瞳で上目遣いに僕のかおをじっ、と覗き込んだ。





 ーーーーーーーーーーー




 暑さの大いに残る夏の終わり頃。


 エアパッキンで包まれた裸の刀身が届いた。

 付属しているのは登録証と巾木はばきのみ。





 送り主は大谷さんである。

 地元の公園で定期的に催されるいちで値切りに値切って買ったあと、そのまま蔵に放置していたものだそうだ。

 一尺にわずか足りない細身の短刀で、薄い黒錆が全体を覆っている。

 有りがちな話だが紙ヤスリを掛けられたらしく、刀身には乱雑な糸目が深く彫り込まれた上、しのぎが丸まってしまっている。



 銘、行光。

 新藤五国光を師とし、山城やましろ伝を受け継いだ鎌倉時代の刀匠としてよく知られている。

 本筋は山城の直刃すぐはだが作風は多岐に渡り、大乱おおみだれ皆焼ひたつらも見られる。

 門を同じくする刀匠として正宗や則重など。





 もちろん、偽銘であるのは明らかだった。

 行光が一三〇〇〇円で買える訳はないし、品名に『工具』とぶっきらぼうに書いてレターパックで送ってくるなど許されるはずもない。こちらもそう承知している。

 ふいに心が騒めいた。

 滞り無く偽銘のはずだった。なのに、この姿はどういう事だ。



 日本刀の特徴は、一つの刀身に異なる速度で焼入れを施す点にある。

 焼入れ前に刃金には焼刃土を薄く置き、地金には厚く盛る。

 そして、A3変態点である九一二℃以上まで加熱することで鉄組織をオーステナイト化させたのち、急冷する。

 これにより、意図的に一つの刀身に異なる構造相転移を起こすのだ。

 急冷された刃はマルテンサイト組織主体の鋼となり硬度を増す。

 緩やかに冷却された地は微粒化パーライト主体の鋼となり粘りを出す。

 つまり刃紋とは、二種の鋼組織が成す外観上の差であり、とくにそれらの境目を匂口においぐちと呼ぶ。

 刀剣鑑賞上、刃紋は刀の出来を判断する上で大きな見所となる。


 

 この刀においては直刃だが、鈍したように匂口がぼやけている。

 地金は黒みを帯びた杢目肌であり、古刀然として詰みや硬さをまるで感じさせない。

 失火等による焼け身なのか、あるいは元々こういう趣旨なのか判断がつきかねた。

 あくまで新刀期以降に確立された手法で云えば、焼入れ後は合取あいとりと呼ばれる二〇〇℃前後の焼き戻しを経る。

 それは鋼組織のムラを抑えて脆さを消すためのものであって、外観を大きく変えるほどのものでは無い。

 




 重ね一分少し。反り一分四厘。

 刃の寸法に対してあまりに斬り本位な反り、そしてしのぎ。作刀の意図が摑めない。

 短刀は護り刀とも呼ばれるように、実用というよりは鑑賞に適した造りを目指すことがほとんどである。

 そうでなければ重ねを厚めにして反りをなくし、刺突に特化させるのが通例だ。

 長さを後々詰めた磨上すりあげ物でもない。

 これはこう在るべくして打たれた刀なのだ。



 鑢目やすりめをよく見ようと視線を下げたとき、茎棟なかごむねにこんな紋様が刻まれているのに気づく。




   『 |十 』




 隠したがね…。


 それを実際に目にするのは初めてのことだった。

 磨上げや偽銘等を判別させるために茎尻に入れる刀工もみられるが、この刀では棟区むねまち近くへ刻んである。

 何かを伝えるための何か。


 巾木は鎧通し風の分厚い銅一重。失われた拵え。





 埃まみれのソファベッドに寝転んで考えに耽っているうち、僕はいつの間にか眠りに就いた。






 その夜、戦場の夢を見た。


 人々はアジアのどこかの国の相貌に見えて、服装からして武装していない非戦闘員であった。

 乾いた砂の原を走って逃げ惑う人々の合間に次々と地雷の爆轟ばくごうが立ち、煙と共に手足が千切れて飛び交う。


 僕の目前に髭をたくわえた褐色の若者が転がって来て、しばらく悶えたのち動かなくなった。


 胴体から下が無い少女が砂まみれの貌でこちらを虚ろに見ている。

 緑のシャツは焦げと血に染まって、父親らしき男が這いずり回り、必死に少女の内臓をかき集めている。


 すでに事切れた少女を抱きかかえて、どうにもならないと我に返った男は、すすと涙でグシャグシャになった貌で僕の方を向き、手に持った血まみれの内臓に齧り付いて頬張った。







 静かに目醒めた僕は、寝床に上体を起こしてじっと刀を見る。

 昨晩のままテーブルの上に無造作に置いてある刀は、朝陽に照って鈍く光っていた。

 土よりいでて木と火が作り、水が与えた金。

 錆にまみれてなお気高く尊い姿がそこにある。

 千年前、やるせなく喘ぎ苦しんだ人々の信仰。

 何かを護るために、崇めるために、人と神が造ったもの。





 シャワーを浴びた後、いつも通り刀身と一献の日本酒を分け合う。

 これから出雲の御金屋子神おんかなやごのかみの汚泥を滌し、拙くも化粧を席す。



 誰しも、神を宿していると思うものを手元に置きたい。

 だからこそ、鍛冶から拵え・研磨・彫りに至るまで一貫して伝統的なアプローチが暗に求められる。

 閾としてはW《ホワイト》A《アランダム》などの研磨剤を焼結させた人工砥石の使用からだろう。

 そこから先、例えば機械研磨や酸研ぎなどはもはや論外と云われる。ただ現実的には、そのような工程の存在を看破することは至難である。


 八〇〇番手の人工砥石と細名倉こまなぐらで鎬を立てながら大まかに錆と鑢目を均した後、地引じびきに入った。

 刀としては体裁が整った。

 あとは化粧だ。



 悪いが現代に生きる僕は自分なりにやらせてもらう。

 しかし確かな信念のもとに。

 当時の職人であっても、より効率の良い機械があったならばそれを躊躇なく使うであろう。

 盆の上にばらりと並べてある紙巻煙草の一本を拾い上げ、燐寸マッチを擦って火を点ける。

 作業の手のまま、吸い口を汚さないように喫うにはこうしておくのが都合良い。





 五月蝿いくらいに内曇を引いたのち、鍋に湯を沸かしてウヴァ《紅茶》のティーバッグを有るだけ放り込んで掻き混ぜた。

 どろりとして見えるほど濃く煮出した液体を長寸の油受けに移し、その中へ刀身を五分間ほど漬けた。

 紅茶に含まれるタンニンが表層の鉄と結合してタンニン鉄となり、取り出した刀身は真っ黒に染まっている。

 ブルーイングと呼ばれる鉄染めの手法である。



 引き上げた刀身を地引にかける。黒いタンニン鉄の膜はごく薄く、瞬く間に銀色に晴れてゆく。

 それをまた漬けて、引き上げて地引をかける。

 数度繰り返す内に黒い鉄は鍛え目の内部に入り込んで残り、地肌紋様と匂口を鮮やかに浮かび上がらせてゆく。

 温度の下がって来た紅茶をまた鍋に移し、ケトルでは熱湯を別に沸かす。

 刀身に熱湯をかけて鋼を活性化させ、再び沸き立った紅茶に沈めた。





 ーーーーーーーーーーー




 今日の彼女は作業着姿でなく、紺に染め抜いた道着に黒袴を身につけている。

 薙刀を習っていると言っていた憶えがある。

 灰真珠色の刀袋から行光を取り出した大谷さんは、眼を輝かせた。



「うわあ、ほんと綺麗に…」



 隠剣おんけん。この刀の生まれた意味はそれだろう。

 装いは、節を貫き通した煤竹そのままに杖を模した隠し剣拵えとした。

 縦割れを防ぐために、鯉口と鞘頭に銀巻きを入れた。

 煤竹の表の肌には椿油に溶かした銀粉を擦り込み、黒水牛の角を削った目釘で留めている。



 やがて彼女は恍惚とした表情で、柄を腰元に引き寄せてゆっくりと抜いた。

 薄黒く仕上がった地肌に白く曇らせた刃の色が、大谷さんの眼に燦と映える。

 鎬地には磨きを入れず、鍛え目のままに顕した。



「……」






差込さしこみ…?や、違う…」



 彼女はしばらくそれを見つめたあと、刀から眼を逸らせずに口の中で呟いた。


 差込み砥ぎとは古くからある研磨で、対馬つしま砥ぎとも云う。

 柔らかく黒い対馬砥という砥石を粉にして刀身に擦り込んでゆく手法だ。

 僕が今回の化粧の着想を得たのもその差込み砥ぎからである。



「なんやろ…こんな肌やったんやなあ、君…」



 ひとしきり会話をしたのち、名残惜しそうに刀を鞘に納めた大谷さんは眼を瞑り、それを胸に掻き抱いた。

 樟脳しょうのう丁子ちょうじのゆかしい香が流れる。

 どうやら、要望に恙無つつがなく沿えた様だ。



「毎度、」



 そう言って金物店を出た。



 リン…

 蹲だけが、涼しい音で僕を見送った。





 ーーーーーーーーーーー




 無銘、江戸初期のせき物と。

 一尺四寸六分。反り浅く、身幅、重ね、尋常。砥ぎ減りなし。鋩子は小丸に返り、刃文は匂い出来の互の目。

 商人が旅路に帯刀してゆく際によくみられた類の脇差であって、実用本位で見応えに欠ける美濃伝の刀だ。

 しかし僕にはそれがいい。

 僕はその刀だけを、手元に残した。



 大谷さんからは当初の話の倍額が振り込まれた。

 別に一儲けしたからという訳では無いが、あれから刀剣研磨から遠ざかっている。

 手指に入り込んだ砥垢はきっちり一週間で消えた。

 鑑賞するものではない。人を傷つけるものでもない。

 刀は意志を表す。

 朧げながら僕は、答えを出してしまった。





 旧家の並び残る街道を歩いていた。


 漆喰とツガ、あるいはカヤの構えに受け継がれる藍や柿染めの暖簾のれんが連なる。

 秋も暮れの冷たく清浄な素風のなか、かつて城下町だったというその通りは未だその時の息吹を残している。

 酒蔵、菓子、あるいは当地の名物料理を商いとする店々は、平日昼だというのに多くの観光客で賑いをなしている。



 我ぞと振舞われる試し飲みの盃を、どうにか笑ってかわす。

 全部に付き合っていたらとても帰り道を歩けそうになかった。

 土産物屋の鉱石などを物色していた僕は、ふと、ある空気を鼻に捉えた。

 いつぞ嗅いだような、それでいていつも嗅いでいるような何か…

 追うともなく足を進めると、そこには一軒の商店があった。





 分厚い引戸と三和土の店内に、長らく会っていない人の貌を思い出す。

 香道具を扱う店のようだ。

 香りはここから漂っている。



「いらっしゃいませ」



 背筋の伸びた中年の女性が迎えてくれた。

 僕はいくつか香料を求め、それを口実に、控えめに構えを眺めた。

 文化財に登録されているという建屋も看板のひとつのようで、通された奥の間で女性は嬉しそうに沿革を語ってくれた。

 由緒ある古い名家の傍流であり、話には事欠かない様子である。

 淹れてもらった煎茶と菓子をいただき、今は昔の話に興味深く相槌を打っていると、何やら多くの古道具が目の前を巡っていく。





 結果として、そこで再び二〇を超える錆び刀に出会った。

 ニコニコと頷きながら心の中では少しの息をく。

 懐かしくもあり、また、そのような運びがこちらに向かって来つつある事に僅かの怖気おぞけも覚えた。

 刀が呼んでいる。





 以上が、つい先日のことだ。

 縁あって何かの事が進むか、はたまた僕が拒み逸れるかは、それも時の運びである。

 ただ、僕がもし千年の時を待ち続けてきた刀だったなら、この来訪者を逃すだろうか。


 本阿弥の何某先生とか、もっと手のある方にやってもらえ。

 香と幾ばくかの土産を手に提げて帰った僕は、そう思いを込めて、吉野紙の便箋にお茶の礼状をしたためた。






【了】

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