【Ⅲ】5

 ラティファとは、それなりに上手くいっていたと思う。彼女は大人で、僕の面倒をよく見てくれた。だけど、その一方で、彼女は僕とステディになったと周りに打ち明けてはいない様子だった。以前は職場で会ったら挨拶しながらキャンディをくれたのに、僕と寝てからは、そんな事はしなくなった。僕がゴミを集めている間、他人行儀にツンとそっぽを向いて、「私達は何の関係もありません」という顔をしている。オフィスでは彼女に親しげな態度を取らないよう、僕も注意していた。


 別に、ラティファにそうしてくれと言われたわけじゃない。ただ、彼女の綺麗な服と、僕の薄汚れた作業着が、僕に自制を強いた。ラティファの職場はアドグラフィックのデザイン事務所で、社長は学生みたいな若い金髪野郎だったし、ラティファはそれなりに仕事を任されているデザイナーだった。ゴミ集めをしている自分が、酷く矮小でみすぼらしい男のような気がして、塞ぎ込みそうになった。


 惨めを噛み締めながら、それでも、週末は必ずラティファと過ごした。


 劣等感は、虐待から抜け出して自由になってからのほうが僕を苦しめる。


 手が届きそうな場所に星があって、掴もうと手を伸ばしたら、本当はものすごく遠くにあると分かって失望するのに似ていた。


 僕には星は掴めない――


 ベッドでラティファと抱き合いながら、僕は微かな溜息を零す癖がついた。


「憂鬱なの?」


「違うよ、幸せで、疲れるんだ」


「幸せだと疲れるの? どうして?」


 ラティファは心底不思議そうに僕の顔を覗き込む。僕には答えられる答えが無い。


「I don't know.」


「What do you mean?」


「I wish to just gobble you. I want to feel more you. Deceive me, please.」


 ダメよ、と厭らしくキスしながらラティファは言った。


「そんな風に投げ遣りになってはダメ。最後の一線で踏み止まれないわよ」


 唇と舌が蠢いて言葉の真摯さを台無しにする。


 それでも、ラティファは矛盾を帳消しに出来る女性だった。ラティファの言葉には重みがある。命を賭けたことがある人だからだ。彼女は十四歳の時に、殺されかねない危険を犯して祖国を捨てた人だ。


 二〇〇三年に砂漠の嵐作戦が始まる前、一説では二万五千人のイラク人が亡命を希望したらしい。


 それだけの人間が一体どこへ消えたのか、僕達は意識もしないで生きている。


 亡命した元高官は、誰もが公金を横領していた大金持ちで、政府の中枢にパイプを持っていて、亡命後も母国に強い影響力を維持していて、何らかの陰謀を巡らせている……なんて、そんな考えは妄想だ。ラティファの両親は、自分たち自身と、一人娘のラティファと、身の回りの品をスーツケース三つに詰め込んだだけで、まあ、スイスに預金は持っていたらしいけど――スイスなら普通だ――イギリスに亡命した時には、せいぜい家一軒買える程度の資産しか所有していなかったとラティファは言った。


 それは大した財産だけどね、と僕が内心で皮肉を言ったことはともかく。


 命懸けで亡命して、その後は、受け入れてくれた国で、普通の市民としての生活が待っている。ラティファのパパはアラビア語の通訳と翻訳の仕事をしているらしい。コーラン時代の古典アラビア語である正則アラビア語フスハーを正しく操れる人は貴重なのだと言われたけど、意味は分からなかった。ラティファの説明によると、アラビア語は煩雑で、地方ごとのアンミーヤ現代口語があり、同じアラビア語と言っても地方が違えば言葉が通じないらしい。では、フスハーを誰でも理解できるのかと言うと、そうではなく、学んで身に付ける教養のひとつなのだとか。パパはフランス語とロシア語も出来るのよ、とラティファは誇らしげに言った。それが一般市民だなんて笑っちゃうね。


 とにかく、そういうものなのだ。派手な映画のような政治と金と陰謀なんて、現実にはそうそうない。みんな、普通の人間だ。普通の、ただの、一般市民だ。陰謀とか、スパイとか、テロリストとか、知らない国から来た人が、みんながみんな、そんなモノなわけがない。ただ、普通に生活している。


 それでも、ラティファが作ってくれる料理は、熱い沙漠の気配がした。


 一度、君はムスリムか、と訊ねたことがある。ラティファは笑って否定した。


「両親だって敬虔なムスリムじゃないわ」


 柔らかなリネンで首を絞められるように、僕はラティファに可愛がられた。自分はまるで愛人か、そうでなければ子供かペットみたいだと思い始めた頃には、クリスマスが間近になっていた――


 両親がムスリムのラティファは、クリスマスとは無縁だけれども、休暇はクリスチャンの従業員と同じに取ると言った。クリスマスから新年にかけて二週間ほど両親とニースに行くらしい。一緒に過ごせるのかと思っていたのだけど、当てが外れた。


 僕は、どうしていいのか迷った。


 ママのフラットに顔を出すべきだろうか。あの暗く沈んだ憂鬱な場所に……


 ラティファと付き合うようになってから、一度もママのフラットには行っていなかった。暇つぶしに本を読む必要がなくなったからだ。


 リビングに置かれていた巻き煙草を思い出す。ジョイントか、他のハーブか、どっちにせよドラッグだ。


「行きたくない。ママには会いたくない……」


 トモと過ごすのなら悪くない。でも、トモはイマーム・カーディルっていう奴のところへ行くんじゃないだろうか。エミやマコトとフラットで過ごすのは気詰まりだ。二人は優しいけど、言葉が未熟で、ちょっとストレスなのだ。簡単な会話は出来るけど、トモと話すほどにはニュアンスが伝わらないし、深い話は出来ない。


 やっぱり、僕にはトモが必要だ。


 HELP! PIGLET(ME)


 IT’S ME PIGLET, HELP HELP.


 遭難しています。誰か助けて――ツイッターで繋がっていたあの頃のように、もう一度僕を助けてよ、寂しさを癒してよ、心の穴を塞いでよ、僕の騎士ナイトでいてよ、もっと近くにいてよ、トモ――と心のどこかで思ってしまっていた。


「クリスマス休暇はどうするの?」


 疲れた顔でダイニングテーブルに突っ伏していたトモに、思い切って訊いてみた。うとうとしかけていたのか、トモは、うん、とはっきりしない声で頷いただけだった。冷蔵庫からステラのビールを取って来てトモの頬に当てる。冷たさに身動ぎし、中途半端な眠気から無理やり覚醒させられたトモは恨みがましく僕を見上げた。


「何するのさ、アミン」


「トモ、クリスマス休暇の予定はある?」


「ないけど……アミンは、ラティファと過ごすんだろ?」


「彼女は両親と一緒に新年まで過ごすって。ニースに行くらしいよ。僕は置いてけぼり」


「それは……」


 お気の毒に、とトモは笑った。眼鏡越しの穏やかな目元にくしゃりと皺が寄る。


「一緒に過ごせる?」


「いつ?」


「ずっとだよ。during the all vacation days.」


 本当は、Be with me for ever.と、僕は言いたかったんだと思う。


「ずっとは難しいな。でもニューイヤーズイブとニューイヤーズデーは空いてるよ」


 ニースに行くのは無理だけど、と前置きして、トモは、ロンドン観光でもしようか、と淡い笑顔で言った。


「どこの店もやってないよ」


 当たり前の事を言ったら、トモは目を丸くして大袈裟に驚いた。


「え、そうなの? 日本なら年末年始は稼ぎ時なのに」


「イギリス人は仕事より休暇を優先するんだ」


「そうか……そう言えば、日曜日の午後はたいていの店が閉まっちゃうね」


「今さら気付いたの?」


「うん、そうだね。今さらだ。そう言えば、よく見ていなかったよ」


 トモは遠くを見るようなぼんやりと微睡むような表情を浮かべた。初めてリアルで顔を会わせた九月の終わり頃と比べて、少し痩せたような気がする。疲れて見えるし、元々繊細なムードだったけれど、最近のトモは現実感が薄い。


「トモ、いつも忙しそうだけど何してるの?」


「何って?」


「エミとマコトが心配してる。宗教にハマッてるんじゃないかって」


 ああ、そうか、と言ってトモは額に手を当てた。


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