【Ⅲ】4
どんよりと曇っていて、雨が降りそうな天気だ。
吐く息が白い塊になって流れて行く。
時代物の石畳がひんやりと湿り気を帯びている。路地ひとつ隔てれば新しいビルが綺麗に立ち並んでいるのに、裏通りは古い煉瓦の建物が乱雑にひしめいている。狭い庭の芝生は手入れが悪く、伸び過ぎた薔薇の垣根は冬枯れて物悲しい。底冷えがする。
僕の横スレスレをロードレーサーに乗った男が通り過ぎて行った。ビジネススーツとトレンチコートを着てヘルメットを被っている。ちぐはぐだ。
僕が着ているのは古いミリタリーコートで、衿には動物愛護者たちが青筋を立てて怒鳴り出しかねないファーが付いている。フェイクだけどね。これが本物のファーなら殺されるかもしれないな、と、そんなことを考えながら自分の足元を見て気が滅入る。ジーンズの裾は擦り切れているし、去年買ったブーツは汚れてくたびれている。気に入ってはいるけど、英国紳士のようではない。
通りの端に積もった落ち葉がカサカサと音を立てる。
どこかの家で犬が鳴いた。
スコンと心の底が開く。
落下の錯覚。急降下。どこまでも落ちて行く。
ラティファの香りに包まれたまま、空漠としたどこかへ落ちて行く。
僕は、恵まれない人生を生きるには少し利口過ぎたのだ。
余計な事を調べ過ぎていて、軽い頭には無駄な知識が乱雑に詰まっている。それらはみんな役に立たないガラクタばかりで、系統立てて学んだ知識を持ち、それを実務的に使用する術を教え込まれたエリートとは比べるべくもない。僕の知識は無意味だ。知っている事を、ただ、知っているだけだ。知恵の泉の水面を撫でているだけ。そうやって世界に手を伸ばし、盗むように覗き見しながら、僕は何者でもなかった。なんの力も無い。生まれながらにスポイルされている。恵まれた人生を生きるツイてる奴ら(ラッキー・フェロウズ)を羨み、努力が意味を持つ人生――自己実現の機会が当たり前にある人生に憧れるだけの惨めな存在。
「マズローが自己実現理論で提唱した人間の基本的欲求。一、生理的欲求。二、安全欲求。三、社会的欲求、所属と愛の欲求。四、承認欲求。五、自己実現欲求……」
僕が満たせるのは生理的欲求と、まあ、安全欲求がせいぜいだ。
学位が無いと、教養が無いと、金が無いと、生まれが悪いと、人間はダメだ――
灰色の光の中を泳いでフラットに戻り、自分の部屋のドアを開けた時、トモが彼のベッドで眠っている姿を見て不思議な気分になった。
「出掛けてないんだ。珍しいな……」
トモは無防備に口を開けて寝ていた。屈託の無い顔だ。トモなりに悩みはあるのだろうとは思う。でも、トモには選択できる可能性が僕よりは多くある。日本に帰れば、まともな家族がいるのだろう。トモは自分の家族のことは話さないけれど、息子を留学させることが可能な家庭なのだから、僕のように酷い環境ではないはずだ。
ラティファに嫉妬する一方で、僕はトモにも嫉妬していた。
そう言えば、トモとラティファは同じ歳だ。日本人のトモは幼く見えて、とてもラティファと同じ歳には見えないけれど。じっと見ていると、トモは僕の気配に気付いて目を覚まし、寝惚けた声で何か言いながら、ブランケットから手を出してひらひらと振った。
「やあ、アミン。今帰りかい?」
急に寒さが耐え難くなる。暖房の利いていない部屋は冷蔵庫のようで、息こそ白くならないが、骨まで凍りつきそうな気分になった。とにかく、人肌が恋しかった。
「入れて、寒い」
僕はコートと靴とジーンズを脱いで、トモのベッドに強引に潜り込む。
「狭いよ」
トモは文句を言ったけど、そんなには嫌がらなかった。人の体温にホッとする。
「もっと奥に詰めて。落ちそう」
「無理だよ。もう壁際だ」
「そう? じゃあ、いいや……」
「アミン、何かあった?」
「女の子と寝た」
「なんだって――?」
がばっ、とトモは起き上がった。せっかく温かい場所に入ったのに、カバーをはがれて僕は身震いした。慌てて自分の方にブランケットを引き寄せる。トモは寒さを気にしていないようだった。とんでもない事件が起こったかのように大袈裟に両手を広げた。
「なんてこった(Good heavens)。先を越された。最悪だ」
「先を越されたってどういう意味?」
「言葉の通りだよ。君の方が先に女の子と寝た」
I don’t know what’s the matter with me!
トモは下手な発音でそう言って、すぐさま、言ってみただけだよ(I'm just saying)、と肩を竦めた。
「トモは二十三歳じゃなかったっけ?」
言外に、セックスの経験は無いの、と訊ねる。
「そうだよ、もう二十三歳だよ。君より七歳も年上なんだ。それなのに、十六歳の君に先を越されるなんて情けない。有り得ないよ。本気で最悪だ……」
トモは両手で頭を抱え込んでうんうんと唸り始めた。驚いた。あのトモが、いつもどこか冷淡に見えていたトモが、僕に負けたと悔しがって呻いている。不思議だった。
僕がラティファと寝たからって、どうしてトモが悔しがる――?
なんだろう、胸の奥がザワザワする。僕はトモに勝ったのか? わけの分からない気分になって、縋るようにトモを見た。トモが、トモだけが、空漠としていく僕を救ってくれるような気がしていた。
「僕に負けて悔しいの?」
訊ねると、トモは頭を抱えたまま大袈裟に呻いた。
「悔しいよ。アミンのほうが先に……こんなことで負けるとは……」
何か関係が変わるのかな、と僕は一瞬、恩人のトモに対して不道徳な期待をした。トモが僕に劣等感を持ってくれたら、少し、ほんの少しだけ愉快かも知れない。僕の代わりにトモが劣等感を背負ってくれて、僕はトモに優越感を感じて、それで少しだけ浮上出来るんじゃないかな、なんて。
だけど、呆気なくトモは降りた。
「まあ、いいか」
そう言ってトモは、カラッと笑った。
「こういうことは人それぞれだからね、競っても仕方ない」
爽やかに突き放されて、胸に石が詰まったような感じになった。
乱れてくれない。歪んでくれない。嫉妬してくれない。そんな風に、ただただ鷹揚に認められてしまったら、劣等感を持ってもらえなかったら、もう、僕は誰にも勝てない。
負けて悔しい、と憎悪なり何なりを滲ませる生々しいトモが見たかった。
スーッと体の芯が抜けて落ちていくような気がした。また、落下の錯覚だ。落ちていないと分かっているのに、どこまでも落ちて行きそうで怖い。
怖い――
溺れてしがみつくように、僕はトモに後ろから抱き付き、羽交い絞めにしてベッドに押し倒した。うわ、とトモは素っ頓狂な声をあげる。構わず、ぬいぐるみ(Edward Bear)のように抱き締めて暖を取る。トモは僕のホールドから抜け出そうともがいたけど、結局は諦めて力を抜いた。なんだ、トモは僕より弱い。小さい。それでも、僕より上だ。
僕を救ってくれたトモ。偉大な友。今もフラットの部屋代をトモと折半にして貰って、それでやっと僕は一人前になっている。トモに頼って生きている。
たまらないな、と思った。初めて。
僕は、この人に依存して生きているんだ、たまらないな、と。
「どうしたのさ、アミン?」
「トモは、どうして僕を助けてくれたの?」
涙を滲ませていた僕に気付かずに、ふふ、とトモは喉の奥で笑った。
「マクトゥーブだよ、ピグレット。君のボトルメールを僕は見付けた。興味が湧いた。僕も遭難していたから、君が他人とは思えなかった」
マクトゥーブだよ、と、もう一度言って、トモは目を閉じた。
「ブランケット掛けてよ。このままじゃ寒い。風邪引くよ」
「一緒に寝ていいの?」
「寝てるじゃん」
嫉妬で胸を焼きながら、そのくせ狡い僕は、家族がいたらこんな感じなんじゃないかとも思った。もちろん、僕には本物の家族がいる。ママがいる。でも、ママはこんな感じじゃなかった。もっと冷たかった。
抱き付いていると、トモの髪からは安いシャンプーの匂いがした。トモはラティファよりは金持ちじゃないってことだ。自分の代わりにラティファと比べて、僕は微かな満足感を得た。恩人を誰かより下に置いてホッとしていたってことだ。
「Tomo, don’t say anything, for God's sake.」
「Good shake?」
「No, God’s sake. It mean, I don’t know. I don’t know what to do.」
トモは震えるように身動ぎし、オヤスミと言った。
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