【Ⅱ】2

 指を顎に当て、納得しているのかいないのか分からない微妙な表情で、トモは首を捻り溜息をついた。「どうしようかな(What should I do)?」と低い声が続く。


 僕は顔の前で手を組んで懇願した。


「ねえ、一緒に行ってよ。僕はまだパブに行ったことが無いんだ。トモ、お願い。トモは外見は子供にしか見えないけど、パスポートさえあれば立派な大人だ」


「一言多いよ」


 ぽん、と手の裏側でおでこを叩かれた。


「行こうよ、トモ。ほら、着替えて」


「どうしても行かなきゃダメかい、アミン?」


「ダメ。一緒に行こう。トモと出掛けたいんだ」


 まったく、とトモは肩を竦めた。僕は断固トモを引っ張って行くと決めていた。トモが一緒なら僕は初めてパブでお酒が飲めるし、わざわざイギリスで引きこもっているトモにも気晴らしが必要だ。お互いにメリットがある。うん、良いこと尽くしだ。


「アミン、僕を利用するつもりだね?」


「バレた?」


「バレるよ。でも……まあ、いいか」


 トモは珍しくにやりと笑った。


「たまにはアルコールも悪くない。一緒に行こう。今夜は僕が奢るよ」


「やったあ、感謝する!」


 一緒に暮らしてみて分かったことだけど、トモは意外と年寄り臭い。外見は子供に見えても中身は爺さんみたいだ。七歳しか離れていないのに、僕を子供扱いする。


 けど、僕はもう学生じゃない。仕事もしている立派な男だ。ダリルからもママからも自由になって、外への扉を抜けたんだ。新しい世界にもっと踏み込んで、もっともっと色んな楽しいことを経験したい――


 僕は欲望を持て余して焦っていた。とにかく、女の子と仲良くなりたい。


 着替えるといっても、トモは部屋着に淡いグリーンのニットジャケットを羽織っただけだった。僕も古着屋で買った色落ちしたシャツとデニムパンツで、まあ、二人とも一目で金が無いと分かる格好だ。イーストエンドではそれでいい。気楽なもんだ。


 外国人のトモが一緒なので、ボウ・ロード沿いの小綺麗なパブを選んだ。治安が良いか悪いかで言えば、まあ言わずと知れた場所なので、下手な店を選ぶと良くない。


 僕はパブが初めてなのでドキドキしていた。店内はオルタナティブが流れていて、煙草の臭いと煙が充満していて、程よく混んでいた。物珍しさで店内をじろじろと眺め回してしまう。面白いインテリアだ。証明は薄暗く、天上にはシャンデリアもどきが下がっていた。床はウッドタイル敷きで、古い壁紙はセピアに変色している。ねじれた白い柱が立っているバーカウンターの中には髪を赤く染めた背の高い店員がいて、酒量分配器オプティック付きの酒瓶がずらりと並んでいた。ジョニー・ウォーカーやバランタインのような見たことのあるラベルもあれば、見たことのないラベルもある。ベリーの絵が描かれたボトルが可愛くて女の子にうけそうだと思った。


 客は僕と似たり寄ったりの身形をしたアラブ系の若者が多い。パンジャーブ系やアフリカ系と中国人シノワっぽい奴らもいる。毛色の変わったところでは、店の奥のテーブル席に陣取っているアングロサクソン系の三人組かな。たぶん、最近進出してきたIT系企業の事務所に勤めている奴らだろう。厭味臭いビジネスマン風の男が二人――いかにもな金髪と赤毛が向かい合わせで座っている。その二人だけだったなら即座に興味が失せたんだけど、奴らと一緒にいたのは、ものすごく綺麗な女の子だった。


 思わず小さな口笛を吹く。


 彼女を見た瞬間、僕の目は彼女に釘付けになっていた。


 とろける蜂蜜のような金髪を緩く結っていて、グラビアモデルみたいに魅力的だ。初めて見るタイプの美人。大学生に見える。気が強そうで、知性を感じさせる目は大きくて強い光が宿っているし、つんと上向いた鼻はクールでカッコイイ。レッドチェリーみたいな唇はすごくセクシーだった。


 恋をするなら彼女のようなタイプがいい。


 ひとしきり店内を見回し、僕とトモは空いているカウンター席に座った。僕がスタウトを一パイントとサイダー(シードル)とナッツを注文し、トモが払う。


「Thanks, Tomo.」


「どういたしまして」


 軽くジョッキを掲げて口を付ける。初めて飲んだサイダーは、サッパリしていて飲みやすかった。ただ、香りが林檎っぽいのに甘くなくて、苦い……


「ポワレはもっと飲みやすいんだけどね」


 トモは大人ぶった余裕の表情でくすりと笑う。


「ポワレって何?」


「洋梨(pear)で作るサイダーだよ。英語だと perry か pear cider かな」


「ふうん、美味しそうだね」


「少し高価なジュースだよ。ほとんどノンアルコールだ」


「子供向けじゃないか」


 僕はトモの肩を軽く殴って笑い転げた。初めてのパブでハイになっていたんだ。音楽はセンスが良くてご機嫌で、店の雰囲気もカッコイイと思えたし、トモは優しくて、最高に気分が良かった。二杯目は僕もスタウトにした。これも好みの味じゃなかった。顔をしかめたらトモが自分のジン・リッキーと替えてくれた。


「あ、これは美味しいかも」


「癖が無いからね」


 二杯飲んだら必然の生理現象が起こった。まあ、要するに尿意だ。席を立って店の奥にあるレストルームを指差して僕は言った。


「Nature calls」


「なに?」


 トモには意味が通じなかったみたいだ。日本人なんだ、と改めて思う。


「I'll go to the loo.」


 そう伝えてもトモは、分からない、と首を傾げた。


「toilet」


「ああ、なるほど。OK、OK」


 言葉が通じないのも楽しいな、と僕は機嫌が良くなった。トモと暮らすようになってから僕は幸せだ。ふと、うつ病のようになってしまったママのことを思い出して、一瞬、気分が沈んだけど、頭を振って追い払った。ひとりになったママが、あの暗くて汚いフラットで、どう過ごしているかなんて気に掛けても仕方がない。ママは僕のアドバイスは聞かないし、僕を憎んで鬱陶しがっている。僕も、僕を嫌いなママは嫌いだ。


 とにかく、もう僕は自由なんだ――楽しんで生きる。


 そんな事を考えていたら、なんと、レストルームのドアの前で、あの金髪の綺麗な女の子とすれ違った。間近で向かい合って見て、彼女は海みたいに真っ青な瞳をしていると分かった。混じり気のないアングロサクソンだ。


「ハイ」


 思い切って挨拶してみる。


「ハイ」


 落ち着いた態度で片手を上げた彼女は、唇の端だけを上げて色っぽく微笑んだ。やっぱりすごい美人だ。ちょっとセクシーな服装をしていて、黒いセーターが胸のふくらみを強調している。ジーンズは引き締まった足のラインがはっきりと出るスキニ―だったし、たぶんヒップラインも素晴らしいんだろうなと思った。ヒールの高いピンクのミュールにはキラキラ光る虹色のスパンコールが付いていた。


「ひとり?」


「ごめんなさい。連れがいるの」


 ピンクのマニキュアでコーティングされた指先が奥のテーブル席を指し示す。


「ああ、うん。そうだよね。見て知ってる」


 少し躊躇したけど、僕は酔って大胆になっていた。透き通った海のように輝く彼女の大きな青い瞳を真っ直ぐ見詰めて、出来る限り誠実に見えるようにお願いした。


「連絡先を教えてくれない?」


「ごめんなさい」


 まあ、そうだよな、と思ったけど諦めたくなかった。だって彼女はすごく魅力的で、今まで見たどんな女の子より僕の好みにピッタリだったから。運命とか、一目惚れってこういうのを言うんだと思う。よく分からないけど。


「じゃあ、名前だけでも教えてよ」


 子供の悪戯を見た時のように彼女はクスッと笑った。


「リアーナよ」


「リアーナ……素敵な名前だ。僕はアミン」


「そう。アミン、楽しんでね。バイ」


 彼女はあっさりと行ってしまった。香水の残り香に頭の芯が痺れた。


 トモの隣の席に戻っても、僕は上の空で、どうにかして彼女と友達になれないかと考え続けた。奥のテーブル席をチラチラと盗み見してしまう。トモも、僕の様子がおかしいと気付いて僕の視線を追い、ああ、と訳知り顔で頷いた。


「彼女、綺麗だね」


「リアーナっていうらしいよ」


「知り合い?」


「初めて会った。けど、さっき少し話したんだ」


 ひゅう、とトモは下手な口笛を吹いた。


「へえ、意外と手が早いね。どうだった? 成功した?」


 訊かれて、つかの間、言葉に詰まる。名前は教えて貰えたけど連絡先はダメだった。


「連れがいるって……」


「まあ、それは見れば分かるけどね。一緒にいるどちらかが彼女の恋人なのかな?」


「違うと思う」


 僕が口にしたのは願望だったけど、自分の声で明確に言葉にしてみると、なんとなくそれが事実であるような気がしてきた。たった二杯のアルコールで酔っていたんだ。


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