【Ⅱ】If you want to be happy, be.

【Ⅱ】1

【Ⅱ】If you want to be happy, be./Leo Tolstoy


   幸せになりたいのなら、なりなさい。




 僕が雇って貰えたのは、ARGENTO RECOVERY WORKERSという工場やオフィスの資源ゴミ回収を請け負っている会社だった。オーナーはアルジェリア系移民二世で、デヴィッド・マクレガーという完璧なイギリス風の名前を持つカトリックだった。


 Anglicise(イギリス風にする)という単語があるくらいにイギリスでは氏名の変更が容易だ。ルーツにこだわらない人ならイギリス風に改名することは珍しくない。僕のママも僕を生んだ時に姓をブラウンに変えた。ナディヤ・ブラウンとアミン・ブラウン母子、そのほうがなにかと便利だからだ。僕も、アミン・イブン・サウードなんとかっていう馴染めない名前より、アミン・ブラウンのほうが良い。


 セカンダリースクールで紹介され、会社の事務所に面接に行った日、


「真面目に働けば、毎月きっかり取り決めた給料を支払う。若いうちは仕事がつまらなく思えるだろうが、生きるために日々の勤めをこなすことを覚えろ」


 社長のデヴィッドはムスッとした顔でそう言って、乾いた手で僕の肩を二度叩いた。中肉中背の気難しそうな中年男で、いつも作業着の下にピシッとプレスされたカッターシャツを着ていた。髭は綺麗に剃り、アラブ系であることを払拭しようとしているようにも見える。無口で不愛想だけど、古参の従業員達からは信頼されていた。仕事と報酬を保証してくれるデヴィッドは、尊敬に値する立派なボスらしい。「ボスがまともならまともに暮らせる」と誰かが言った。


 オリンピックが近いこともあり、最近のイーストエンドには新しい会社や事務所が増えた。以前からクールな若者の街としてアーティスティックなショップが軒を並べ、ファンキーな若者が多かったんだけど、それに加えて、厭味な若手ビジネスマンが増えた。ボウ・ロード近辺でも、僕が子供の頃は少なかった金髪碧眼のイギリス紳士を大勢見掛けるようになった。お陰でデヴィッドの清掃会社は繁盛している。


 仕事は本当に退屈だった。A12号線の東側地区にある工場や、ストラトフォードやボウ・ロード、マイル・エンド辺りのオフィスを回って資源ごみを回収するだけだ。ほとんどがシュレッドされた書類や、ペットボトルや瓶、缶といった非腐食性のごみで、家庭ゴミの回収業者のように腐った生ゴミの悪臭に悩まされることはない。時々飲み残しのコーヒーで作業着が汚れるのと、オフィスで働く好青年ぶった金髪の奴らから見下すような目で見られるのが不快なだけで、不満は無いと思う。けど、やり甲斐はない。つまらない、単調な仕事だ。


 毎朝七時に起きて、八時に出社し、ボスから一日のスケジュールを言い渡されて、二人一組で割り当てられたルートを回る。オフィスの中に入って、部屋ごとに、あちこちのデスクの横や下にあるゴミ箱から中身を回収して回るので時間がかかる。事務員のおばさんが時々コーヒーやキャンディをくれる。モテているのか、子供だと思われているのか微妙だ。同僚のオッサン達は滅多にキャンディは貰えないらしい。


 そんな業務を僕と組んで片付けるトラックドライバーのマスードは、肌の黒いアフリカ系ムスリムで身長六フィート3インチもあるマッチョの超巨漢だった。もじゃもじゃの髭を生やしていて、一見怖そうに見えるけれど子供や動物が好きで、愛想が良く、僕にもニコニコと陽気に接してくれた。


 一つだけ欠点を挙げるなら、イスラムのお祈りの時間になると仕事を中断させてしまうところだ。晴れていれば道路の上に、雨が降っていれば濡れずに済む手近な場所に、手持ちのミニカーペットを敷いて、メッカに向かって突っ伏してしまう。しかも事ある毎に「おまえはアラーを信じていないのか?」と心底驚いたような顔で言う。良い奴だけど、面倒臭い。ムスリムというのはそういうものなのかな。よく分からない。


 僕は毎日、マスードとハラール――イスラム的に穢れていないもの――のランチを食べた。ストラトフォード駅の近くに出ている屋台で、トルコ風のケバブサンドとコーヒーを買って、シティ・ミル川の緑の岸辺でゆっくり味わう。新鮮なトマトと香草を使った絶品ソースはカルチャーショックだった。ママは料理が苦手で、僕は物心付いた頃からいつも冷凍食品を食べさせられていた。美味しいという感動は初めて味わった。


「美味いだろ? 人間は美味い物を食べなきゃならん。幸せは食い物に宿るんだ」


 マスードは下手なウインクをしながら笑い、僕はイスラムの料理が気に入った。こんなに美味しいものを食べさせてくれるならムスリムも悪くない。


 ちなみに、ARGENTO RECOVERY WORKERSの従業員の半分はムスリムだ。僕が生まれる前からイーストエンドにはムスリムが多かった。ブリック・レーンはバングラディッシュタウンだし、うちの近所にはアルジェリア系が多い。ムスリムの女性は綺麗なデザインのスカーフを被って、しゃなりしゃなりと上品に歩く。キリスト教徒や無神論者のように肌を露出したりしない。夏でも手足を覆い隠し、貞淑さを誇りにしている。セクシーな女の子もいいけど、控え目な感じの女の子も悪くない。


 女の子――そう女の子だ。


 せっかく自由になったんだ。女の子と付き合わなくちゃ。


 トモと一緒の部屋で暮らすようになってから一ヶ月近くが経とうとしていた。


 そろそろ十月も終わる。


 僕は、この一ヶ月程の間、ウィークデーは慣れない仕事で疲れていたし、週末は部屋でだらだらしてしまって、ろくな外出はしていなかった。僕の知る限り、トモも特に出掛けた様子はない。エミとマコトはそれぞれ忙しく外出しているのに、これじゃあんまりだ。


 そんなわけで、土曜日の夕方。観光にも出掛けずに日がな一日リビングで本を読んでいたトモに、僕は強い口調で言った。


「ガールハントに行こう」


 え、と間抜けな声を漏らしながらトモは顔を上げる。


「ガールハント? いやいや、僕には無理だよ」


 曖昧に笑って顔の前で手を振るが、もう一方の手は読みかけの本から離さない。ダイニングテーブルには分厚い辞書が鎮座しているし、ワークブックも開かれていて、ブルーのフリクションも転がっていた。そう言えば、このペンもトモと同じ日本製だった。ラバーで擦れば書き損じた箇所を消せるから、学生はみんなこのペンを使っている。


「日本人は優秀なんだな」


「え、何、急に? ガールハントはいいの?」


「よくない。行く。けど日本人はいいなと思って……」


 不意に複雑な思いが込み上げた。


 僕は毎日、朝早く起きて仕事に行く。地味な茶色の作業着を着て、あちこちのオフィスからゴミを集めて回る。そんな単純労働でウィークデーを過ごす僕と違って、トモはのんびりしたものだ。エミとマコトは午前中から語学学校へ行き、夕方からは日系レストランで給仕と皿洗いのアルバイトをしているのに、トモは午後の短い時間、それも週にたったの三回、地下鉄でチャンセリー・レーンの語学学校へ行くだけだ。僕と一緒に七時に起きて朝食を作ってくれて、洗濯や掃除、時々買い出しもしてくれるけど、あとは僕が仕事から帰るまで分厚い辞書を引きながら英語の本を読んでは、ラップトップPCに向かって調べ物をしたり、何かを書いたりしている。せっかくイギリスくんだりまでやって来たというのに、TESCOとフィッシェリーズと語学学校以外には出掛けていない。お気楽な身分だな、とも思ったし、それ以上にもったいないと思った。


 とにかく、今日は土曜日だ。昼間は、ついぼんやりと過ごしてしまったけど、まだ夕方にもなっていない。今から支度して出掛ければ充分に楽しめるはずだ。


 ほんの少し僕が考えに耽っていた隙に、トモはまた本を読み始めていた。話は終わったと思っているらしい。ちょっとイラッとして、トモが読んでいるほんのページに手を翳した。何度も読書の邪魔をされて、困惑した表情でトモは顔を上げる。


「なにか用かい(Do you want me)?」


「トモ、今日の読書はもう終わり。出掛けよう」


「出掛けるってどこに?」


「パブに行かない? トモがいれば僕もアルコールが飲める」


「君、未成年だろ?」


 トモは少しだけ咎めるように目を眇めた。


「確かに、イギリスでは十八歳未満へのアルコール類の販売は禁止されている。けど、抜け道があるんだ。禁止されてるのは販売だけで、トモが買ったアルコールを僕が飲むのは違法じゃない。身分証を持った十八歳以上の成人が一緒なら、十六歳から大手を振るってビールやサイダー(シードル)が飲める」


「なるほど。そういう屁理屈が通る国なのか」


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