家庭教師 二

アキ

家庭教師 二


 二〇一二年、冬。





「こんばんはー…あれ」



 ドアを開けると、ベッドの上で毛布にくるまって息を潜めるヒサクニがいた。



「いないじゃん。トイレかな。ヒサー」



 こたつの脇に鞄を置き、ウロウロしてみる。



「おかしいなあ、」



 そう言いながら、毛布の脇腹と思しきところに人差し指を突き込んでみる。ブスッ。



「グフ!」


「……」


「…ッ………」







「ホアタタタタタタ」



 ブスブスブスブスブスブス。



「ウッヒヒ!!っあーー!!!ああはぁあああ」



 神の宿る指は毛布の脇腹を執拗に捉え、毛布は悶えながらベッドからまろび落ちる。

 僕はポケットから出したお菓子の封を破りながら座布団を引き寄せてこたつへ入った。



「チョコボール一緒に食べよ。ドリル出して、ヒサ」


「ヒィ、ヒィイ…」


「はよせえやオッサン」


「オ、オッサンン!!??ヒ、ヒィッヒ!ウヒャハハッハハハ」



 中学生の笑いのツボは無限大で、こうなったら何を言っても魂に響くことを知っている。

 息ができずに震えている毛布の耳元に魔法の言葉を囁いた。



「ウンコ」




 毛布がヒサクニの涙と涎と鼻水だらけになった時、彼の母が心配そうな顔をして部屋のドアをそっと開けた。

 家具がいくつか倒れたと思ったそうだ。





「どんだけチョコボール好きなの先生」


「こないだ大人買いしたんだけどさ、ちょっと飽きてきたわ。それはいいからドリル出して」


「あーい」



 中学一年生であるヒサクニの数学は、分数の掛け算から滞っていた。他の教科も似たようなものである。

 結局、彼が小学四年生の時に使っていた計算ドリルを引っ張り出して使う羽目になった。不自然なほどのマルだらけで、問題ページは真っ白なのに何故か解答ページの方に折り目が多い。

 大人達からプレッシャーを受け続けた末に築かれた、彼の負のレガシーだった。



「じゃあ四三ページの、おーい寝るなって。君マジですぐ寝るよね」


「んー」


「まだ八時じゃん。普段いまごろ寝てるの、」


「いつもはドラクエしてる」


「ドラクエってまだあるんだ。先生が子どもの頃はカジノで破壊の鉄球がさあ…や、いい。勉強始めよう」


「え、何?めっちゃ気になる!」


「いいって脱線だから。ほら問題写して」




 ヒサクニの通う中学校では、試験結果として順位と得点の表が貼り出される。そこに氏名は書かれておらず、テストの得点を知っている自分自身だけが順位を知ることができる仕組みだ。

 ただ、彼の所属する野球部においては、部員全員の成績を申告させ共有する。文武両道をモットーとする厳格な顧問教師は、成績下位の者は朝練の柔軟体操とランニングを除いて部活動に参加させない方針を採っていた。

 入学以来、ヒサクニは最下位の成績を部内で晒され続け、使われることのないバットとグローブは玄関脇で新品の匂いと輝きを放ち続けている。





 困り果てた彼の母は家庭教師を頼むことにした。

 塾にもやってみたが一ヶ月で行かなくなった。宿題を何度か一緒にみてやったこともあるが、理解の遅さについ怒ってしまって以来嫌がるようになった。


 何がいけないのか分からないが、とにかくこのままではいけない。

 せめて全教科でコンスタントに四〇点を取れるようになってほしい。でないと練習試合はおろか素振りもノックもさせてもらえないのだ。

 これが初回訪問日の保護者面談の概要だった。



「すみません、野球って僕はよく知らないんですけど。どうして野球をさせたいんですか」


「それは、そういう経験が後々社会で役に立つと思って。本人も嫌いではないみたいだし、」


「校外のチームとか、サークルというのも無くはないと思いますけど。そういうのはどうでしょう」


「あ、いえ。…才能というか、そこまではちょっと」



 家庭教師のアルバイトをしていると、理解できない感覚と日常的に触れるようになる。

 わざわざ苦しい方へ向かわせるのはどうしてだろう。ヒサクニの置かれた状況を垣間見て、気の毒に思う。



「どうなりたいとか、ご本人としてはそんなことを仰いますか」


「いえ、特には。でも今時せめて高校までは…もう普通に、スーツを着て働くようになってもらえれば、私はそれで」



 彼女の父の職は自営業でスーツを着るのは官公庁の入札会場に行くときくらいのもので、彼女の元夫は粉塵まみれの木材加工場のNCルーターのオペレータで、彼女自身は伝手で入った造園屋で作業着を着て事務員をしている。


 皆と同じはずの、どこかで聞いた事のあるようなストーリーを辿りたい、辿らせたい。

 そんな幻想の象徴のように感じられた。スーツを着る習慣のない人達が口を揃えて言う。『スーツを着るのが普通』と。



 一介のアルバイトに過ぎない大学生とそんな会話を何言か交わすと、中にはわずかに表情に出る人もいる。ヒサクニの母もそうだった。

 多分こんなところだっただろう。


   何この人。仕事に関係ないことばかり掘り下げて。

   部活以外で野球をするなんて考えられない。当たり前のことでしょ。

   たかが三流の地方大学生の癖に何様のつもりなんだろう。





 家庭教師とは生徒の成績を、試験の点数を上げるためにあるのだと思っていた。

 現実には違う。

 伸びる生徒は、そこが塾であれ学校であれ集団指導の中で自ら考え、質問し、理解し、競い合い勝手に伸びてゆく。はなから家庭教師を必要としない。


 伸びない生徒は、どれだけ勉強させられても伸びない。与えられた物は指の間からこぼれ落ち、ことごとく放っているだけなのに、自分は皆と肩を並べて先へ進んでいると勘違いする。


 やがて取り繕い、空しい嘘をつくようになる。どこが分からないか分からない…皆が俯いて辛そうな顔を作り、同じ事を言う。それを分かろうとしない限り嘘は本当になる。



 秋から行った数回の授業を経て感じた。ヒサクニの成績は上がらない。

 言わずもがな、三〇秒あれば居眠りをし、ドリルを開くのは週に一度、僕が家にやってくるその日その時間だけだ。そのほかはテレビゲームをやっている。入学したばかりの頃は庭でバットを振ったりしていたそうだが、最近はもうそれもない。


 そんな彼を母は静かに見ている。よそよそしくなりつつある家庭が、他人に幻想を求めるようになっていった。家庭教師が付けば劇的に変わるはずだと。

 いま最下位を脱するためには二〇点多く取らないといけない。皆と彼の差は時間を追うごとに開いてゆく。





「先週の続き。四八ページの二だったっけ」



 いつものように数学の授業を始めようとした日、ヒサクニが言う。



「ねー先生。どうして人を殺したらいけないんですか」





 僕は、不意に投げやりな気分になった。

 こんな疑問を退屈だとは思わない。

 下らないのは自分では調べずに他人に答えを求め、安易にそれを信じる姿勢だった。



「誰がそう言った?」


「え、」


「どこにそう書いてある」


「法律が…法律で決まってるじゃん」


「そうなの?ほら。確かめて」



 一冊の本を鞄から取り出してヒサクニに手渡した。

 ズシリと重く厚い、岩波ポケット六法だった。

 法学を学んでいる僕でも普段から持ち歩いたりはしない。ゼミの帰りだったからたまたま持っていただけだ。



「殺人は刑法の第一九九条だよ」



 ヒサクニは初めて見る本に目を輝かせて熱中するフリをしながら、渋々、薄いページを繰ってゆく。

 たどたどしい様子を見ても、普段から辞書の類を捲り慣れていないのは明らかだった。部屋の本棚には従兄弟が使っていたという国語辞典や漢字辞典があるというのに。

 彼はたっぷり五分かけて目的のページを見つけた。



「人を殺してはいけないと、書いてあるか」


「や、でも普通に」


「普通ってなに?」


「…いや…」


「君はどう思う」


「……」





 ヒサクニは黙った。

 思うように言葉が出てこないもどかしさ、何か言えばそれを叱られるんじゃないか、そんな萎縮した空気をあたりに仄めかす。僕は何でもいいから伝えて欲しかった。大人達が押し付けるあれこれでなく、自分はこのように考える、と。


 つまらない勉強の時間をできるだけ短くしたいためにあれこれ質問して時間を稼ごうとするのは、集中力の切れがちな生徒の常套手段だ。

 そういう意味では彼の目的の半分は達成されている。僕はその引き換えに時給三〇〇〇円プラス交通費をもらい、彼のささやかな自尊心をバターをそぐように削ってゆく。




「……ヒサ。いま本当に野球がしたいなら、カンニングしてでもポジションを取れ」



 いわゆる常識において、人はそれを言うのに躊躇する。

『お前の学力ではとても追いつかない』そんな心無い言葉を投げかけるのに等しいのではないか。

 或いは不正が発覚し、教師が弁解を聴くに『あの人がやれと言った』、こうなったときどうする?


 大人は様々の制約のもとに、計算を済ませてから言葉を選ぶ。

 そんな環境に違う流れを生じないと人はなかなか変われない。先生でも親戚でもない、真に寄り添える第三の大人を僕は目指したいと思った。



「成績はその後ゆっくり上げていけばいい…し、まあ別に上げなくてもいい。漢字が書けない計算ができない、そんな大人なんかいっぱいいるのよ。でもちゃんと生きてる」


「…じゃあなんで家庭教師やってるんですか」


「チョコボールが四〇個もらえるから」


「そうだったんだ…」




 彼自身、もう疲れ切っていた。家庭教師が家に来れば、何も考えずに与えられた事をやり、堂々と勉強した気分に浸れる。

 ヒサクニは首を小さく横に振り、妙に振り切れた微笑みとともに、こう言った。



「オレ、野球もういい。できないし。きのう黒板に書かれてすごい悔しい。たぶん、部活の誰かか、友達。先生が来て…やってくれるって、思ったけど、普通に消して、別になんも無しだし…道徳とかでやるくせに、嘘ばっかり、なんだそれって、オレ…寝たふりしてて。クソ、クソ……」



 段々と声に涙が混じってゆく。彼の本当の声。



「バットと、グローブ、と、ユニホーム。お母さ、が買ってくれた、から、やりたい、のに。さぼって、できなくな、って、ごめ、んなさい。勉強、できなくて、ごめんな、さい」



 嗚咽はひとしきり続き、僕は何も言わなかった。

 ただただ虚しくて、やるせない自分と今まさに葛藤している彼の背中をさすり、ティッシュを渡した。彼に見えないようにこっそり一枚だけ、自分でも使った。






「ヒサ。今日は脱線して時間が無くなったから無効。明日また来る」


「はい。よろしくお願いします」



 彼の母は何か言いかけた様子だったが、僕らの顔を見比べたあと、ヒサクニと並んで静かに深々と頭を下げて僕を見送った。





 すでに一通のメールを用意していた。宛先は、とある県議会議員へ。

 うるさく喚き合う自分自身の心の中の声を聞きながら書き上げたのは何週間前だったか。

 あとはヒサクニがゴーサインを出せば、地方のいち公立中学校の歪んだ仕組みは表面化し、メディアは勝手に美談を仕立て上げ、様々な世論を呼び起こし、炎上する。


 一概に誰が正しいとは言えない。学校教育としての生徒の本分を考えるに、学業は部活動に優先すべきという意見は尤もである。しかし、学校が秘すべきと考えている個別の成績が実質的に開示され、そのことが学校生活へ与える影響は蔑ろにされた。少なくとも、顧問の方針が範を超えて実行されているのは明らかだ。



 もちろん、投げかけた火種が様々の運びに揉み消され、もしくは思うように発火せず立ち消える可能性も大いにあるとは思う。

 どちらにせよ、それをすれば当事者としてヒサクニ自身が平穏な中学校生活を送ることは二度とできないだろう。それでもいいと彼が言うなら、彼の正当な権利を主張していく手伝いをする準備が有った。


 それをして何になる。分からない。他人の生活を引っ掻き回して楽しいか。元からクソだろ、そんなもん。腫れ物になるだけ。無気力にゆっくり脱落してゆくよりずっといい。お前が決めることじゃない。そう、彼自身が決める。



 彼の望みは、お母さんを喜ばせたい。叱られたくない。根源的にはこういうことだろう。

 どうしたらいいかなんて誰にも分からない。発達の仕方などそれぞれだというのに学校教育は一様に真四角で、丸でも三角形でも不合格だ。






 翌日の夕方、そろそろ出発しようとダウンジャケットを羽織ったところで携帯電話が鳴った。

 要件はこうだ。先生に払う交通費を節約したいから、これからはオレが先生の家へ行ってもいいですか。


 僕は寒いし汚いからやめとけと三回言ったが彼は頑なで、押入れは名の通りキャパシティが既にギリギリで、眼の毒になりそうなものを必死で隙間に押し込んでいる内に彼は自転車でアパートへ現れた。



「あ。いらっしゃい…」


「お邪魔します!うわ。マジだ」


「何が?お茶淹れるわ」


「その湯呑みオレが洗います!」


「もう洗ってあるよ」


「一応念のためもう一回洗います!」





 ーーーーーーーーーーー




 商店街で買っておいて以来初めて封を開けた『富士』は、淹れると緑深く甘みが強い新茶だった。



「ちゃんと洗ったのに埃が入ってる…」


「これは『毛茸もうじ』って言って、茶葉の表面に生えてる産毛みたいなもの。高級なお茶ほど多いとか云うくらいよ」


「そうなの?ん、…すげえ、マジで美味しい。こんなお茶飲んだことない」


「まあな」




 ごちゃごちゃと色々積み上がったテーブルの上にあった唯一の平面、『公的扶助論』のハードカバーの上へ湯呑みを置いて、僕は言った。



「数学だっけ。ドリル持って来た?」


「…や、今日はちょっと違くて。あのー」



 ヒサクニも同じように何処かへ湯呑みを置いた。

 ガチャ、ゴン…と音がしたが何が崩れたのかはよく分からない。





「お母さんが、あの。お母さんに…あー違う。うーん」


「…」



 彼は言葉を慎重に選んでいるようでなかなか本題に入れない。目線は手元やら斜め上を忙しく動き、それが非常に言いにくい内容であることを雄弁に語る。


 …これは、クビかな。まあしょうがない。いらんこといっぱい言って泣かせたしな。そう感じた。

 助け舟を出そうと思って口を開きかけた時だった。

 ヒサクニは正座した自分の膝に頭がつくくらい腰を折って、それを言ったのだった。






「お母さんの!彼氏に、なってあげてください!」




 秒針の刻む音だけが聞こえる。






「……おっぱいが足りない」




 僕はどうにかそれだけ言って、もう一杯淹れるために台所へ立った。





 結局、例のメールは送信されることなくフォルダに留まっていたが、ヒサクニが高校入試に補欠合格した日、ふと思い出されたようにゴミ箱のアイコンへ重なって消えた。






【了】

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