花
アキ
花
二〇〇九年、春。
僕が某地方都市の大学に入学したばかりのころの話だ。
アパートから自転車で十分くらい走ったところにある商店街へ来ていた。
商店街は東西に長く、三つ隣の町までアーケードが伸びていて、主要駅からほど近い。西側の外れへ自転車を駐めて中へと歩く。たまたまその日はアーケード内に『さくら日和』と書かれた幕があちこちに垂れ、多くの家族連れで賑わっていた。
満開の季節から少しずれている気もしたが、浮かれた音楽の中めいめいの店屋がテントを出し、桜にちなんだものを軒先に並べて客を寄せている。銀行前のホールの仮設ステージの上では、高校生と思しき五人の男女がアカペラを披露している最中だ。取り巻いている聴衆の後ろから、向かいのパン屋のお姉さんが叫ぶようになんとかブロッサムというクッキーの試食を呼びかける。
アーケードの支柱一本一本に飾られた桜の小枝が可愛らしい。いつもよりゆっくり歩いているせいか、普段は気にかけないようなことが五感に鮮明だ。
途中、煎茶の香りに惹かれて寄り道をする。煤木で組まれた昔ながらの商家の格好をした店構えだった。あるいは、本当に昔からそこにあるのかも知れない。
新生活もこなれてきて、日用品は近所のスーパーとドラッグストアで揃うのは分かって来た。今日の目当ては趣味のもの。そこは、長い商店街の東寄りにある。
いくつか交差点を渡る内に商店街の中心から離れてゆき、徐々に人あしがまばらになってゆく。行く手には、左手へ脇道が伸びる丁字路に、グランドセイコーの大きな看板が掲げてあるのが見える。その時計店の隣に専門店があることを、同じ学部の先輩が教えてくれたのだった。
丁字路がちょっとした円形の広場になっていて、そこだけはアーケードの天板がガラス張りだ。真下を通った僕に春の昼間の陽気が降り注ぐ。頭の中がふんわりとして来て、俯きがちにあくびを一つ噛み殺した。
別に寝不足という訳ではない。足元の敷石もその広場だけ白い更地の趣向で、道沿いの花壇も同じようなタイルの造りになっていて、その色合いもまたちょうどよく柔らかい光を跳ね返すのだった。腰より少し低いくらいのそれは塀も兼ねているんだろうか。花壇の中には丸く小さい花弁が溢れて、いっそう澄んだ白さを湛えていた。
僕は目当ての買い物を済ませたあと、来た道を戻った。つまり、さっきの広場へ足を向けた。ほとんど隣接しているような距離だったが。
ふと、小さめなブロンズのチェアとテーブルが設えてあるのに気がついて立ち止まる。ざっくりとした唐草の透し彫りの意匠で、緑とも青ともつかない鈍い色は、真っ白な敷石の上に不思議とよく映えている。なんとなく、乾いた砂地に日の照る中東の市場を想像した。それらは広場に入ったばかりの僕と対角の隅にあるから、来た時には後ろを振り向かない限り気づけなかっただろう。
チェアの向こうには小さなドアがあった。
ビルの一階は女性ものの服屋で、二階は喫茶店。そこから緩やかに降りてくる階段の下にガラスで囲まれた三角形の狭いテナントがあり、ドアはそこの出入り口だった。
茶色い段ボールに花の写真を留めてあるのがガラスじゅうに所狭しとセロハンテープで貼り付けてある。そのせいで中の様子はほとんど見えないが、壁は打ちっ放しのコンクリートのようだ。花の写真に紛れて「フラワー サキ」とクレヨンで書かれた段ボールがあった。夜露で湿ったのか、端ばしは波打つようによれている。
女性が道沿いの花壇に水をやっているところだった。ベージュのエプロンのポケットからは鋏の取手がのぞいている。
花たちは陽の光の下で輝く水の玉をその身に乗せて誇らしげだ。若そうな浅い緑の葉が入り混じるさまは、花をよく知らない僕にも鮮やかな生命力を感じさせる。均等に陽が当たるように間引いたらしい葉が、花壇の隅へ寄せてあった。
「ネメシアっていうの。少し前に鉢から移したばかりよ」
そう云いながら、その人が手を止めて体ごとこちらへ向いた。細い体に見合わない大きい如雨露を提げてニコリと笑う。
「さっきも通ったんですけど、これを見に戻ってきたんです」
僕は何だか気恥ずかしくなりそんなことを嘯いた。
サキさんは少し芝居掛かった横目を使いながら、
「水をたくさん欲しがる花だから、水やりは一仕事だわ」
と云って言葉を区切った。
「あ、やります」
いつのまにか僕はそう答えていた。
それ以来、たまにサキさんの店に寄るようになった。週に一度、趣味の店へ行った帰りは広場に隣接しているフラワーサキの前を通る。
「身体に悪いよお」
と、僕が手に提げた紙袋を見るたびサキさんは苦笑いする。
「はあ。好きですから」
サキさんは一人で店をやっていたからか、僕を見つけると何かしら手伝いをさせる。
「ね、これ持ってて」
お手製のレフ板だった。
テーブルには茶色い光沢のクロスが敷かれ、青やピンクのバラのフラワーアレンジメントが置いてある。採光の充分な広場では、むしろ光を当てすぎないように微妙な調整が要る。
二人で協力して撮った写真は、最近始めたネットショップに載せるんだと楽しそうに云っていた。
五月のある日、サキさんが配送に出ているあいだの店番を任された。店番といっても僕がお金を触ったり、商品を勧めたりすることは無い。
「一四時に帰るから、もしお客さんが来たらそう伝えておいてね」
そう云い残して、サキさんは軽バンに乗って出て行った。
今日の配送は、市営ホールで催される講演会の壇上の鉢物だと聞いている。官公庁が地元の花屋に順番で割り当てていくのだろう。
サキさんの店に客が来るのを見たことがなかった。僕もそれを知っていたから、気にせずいつものようにバケツに入った榊の水を替えたり、花壇へ水をやったりして時間を潰した。
今日は商店街のこちら側にも割と人通りがある。少し東に、新しく生鮮食品の売り場ができて間もない。拡声器を使って旬の果物を売り込んでいる声が聞こえる。人々のざわめきとアーケード内に反射して何を云っているかよくわからないのが少し可笑しい。
ネメシア達は相変わらず眩しく白い花を幾重にもつけて、花壇じゅうをまん丸のドームのように埋め尽くしていた。
「お客さん、来ませんね」
云わないようにしていたのに、言葉になってしまった。
その日、サキさんはブロンズのチェアに座って作業をしていた。花束やアレンジメントに飾るリボンを鋏の背で擦り上げてふわりとカールさせてゆく。
僕もやらせてもらったことはあるが、全くカールがつかないかバネのように極端なぐるぐる巻きになるだけだ。
「そうだねえ」
サキさんの小さい背中がため息をついて答えた。
最初は道楽でやっているのかとも思ったけど、地元の信金で創業融資を受けて開業したらしい。独身で県内に親類のいないサキさんは、まさにフラワーサキに生活がかかっている。
花はナマものでありハレのものだから、枯れていなければいいという事でないことは僕にも理解できる。売り物になるのは仕入れてからごく短い期間だけだ。
売れなければ困るはずだった。
この人は魔法を使っているんじゃないか。そんな風に思ったことが何度かある。
店内にある無数の生きた草花は灰色のコンクリート壁を背にして、どれもがしなやかで清冽だ。意志を湛えたように見える静謐な姿はサキさんに似て、チープな店構えとあまりにかけ離れていた。
疎い僕も、無意識に目で追うようになった。他の花屋のショーウィンドウ前で、百貨店のエレベータホールで、洋食屋で、バラ、ユリ、ネリネ、あるいはハイドランジア。
そのたびに僕の脳内は、サキさん魔法使い説を濃厚にしてゆく。
「花は人の心を動かす変化の象徴よ」
優しい弧を描いた眼はいつも花に注がれていた。
どうしてフラワーサキはガラス中に段ボール板が貼られているのか。気づいたとき、僕は少し慄いた。
しばらく足が遠のいていた広場を久しぶりに訪ねてみた。
ガラスの天板からは空の青さと日ごとに強まる陽が差し、それを浴びながら子ども達が色とりどりの風船を片手に駆け回っている。控えめな風が湿気を孕んだアーケード内を抜けてゆき、僕はひと時の涼を得る。
いつもの店を出たあと、主を失って天板の隅にふわりと揺れる風船が視界の端に入った。買い物袋を提げた人々は立ち止まることなく、何ごとか談笑しながら通り過ぎてゆく。りん、と澄んだ風鈴の音が遠くで聴こえる。
正午前の広場はいつも通りに往来が忙しい中、フラワーサキの店先だけは避けられているようにぽっかりと空間になっている。道沿いの花壇の中には、赤茶色の土しか無かった。
ブロンズのチェアから女性が立ち上がり胸の前で小さく手を振った。僕も手を振り返しながら、
「ネメシアは、」
どうしたんですか、そう訊こうとした。
太陽の下、溌溂と白く健気だった。
サキさんは薄く形の良い唇を少し尖らせたあと、ニコリと笑ってこう云った。
「意地悪な人が抜いていくからね、」
ああ。爛々としたサキさんのあの眼。
貴女が育てた、貴女の子ども達。
「全部、刈り取ったわ」
今日も素敵なサキさんは、どこか狂っている。
【了】
花 アキ @aki_aki5
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