第20話

もはや彼女に触れることにためらいはない。

先日それは確認できた。

おぞましくもあまい体験だった。

思い出すだけで笑みが浮かぶ。


だから僕はもっと大胆に彼女を染めてしまうことにした。

彼女の身体に僕の匂いをしみ込ませるのだ。

彼女の身体をこの手ですみずみまで堪能する前に、彼女に僕の存在をマーキングしてやるのだ。


これまでであれば、僕は彼女になんらかの跡を残すことをしなかった。

だがもう別だ。

露見しようともアプリの力がある以上どうとでもなる。

彼女も、その周囲の衆愚共もなにも気がつくことはない。

僕という特別な人間によって彼女が汚されることを、僕だけが知っている。


さっそく僕は、彼女を跪かせる。

そして僕の匂いを十分受け取れるように、両手を器にさせる。

顔に近づけさせ、しっかりと匂いを堪能できるようにする。

そんな体勢で机に腰かける僕を見上げる姿はどこまでも惨めだった。


まるで水を欲する乞食だ。

今の彼女は泥水でさえ喜んですするだろう。

もちろん今から彼女に与えるのは泥水などよりもはるかに芳しい蜜だ。

きっと、彼女も気に入ることだろう。


ときめきを堪能しながら、僕は彼女の手のひらに狙いをつける。


高低の距離があるせいで少し狙いが付けづらい。そもそもそんな風にして狙いを済ますようにはできていないのだ。

だが、まあ、多少顔にかかったところで構いはしないだろう。

いっそあえてそれを狙ってみるのもいいのかもしれない。

その口腔にさえ触れさせてもいい。

舌先で触れればすこし苦いだろうか。芳香を貪る彼女を見てみたいと思う。


もう我慢ならなかった。

このために僕はわざわざ満ちたままにしておいたのだ。


そうして僕は、ぎゅ、と、芳香の蜜袋を収縮させた。


びゅっ。


と。


勢いよく放たれるそれは彼女の器を逸れ、すこしだけ頬を侵す。

生理的反応は残っているらしく、彼女は僅かに目を細めた。

たぱぱっ、と器に散ったそれから立ち上る芳香に彼女の鼻が動く。


一息に彼女へとぶちまけた僕は、あまりの興奮に弾け飛んだ意識をどうにかつなぎ留めておく必要があった。

僕の匂いをその手で、顔で受け取った彼女の姿は、あまりにも尾篭だった。

視界が明滅して、呼吸の仕方さえ忘れた。


なんとか耐える僕へと見せつけるように、彼女の手が動く。

ちゃぴちゃぴと、僕の与えたそれを、肌に塗りこんでいく。

手の平に、手の甲に、指の隙間から、爪の先端、手首まで。

丁寧に、丁寧に、僕の匂いを、真皮層にまですりこんでいく。


顔にかかったものを指先で拭い、余すことなく、念入りに。


彼女の手が僕の匂いに成り果てたところで、彼女の動きは止まった。

僕の与えた指令はそれまでだ。

だけど僕はどうしてもそれでは満足できなくて、さらなる命令を追加した。

もちろん彼女は拒まない。


芳香の手を、彼女は僕へと差し出す。

鼻先を近づけ、くんくんと匂えば、ああ、間違いなく彼女の手は、僕の匂いで侵されていた。

いまはその嗅ぎなれた匂いにこそ興奮する。

これからこの匂いは、僕のなかで背徳とともに刻まれるのだ。


もう二度と僕は、このハンドクリームを変えたりしないだろう。

彼女の匂いとなったこのハンドクリームを、もう、二度と。

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