第17話

にわか雨が降っていたんだ。


窓の向こうで降っていたんだ。


どうでもいいことのはずだったんだ。


それなのにどうしてか雨音がやけに耳に残った。


いつもなら、ぼぅっとしていれば気がつかなかったかもしれないくらいの雨だった。


だけど雨音が、どうしても、聞き逃せなくて。


にわか雨が、降っていたんだ。


窓の向こうで、降っていたんだ。


―――彼女のいない教室の外で、降っていたんだ。


その意味を理解したのは、教室の前の扉が開いたのと同時だった。

上履きさえ覗かせない扉の音だけで、僕は彼女だと気がついた。

彼女の扉の音は特徴的だったろうか。

分からない。もういちどやれと言われてもできるとは思えない。

それでもそのとき、無意識のうちに彼女の到来を切望していた僕は、気がついてしまったのだ。


にわか雨に降られ、濡れそぼった彼女に。


気がついて、しまったのだ。


僕は衝動的にその場から逃げ出した。

濡れて体のラインを克明に描き出す制服が、太ももにはりつくスカートが、僕の目に焼き付いていた。

きっと直視し続ければおかしくなってしまうのだと思った。

僕には、あの濡れた彼女を我がものとする力がある。

その恐怖に、興奮に、理性が初めて叛逆をしたのだ。

安堵していた。

僕にはまだ、人間としての理性が残っていたのだ。

ケダモノと落ちぶれた僕でも、まだ、すこしでも。


そうして気がつけば僕は、人気のない手洗いの個室にいた。


誰の目にもとまらない場所にやってきたことでようやく息をつけた。


と同時に、違和感が駆け巡る。


一心不乱に逃げてきたように思う。


そのはずだ。


それなのに、いつのまに。


僕の手は、このスマホを、持っている……?


ああ。


ちがう。


ちがうんだ。


こんなの。


だって、おかしいじゃないか。

僕は、ああ、いやだ、思い出したくない、覚えていたくない。

なのに、ああ、親指が痛いんだ。

興奮と恐怖に震える指を、強引に動かしたから。


そうだ。


僕は


僕は


―――扉が、開く。


現れた彼女は、ふしぎそうに首を傾げていた。

それはそうだ。

他人のいる個室に入ることは普通じゃない。

それなのに彼女は、それを疑問と思いながら、扉を閉じ、鍵をかけた。


口を開く。


それが音を生む前に、僕は彼女の意思を強奪した。

物言わぬ傀儡と成り果てた彼女を前に頭を抱える。


どうすればいい。


人気ひとけのない個室に、濡れそぼった彼女と、密閉されている。


いったい僕はなにを望んだ。

この場所で僕はなにをしようとした。

ああ、おぞましい。

おぞましい。


それなのに視線は、気がつけば彼女の身体をねめつける。

布が張りつき露となった彼女の輪郭を視姦する。

もはやこうして対面しているだけで強姦と呼べるほどだ。


だがどうしようもない。


僕の欲望は、意思を失った彼女が目の前にあればそれだけで勝手によだれを垂らし始めるのだ。

恐るべき呪物により調教された淫乱なるパブロフの雌犬よ。

雨に打たれ濡れそぼった雨後の色香ペトリコールのなんと芳しいことか。


―――もう、すべてがどうでもいい。


ああそうとも、いいだろう、もう。

目の前に極上の餌をぶら下げられて、どうしていつまでも抑圧を受けねばならぬのだ。

僕は彼女を好きに犯せるのだ。

なんだってできる。

今すぐにその濡れ衣をはぎ取り、一切の装いなき肌をさえ僕は見ることができる。


僕のなかで、なにかが急速に失われていく心地があった。


けれどそれはどこまでも心地がいいのだ。

肌をなでるどろりとした感触が上に上にとすれ違っていくたびに愉悦する。


僕は立ち上がった。


濡れそぼった彼女を、見下した。


取り返しのつかない言葉が舌先に踊る。


そのとき、ふいに、スマホが震えた。

もつれる舌で空を叩き、いらだちとともに画面を見やる。


そこには、親友からのグチのようなメッセージが届いていた。

どうやら彼女も雨に打たれてしまったらしい。

文面からも伝わってくる憂鬱な空気に、どんまい、と励ましの言葉を送った。


そうして顔を上げると、そこには濡れそぼった肉人形がある。


怖気が走った。

僕は、僕はいま、彼女になにをしようとしていた。

この熱情に狂い、いったい、僕は。


にわかに、全身がずぶぬれになったように冷え切った。


すぐさま彼女を教室に戻らせる。

たったひとり残された個室で、僕は止むことのない雨に打たれ続けた。


僕は、もう、だめかもしれない。

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