第15話

僕の欲望で彼女の唇を震わせることを諦めたとて、彼女に奉仕を求める欲求はなおも収まることはなかった。

彼女の口調を弄ぶことは、彼女に対する欲望の形のひとつでしかない。

僕の中にはまだまだ数えきれないほどの欲望が渦巻いているのだ。


彼女にどのような奉仕をさせよう。

彼女をどんなふうに弄ぼう。

彼女のなにを僕の物にしよう。


そんな不埒な妄想を、僕は普段からしている。

催眠アプリを行使する自分を蔑みながら、催眠アプリを行使することを思い描いているのだ。

どうしようもないクズだ。


でも、でも仕方ないじゃないか。

僕にはだって、力があるんだ。

なんだってできる。

僕がなにをしたって彼女はなにも知らない。

そうだろう。

いったい誰が僕を咎める?

いちどは僕の所業を知った親友でさえいまは僕のおもちゃと成り果てた。

にゃんにゃんと僕に媚を売る彼女の哀れな鳴き声はいまも鼓膜を震わせている。


催眠アプリの力は絶大だ。

暗示をかけ、意思を閉じ込め、その身体を意のままに操り、記憶を消し、認知を歪める。

人間に対してそこまでできてしまえばそれはもはや神にさえ等しい。

それも邪神だ。

己が欲求のため人間を弄ぶ悪辣なる邪神。


だから僕はこんなことだってしてしまうのだ。

こんな、ああ、こんなにも恐ろしいことを考えつく自分はまったく救いがたい。

意識のない彼女の尊厳をここまで効果的に貶める方法が他にあろうか。

彼女が抵抗できないのをいいことに僕は彼女に奴隷のごとき奉仕を強いるのだ。

彼女のその指先を僕の快楽のためだけに操るのだ。


彼女の虚ろな目が僕のサクランボを見つめている。

それはすこしだけ色が悪くなっていて、なんだか妙な気恥ずかしさと興奮があった。

隠してしまいたいと指先が震える。

けれど僕のためらいよりもはやく、彼女の指が、そっとそれをつまみ上げた。

宝石をつまむような、優しい指先。

柔らかなサクランボはそれだけでたやすく形を変える。

彼女の指先で、サクランボが、ちゅ、と、つぶれる。


つい、声が漏れた。


彼女がいま僕のサクランボを摘まんでいるのだとそう思うだけで心臓が弾けんばかりに鼓動する。

これ以上を望んだら僕は死んでしまうのではないだろうか。

心臓が弾けるか、それとも血管が破れるか。

どちらにせよ、きっと僕は死んでしまう。


けれど、彼女の手で殺されるのなら、本望か。


期待と恐怖と諦めをいっしょくたに飲み込む。

あまりの緊張に喉がからからに乾いていた。

そんな僕を気にする機能などいまの彼女にはない。


つまみ上げたサクランボを。

彼女は、僕の命令の通りに、そっと、口に近づけていく。


あー、と、誘うように、見せつけるように開く彼女の口。

彼女の口腔を犯したあの日のことを思い出し、はしたなくも興奮してしまう。


そして。


えぉ、と伸びた舌先に、甘酸っぱい果実が、触れる。


舌先から伝わる、生暖かく、柔らかな心地。

蕩けそうなほどに甘美な快楽が脳にまで突き抜ける。

思考が宝石のような赤に埋め尽くされ、視界がきらきらと瞬いた。


ああ、なんと甘い心地なのだろうか。


舌が果実を口内へと招き入れる。

口の中で転がして、たっぷりの唾液でからめる。

彼女の熱を存分に味わいたかった。

声を出すことさえもったいない気がして、けれど口のはしから吐息が零れるのを止められない。


彼女はただ静かに僕を見つめている。

その視線さえ、意思のない彼女にそれを強いているのだと思えば興奮の材料となった。

彼女の冷ややかな視線も、いまや僕の胸を焦す。


たっぷりと果実を味わった舌先が、それを歯という名の白き断頭台に据える。

くち、と、生々しい赤を歯でつまむ。

まっすぐと視線を見つめながら。


―――サクランボを、噛み切った。


すぐに触れる種だけをぷっと弁当箱に吐き出し、すっかりぬるくなってしまっているサクランボを咀嚼する。彼女の触れた部分などもうわからなくなった。けれど、彼女が触れたという事実に変わりはない。彼女の指先から、そこに住まう常在菌がここには乗り移っている。

その一点において、この赤色は宝石だ。


どろどろに溶けた果肉と彼女との混ぜ物を、ごくり、と、見せつけるように嚥下した。


口腔に満ちる甘酸っぱい香りを堪能しながら、唇を舐める。

たったひとつを食べるだけで、僕は息も絶え絶えになっていた。

心臓が鳴りやまない。


それなのに、なんということだろうか。

とっておきのサクランボは、まだ、あと三つもあるのだ。

そして彼女の指先は、容赦なく次のサクランボを摘まみ上げている。


ああ、本当に、僕は今日、死んでしまうのかもしれない。

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