第10話
この空間は静かだ。
校内に散乱するざわめきもどこか遠く感じる。カーテンを閉め切ってしまえば暗闇に音が沈んでいくような心地さえあった。外気よりも数度低く思われるこの涼やかな空気に、きっと音もその熱を失っている。
だからこそ、彼女の声は、僕にしか届かない。
彼女と僕の存在は外に漏れだすことなく、この密閉された空間の中に潜められている。
彼女がどれだけ声を上げようと、どんな声を上げようと、それは残さず僕のものだ。部屋に散らばる反響全てを僕は抱きしめられる。
彼女の甘い声は、僕の欲望をかきたてる燃料にしかならない。
僕だけが聞く彼女の声。
それは、ああ、きっとどこまでも心地よいものだろう。
彼女の声を僕は独占できる。どんな声も僕には思いのままだ。
以前に聴いた彼女の子守唄だって、僕いがいに知り得るのは彼女の妹くらいのものだろう。
僕は彼女の全てを聴ける。
それこそたとえば、彼女の恋人しか聴けないような、そんな声でさえも。
そう思ってしまったとき、僕はもうどうしようもなかった。
彼女の声を、聴きたい。
僕には本来届くはずのない声を。
愛という名の熱情にふくれた肺から噴き出し彼女の声帯を震わせる、そんな恋慕の声を。
聴いてみたいと、僕は、思ってしまった。
方法は、いくつもいくつも思い浮かんだ。
彼女の声を引き出す方法だ。
僕は少しでもなまなましい彼女の肉声が欲しかった。だからどうしても、ただ声を出すよう命じるだけでは我慢できなかった。堪えたくとも溢れてしまうような、そんなリアルが欲しかった。
僕の舌が彼女の身体をあやつり、僕の欲する声へと彼女を導いていく。
柔らかなチークを塗りつぶすように染まる頬。
宝石の瞳はとろりと濡れて、彼女の吐息に合わせてふるると揺れる。
目じりはやわらかなカーブを描き、星屑のように露が伝う。
たっぷりと血をすすり赤く染まりきった二匹のヒルの、ぬるりとした蠢きにみとれた。
鼻先に触れる彼女の吐息が純白の歯列をなでる音さえも耳に届く。
僕の目の前には、愛欲に浸された彼女がいた。
偽りの彼女だ。感情のないそれは僕の造り上げた偶像でしかない。
それでも、それでも彼女は、あまりにも美しかった。
今のこの瞬間で満足すべきだと理解している。
この一線を越えれば僕は、二度と彼女の顔を直視できないだろう。
彼女の顔を見るたびに、声を聴くたびに、そして僕がひとりでいるときでさえ、彼女の声を思い出すのだろう。
僕の手の中にはスマホがあった。そしてそれは彼女へと向いている。
今から僕は、また、過ちを犯す。
僕は告げる。
彼女の声を引き出すための、最後の言葉を。
―――これを見て、どう思う。
僕の問いに彼女は。
とてもかわいい、と、そう答えた。
脳髄がしびれるような快感が鼓膜を貫いて突き刺さった。
彼女の口からこぼれたその声はあまりにも甘美だった。
僕はすかさず震える指でスマホを操作し、愛らしい猫の画像をそっちのけに録音アプリを止めた。
彼女以外の余計な音が入ってほしくはなかった。
録音の停止を確認して、僕は大きく吐息した。
ああ、ついに、ついにやってしまった。
彼女の声が、本来僕になど向けられるはずもない彼女の声が、今僕の手中にある。
彼女はその口がもうどうしようもないほどに汚れてしまったことなど気がついていない。
だが確かにその口はいま僕の欲望に従い、愛欲を食んだのだ。
僕はこれ以上彼女の顔を見ていられなかった。
だから僕は、音声を確かめることさえせずに彼女の視線から逃げ出した。
保存領域が不足していたために音声ファイルが喪失していたと気がつくのは、その夜のことだった。
同じことをしでかしてしまおうという意気地は、僕にはなかった。
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