第6話

目の前の彼女が本当に意識を有していないといったいどうして言い切れるのだろう。

唐突によぎる疑問は、線路沿いですれ違う列車のように凄絶な不安を僕へと叩きつけた。途切れることのない窓明かりと視線が僕を踏みつぶして通過していく。地面から伝わる戦慄に心が怖気た。


はじめて妹に催眠アプリを使ったとき、催眠を解除した後は明らかに記憶を保っていないようすだった。

けれど目の前の彼女もまたおなじなのだとどうして言い切れる。

たった一例で検証した気になっていいのならきっと今頃ガンを完治させる薬は市販薬になっているだろう。


そもそも、解除後に記憶がないことは実施中に記憶がないことの証明にはならない。

つまり催眠の解除に伴い記憶が失われるというだけで、今だって彼女はその瞳の奥に閉じ込められた意志で僕を罵倒しているのかもしれない。

催眠中に刻まれたその嫌悪感が彼女の人格に影響を与えないとどうして言い切れる。


鳥肌が収まらない。今すぐにでも逃げ出したい。けれど思いついてしまった以上その実際を知らなければとても恐ろしくて彼女を解放することなどできなかった。


僕に対して、君はなにを思っている。

そう問いかけたとき、彼女は僕の求めている意味の回答をもたらしてくれるだろうか。彼女の返答は彼女の認識にずいぶんと影響される。つまりこの問いかけでも今の意思(あるとするならば、だけれど)に基づいた返答がくる可能性は十分にある。むしろその方が自然だ。


だが、もしそれで罵倒でも返ってきたら僕は自分でも狂乱のあまりなにをしでかすか分からない。

彼女のあの甘そうな唇からそんなものが飛び出してくるなどと考えたくはないが、人間というものは言葉遣いが丁寧か粗雑かの違いはあっても内心で誰かしらは罵倒するものだと思っている。

いかに彼女のような人間であれど、聖女幻想を抱けるほどに僕は幼くはない。


そうなったとき、僕は恐怖のまま、彼女の僕に対する意識を改ざんしてしまう可能性さえあった。僕は僕をみじんも信用などしていないのだ。彼女のためにもそれは避けたいとそう思う。それは僕に残されたたったひと欠片の良心だった。

だからあくまで印象というデリケートな問題には触れず、彼女の意識の有無だけを判別する必要がある。


手始めに、意識はあるかと問いかけた。

すると彼女はそれをあっさりと肯定した。


声にならぬ彼女の罵倒を想像し、全身がじっとりと溶けていく心地がする。

しかし、この回答は予期されたものだった。僕は必死に自分にそう言い聞かせた。


実際この肯定には二つの可能性が考えられる。彼女に今も意識があるのだという意味と、彼女は気を失っていないという二つの意味だ。彼女は無意識ではあるかもしれないが、明らかに意識を失っていない。

だからこの肯定は、意識を失っていません、という意味である可能性があった。


……というより、最初から無意識かどうかを尋ねればよかったのか。

自嘲気味にそう思ったとたん、僕の脳裏に嫌な予感がよぎった。


いま僕は、恐るべき箱の蓋に手をかけているのかもしれない。


いますぐ手を引くべきだと臆病な僕が絶叫している。開いた先に待つのは絶望だ。たとえ希望が待っているとしても、それはポケットに入る物体と同じ形をしているだけだ。絶望の果てにすべてをかき消し希望とのたまうおのれの姿を幻視さえした。

恐怖が僕の舌の根を震わせた。


けれど僕は、箱の少女パンドラになることを選んだ。

君は今無意識なのかという問いに、果たして彼女は。


―――肯定を、返した。


僕は心から安堵し、全身を包む疲弊感の裾を引きずりながら立ち去った。


ふつうに無意識に嫌悪されてたらどうしよう。

帰ったら押し寄せてきた不安に、僕は眠れなくなった。

目を閉じれば彼女の温度のない視線を思い出すのだ。


そんな僕を妹が面白がって、からかわれているうちに一緒に徹夜した。

気が紛れた礼にと朝食に出された缶詰ミカンを半分分けてあげたら彼女はたいそう喜んで、なぜかこれからも一緒に寝ることになった。


妹の思惑など、僕には計り知れなかった。

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