第19話 宣告
スタート地点から一枚の壁を隔てた場所。エリア2。
ドーナツ状に伸びる廊下の真ん中に、二人……ではなく、人間と悪魔はいた。
壁と壁の幅は10メートルほど。廊下と呼ぶには幅広く、エリアと呼ぶには狭い場所。
何もない場所。そこで、サクラミと上野は
「退屈だねえ。サクラミちゃん」
親しみを込めて、というよりは馴れ馴れしい感じで上野は話を振った。
「まだ15分も経っていないわ。人間というのは、そんなに忍耐力がないものなの」
「やー、いろいろじゃね? 俺は我慢とか苦手だけど。
悪魔ってのはみんなサクラミちゃんみたいな感じなの?」
「色々よ」
と、サクラミは流す。あしらっていると言い換えてもいい。
悪魔の性質や性格について彼女は考えたことなどない。なんとなく楽天的な考えの者が多い気がするが、やはりそんなのは千差万別だ。
能力、嗜好、容貌、価値観。個体によって全く異なるものを持つ。
人間の姿をコピーするとき、悪魔の元の性格にも大なり小なりの影響がある。……そんな説を耳にしたこともあるが、サクラミは懐疑的だった。
まあその真偽は置いておくにしても“要は人間と変わらない”。そう捉えておくのがわかりやすそうだ。
少なくとも個体差のことについてのみ、論じるのであれば。
「それにしても悪魔と手を組むことになるなんてなぁ」
相手にされていないのを知ってか知らずか、上野は話題を切りかえた。
「何か不都合でも?」
サクラミが聞くと、「いや全然」上野は肩をすくめた。
「助けてくれるなら誰でもいいよ。相手が人間でも悪魔でもね」
言い方は乱暴だが、それが本心だった。
スタート地点では吉田に敵意をむき出しにした上野だったが、それは彼が特別に血の気の多い性質というわけじゃない。
ただ助かりたい一心。それだけだった。
「……。来たみたいね」
緩やかなカーブの先から、金属の擦れる音がサクラミたちの耳に届いた。何者かがエリア2へ続く扉を開いた合図だ。
それは同時に開戦の合図でもある。
最初に現れたのは吉田と
「4人全員が来るってのは意外だったな、サクラミちゃん。
てっきり桂木あたりが独りで来て、2の鍵と引き換えにチップをよこせって言うかと思ってた」
それなりに的を射た上野の推論。それもひとつの可能性として考えていたサクラミは「そうね」と短く肯定した。
桂木たちが4人ともエリア1を出られなければ、サクラミと上野もこのエリア2を越えられない。そうなれば全員がチップ20枚を失う。
そうなれば「エリア2突破の鍵を渡す代わりに、手持ちのチップをよこせ」という交渉が成立する。
2の鍵だけなら桂木チームが独占しているのだから。
「でも4人で来たということは気がついたんでしょう。“4人のうち3人でもクリアできれば、チップの損失は少なくできる”という理屈に。
あとは上手にタイミングを計れば、辻を言いくるめて協力させることができる」
「なぁるほどな。敵もなかなかやるじゃん」
まあ、俺たちの勝ちに影響はねえけど。と、上野が笑う。
それはその通りだ。どんな取引の仕方をしようと、傷の深さが変わるだけで、戦局がひっくり返ることはない。
それでも桂木チームが思考を放棄していないことはサクラミにも認められた。
「辻さんの説得に成功したのね。さすが桂木さん。
一回戦でフジウラを破ったたけのことはあるわ」
実際には、辻の説得をしたのは御代である。けれどそのことを知るはずのないサクラミは、もはや桂木しか見てはいなかった。
「さっきはよくも裏切ってくれたなあサクラミ、いや悪魔! 覚悟しとけよ!」
代わりに威勢のいい声を発したのは吉田だった。
だが彼への興味など欠片もない。まるで意に介すこともなく、サクラミは桂木にだけ語りかける。
「さて、面倒な前置きはなしにして本題に入りましょう。要求したいことはお互いが同じはず。
鍵の交換を始めましょう。
こちらは“3の鍵”を、あなたたちは“2の鍵”を独占している。
お互いに必要なものを取引しなくてはならないもの。ね? 桂木さん」
「交換の相手は俺でいいのか? 2の鍵なら御代も持っているぞ」
予定調和の提案をすぐに飲み込み、桂木は返事をした。
もちろん2の鍵を御代が持っていることはサクラミも知っている。彼女も最初は桂木チームの一員だったのだから。
ゲーム開始時点から鍵のやりとりがなされていないとすれば、現在彼らが所有する鍵は
桂木:2‐A、2‐C
吉田:M(マスター)
御代:2‐B
である。
つまりサクラミが上野と共にエリア3へと進むためには、2の鍵を持つ桂木か御代のいずれかと取引を成立させればよい。
けれどサクラミはやはり、相手を桂木ひとりに絞っていた。
「取引は桂木さんとだけ行うわ」
「どうして?」
御代が問う。
訊かれるのを待っていたとばかりに、サクラミは微笑んだ。
「桂木さんなら、私たちに寝返ってくれるから。
ねえ? 桂木さん」
全員の視線が桂木に集まる。「え? それってどういう」吉田は桂木を見て小さく呟きを漏らした。
「桂木さんの立場に置き換えてみるといいわ」
サクラミが語る。
聞く者の胸にじわり滲んでゆく、毒の言葉を。
「いま桂木さんは2-A、2-Cの鍵をひとりで持っている。つまり私たちと鍵の交換をしてしまえば、勝ち上がりのためにもう誰の助けもいらないの。御代さんと違ってね。
敗者が多ければ多いほど勝者のチップは増える。
だから桂木さんはあなたたちを見捨てるの。
自分のため。必然的に」
サクラミは損得の論理を説いた。しかし本当の意図は別のところにある。
だってサクラミは悪魔なのだ。チップの枚数など、言ってしまえばどうでもいい。
単にサクラミは自分の思惑が完全に成立することを望んでいた。病的なまでの徹底主義が彼女を動かしていた。
だからゲームの展開を。人間の精神を掌握することに力を注いだ。
一回戦も含めた最初から。今の今まで。
そして彼女の願望の実現も、すぐ目の前まで迫っていた。
「——桂木君。まさかとは思うけど、きみまで裏切るなんてこと……ないよな」
泳いだ目で、吉田が桂木に問う。
「逆転の策があるって……言ってたじゃんか。なあ、そうだろ」
「……」
「なんとか言ってくれよ!」
桂木の胸ぐらをつかみ、吉田が食ってかかった。
なるほど。実に哀れだ。存在しない逆転の策を餌に、彼は桂木に協力させられてしまったというわけか。
まあ一回戦であれだけの強さを見せられたのだ。すがりたくなる気持ちもわからなくはないが——サクラミは虫を憐れむような目で吉田を見た。
「どうするの? 桂木さん。私たちとの交渉に乗るの? 乗らないの?」
最後の決断をサクラミが迫る。
桂木はひとつ大きく息を吸ったかと思うと
「ああ。いいだろう。だがひとつだけ条件がある。
俺も鍵の交換相手にお前を指名するよ。上野とはやらない。それでもいいなら」
そんな風に返した。
それは桂木チームの3人にとっては裏切りの宣告。
失望と絶望をいっぺんに突きつける決断の言葉だった。
「かまわないわ、桂木さん。その条件で」
桂木の条件をサクラミが呑んだ。3の鍵は一本あれば足りるのだから、交換するのはサクラミでも上野でもどちらでもいい。
だがなぜ桂木は交換相手を指名したのか。それだけはわからなかった。
攪乱? それとも挑発? 交換相手がどちらでもいいのは桂木も同じはずなのに。
まあおそらく、私の言ったことに対抗したかった……そんなところでしょう。
思考を完結させてサクラミは鍵を提示した。キーホルダーに刻まれた3‐Bの文字がぼんやりと光る。
桂木は目を細めるようにして文字を見ると、自分も鍵を取り出した。
サクラミの視線がキーホルダーに集中する。この作業は特に怠ることを許されない。
せっかく取引をしても、手に入った鍵が別の鍵だったら目も当てられないからだ。
桂木の持つキーホルダーには間違いなく2‐Aの文字が刻まれていた。
「確認できたわ」
そう言うと、サクラミは鍵を右前方の壁に放った。
その動きで、桂木が取引の方法を悟るには十分だったらしい。桂木もまた同じように、右前方の壁へと鍵を投げた。
そしてお互いが、相手の投げた鍵を拾いに歩く。
「……」
その様子を、居並ぶばかりのプレーヤーたちは固唾を呑んで見守った。
もしかして波乱があるんじゃないか。そんな期待や、不安も込めて。
しかし桂木もサクラミも、鍵を拾い上げる瞬間まで特別な動きは見せなかった。普通に歩いて普通に鍵を拾い上げただけ。
つまりは交渉の成立。そして同時に、サクラミの策の成立だった。
少なくとも彼女はそのように思って嗤った。
「取引終了ね。それと、ゲームも決着。
楽しかったわ、桂木さん。
このゲームは“一応”あなたも勝ち上がりという形になるから、次のゲームでもまたご一緒しましょう」
一礼を残して、サクラミが背を向ける。
意気消沈した様子の桂木チームからはなんの言葉もなかった。が、サクラミにとってはそれが心地よかった。
敵が言葉も失うくらい完全な勝利を挙げられたのだから。
「次のゲーム、か」
サクラミは、背後から桂木の声を聞いた。
余韻に水を挿すかのような声に、サクラミは眉をひそめて立ち止まった。
「まだ何か言いたいことでも?」
尋ねると、桂木は応じた。
「大きな勘違いをしているようだから、教えてやろうと思ってな。
このゲームは俺たちの完全勝利だ。そしてお前はもう絶対に勝ち上がることはできない。
残念だったな。サクラミ。お前はここで堕ちるんだよ」
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