第9話 反転攻勢

 桂木かつらぎの口から名前が出たその瞬間。息の詰まるような緊張が場を満たした。


 空気がそこにあることさえ疑わしくなるような、重苦しさ。

 窒息しそう……御代みしろには本気でそう思えた。程度に差はあれど、他の者も感じることは同じだった。


 ただひとり。フジウラミサトだけを除いて。


「あらら。見つかっちゃったわね」


 フジウラは言った。悪戯の見つかった子供みたいに言った。

 グロスの光る口を吊り上げて笑った。妖艶に嗤った。


 桂木かつらぎ千歳ちとせを見据えて。


「まさか正体を見破られるなんて、思ってもみなかった。

 賢いのね。とても素敵よ」


 言い逃れも、反論もフジウラはしなかった。

 ただ純粋に、自分を見つけた桂木を賞賛した。


「隠し事を見破られたわりには、ずいぶんと余裕だな。フジウラ」


 桂木の挑発に、フジウラは微笑みで応じた。


「それはそうよ。ただびっくりしているだけ。だって正体がばれるのと、ゲームの勝ち負けはまた別のお話だもの。

 悪魔だとばれたところで、私はどうせ負けることはない」


 過剰にさえ取れる自信だったが、言葉は確かにプレーヤーたちの心を揺さぶった。誰もが予想だにしない展開だったからだ。


 正体を見破られた悪魔はどう出るだろう。慌てるだろうか。戸惑うだろうか。それとも、観念するだろうか。


 プレーヤーたちはそんな反応を期待していた。なのに。


 目の前の女は、単に窮地を満喫しているように見えた。


 これが悪魔。


「さあて。私が悪魔とわかったところで、どうするの? 私とする?」


 フジウラは桂木だけに言った。照準を定めたかのように、フジウラは桂木しか見てはいなかった。


「お前がそのつもりならな」


 そんなフジウラに強気の対応をしながら。

 桂木は内心で、これはかなり良くない展開だと思っていた。


 桂木の計画では、勝負を決するのはこの局面じゃなかった。悪魔を特定することは作戦の前段階に過ぎなかった。


 倒すべき敵を明確にし、その上で残る四人が作戦の構築をする。そういう見通しだった。

 が、悪魔の攻勢はあまりにも早く、対応が後手に回ってしまった。


 戦う手段は存在する。でも今はまだ、その準備ができていない。


「だったら勿体つけることもないわね。さっそく勝負をしましょうか。

 席へおつきになって?」


 フジウラが桂木を誘った。桂木は黙ったまま、彼女について席へ向かった。

 椅子へ腰を下ろすと、120秒のままで止まっていたタイマーがカウントを始めた。


 なし崩されるような形で、桂木とフジウラの勝負が始まった。


「さて、桂木さん。あなたにどんな思惑があるか知らないけれど」


 フジウラはチップのケースを取り出すと、それをテーブルクロスに隠れた装置へひっくり返した。

 ケースがテーブルクロスから出てきたとき、中身はもう空になっていた。


 フジウラは迷うことなく、一度に全てのチップをベットしたのだ。


「私の作戦はこれだけ。さあ、桂木さん。どちらのチップが上回るのかしら」


 一見、無鉄砲にも見えるフジウラの行動だが、桂木はいよいよ差し迫った状況にあるのを確信した。


 このゲームにおいては、ちまちまと小額のチップをベットする戦術などあり得ない。チップの総額が自分より低い相手を見つけ、全てのチップを賭けて叩き伏せる。それがセオリーであり、ベストな戦術であることに間違いはないからだ。


 そのことをフジウラはわかっている。そして自分が所有するチップは桂木より多いと自信を持っている。

 だからこそこういう戦術に出られるというわけだ。


「先輩……!」


 勝負のテーブルの傍にいち早く駆け寄ったのは、御代だった。


「だ、大丈夫ですよね。先輩なら、相手が悪魔だって」

「……」

「せ、先輩」


 御代の表情は、隠している桂木の心を感じ取ったように、陰っていった。


 勝つ方法も、あるにはある。

 あの余裕から推測するに、フジウラの所有チップはおそらく俺より多い。それでも勝つ方法はある。けど……。


 思考が袋小路に陥ったまま、桂木はモニターを見た。

 59秒。残り時間は半分をきっていた。


「先輩……先輩! ねぇ勿体ぶらないでくださいよっ! 先輩なら何か思いついてるんですよね、勝つ方法を。

 私わかってるんですから!」


 わかってるのかどうなのか微妙なセリフを御代は叫んだ。ただ単に、盲目に信じているだけに思えた。


「先輩がこんなところで負けちゃうなんて、そんなの認めないんだからっ!」


 悩む桂木。すがる御代。


 残り時間が、もうわずかの段階にまで迫った。そして、桂木はついに呟いた。


 実現不可能としか思えない、しかし必殺の手段を。


「誰か、俺にチップを預けてくれないか」


 そう言ってすべてのチップを投入し、桂木は歯を食いしばった。

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