騎士剣の魔女

@k33limited

一章

第1話 ガラテアのプロローグ

 整然と偏りなく磨き抜かれた肉体には、その中心に力の井戸が生まれる。それは精神のイドとはまったく別物の、肉体のイドだ。

 イドに目覚めた肉体は丹田アブドメンに開いた井戸から尽きせぬ力を汲み上げる。そして、ただ筋肉を動かすのとは天地ほども開きのある力を発揮する。


「今日は木剣じゃないぞ」


 正面に見据えるのは庭石と並べて置かれた巨大な鉱物の一枚岩モノリス。これまでに訓練用の木剣を軽く千本はへし折ってくれた難敵だ。

 手に握り込むのは普段は型を見て貰う時にしか使わない本身の剣。柄の余りに左手を添えて、私はそれを大上段に振りかぶった。

 鋼のモノリスはまるで碑文を刻む前の碑石のように聳えている。いや、何度も打ち込んで傷だらけになった表面は、わざわざ文字にしなくとも如実に鍛錬の日々を語っていた。


「本当に長かった。今日まで付き合ってくれてありがとう。でも真剣勝負は一度きり。私が勝つか、おまえが笑うか、二つに一つだ」


 昨夜、大好きな大叔父が死んだ。

 今朝は早くから庭の土を掘り返して、まだ起き上がりそうに見える亡骸を二メートルの深さに埋葬した。

 随分と昔のこと。

 森に捨てられた赤ん坊が、仔を亡くした親熊に拾われて成長して行く。そんな物語を絵本か何かで読んだことがあった。

 違ったかな。

 大叔父が寝物語に話してくれたんだったかも。

 どうあれ主人公の少年は逞しく健やかに、伸び伸びと育って行った。少年は熊にも負けない自慢の力できこりや狩人を追い払い、森の仲間たちの頼れる騎士ともなって、動物たちと幸せに暮らしたんだ。


「懐かしい。小さな頃のお話を今でもはっきり覚えてる」


 赤ん坊の頃からずっと一緒だった大叔父。私を一から鍛えてくれて、いつか騎士になる夢を与えてくれた。

 ずっと、二人きりだった。


「私も物語の少年と同じだ」


 私は森に捨てられた赤ん坊で、大叔父は親熊。森の中に建つ古びたこの邸が私の知る世界の全て。

 その大叔父が永遠の眠りに就いた。

 いつものように早朝の庭で稽古の始まりを待っていると、朝も夜も早い大叔父がいつまでたっても現れない。様子を見に部屋を覗きに行ったら、ベッドの脇に臥せて息を乱している大叔父がいた。




 ***




「昨日の晩から体中の筋肉が言うことを聞かん」


 熊のような体をどうにかベッドに戻して、冷たい井戸水を絞った手拭いで大叔父の額に汗を拭った。大叔父はその手を掴んで、じっと目を覗き込んで来た。


「どうしちゃったの? 大叔父様らしくもない」

「そうだな。だが分かるだろう。ついに私にもお迎えが来たんだ」


 氷の粒を無理矢理呑み込まされたような感覚。予感はあっても言葉にされるとショックだった。


「が、柄にもないこと言わないで。昨日だって言ってた。私はまだまだ未熟だから、もっともっと鍛えなきゃダメだって……」


 間に合わせの言葉で埋めようとすると、大叔父は宥めるように髪に触れて撫で付けた。ザラザラとした大きな手――。


「私は存分にやって来た。これからはおまえの番だ。教えた通り正しい鍛錬を続けろ。体の中心にできた力の井戸を涸らすな。ただ闇雲に鍛えればいい訳じゃない。そんなことをすればあっという間に井戸は涸れてしまう。分かっているな」

「分かってる。分かってるから、今日も一緒に稽古しよう」

「そうしたいのは山々だが、大腿筋も下腿筋も言うことを聞かん。これでは立つこともままならん」

「大腿筋のどこが悪いの? 二頭筋? 四頭筋? マッサージしてあげる。そうしたらきっと立てるよ」


 大叔父は力なく首を横に振った。


「この身は最早、今日明日の命だ」

「……そんなのやだ。一人にしないで――」


 不安が言葉を子供にする。心もむずかるように嫌がった。けれど、


「しー……。一人になどなりはしない。いいか、ガラテアよ。私が死んだらその日に発て。遅くとも翌朝には。いつまでもここにいて未練を残すな。それはおまえの目指す騎士の道ではない。おまえは、騎士になるのだろう?」


 大叔父の頭には大きな古傷があって、そのせいか普段は長話をすると呂律がおかしくなったり、急に話が飛んだりした。なのに今はしっかりとした言葉で、私の中の聞きたくないと思う心を逃がしてくれない。

 それに大叔父の言葉は全部真実だ。

 物語の主人公のように栄光と不屈の騎士になる。それが私の夢。

 かつて騎士として帝国に仕えたという大叔父こそ私の英雄だ。

 物心つく前から木剣を振り回し、来る日も来る日も一緒になって体を鍛えた。たゆむことなく技を磨き上げて来た。

 大叔父の編み出した技の全てを受け継いだ私が、この先、手探りでも道を探すべきところまで来ていることは分かっていた。


「でも、どこへ行けば?」


 大叔父はベッド脇の小棚に手を伸ばそうとして直ぐに諦めた。


「いかんな。肩甲挙筋も馬鹿になった。頼む、そこの封書を取ってくれ」


 小棚の上の封書を渡すと、大叔父はどうにか上半身を起こして「いいか」と前置きした。


「夕べの内にしたためた手紙だ。総指伸筋が言うことを聞かんで、ミミズののたくったような字になったが、まぁ気にするな」


 大叔父のお道化顔に私も少しだけ笑った。毎日、二人して筋肉のことをよく話した。


「中には手紙と勲章を入れてある」

「勲章?」

「そうだ。かつて皇帝陛下から直々に授かった、騎士としての名誉の証だ。我が人生の、全てだったと言ってもいい」

「全て……。そんな大切な物をどしろって言うの?」

「帝都へ行け」

「帝都へ?」

「そうだ。地図は机の引き出しにある。帝都へ行って、先帝様の墓前にこの手紙と勲章を届け欲しい。それが私の遺言だ。おまえに託す」


 遺言と聞かされて、反射的に拒む表情かおを見せたんだろう。大叔父は両の手を伸ばして私の顔を挟み込んだ。


「行くんだガラテア。ここには確かに私とおまえの幸福があった。だがそれは小さな世界でのこと。ここを出て広い世界へ行け。そこで思うがままに生きてみろ。そこには出会いがあるだろう。苦難も試練もあるだろう。何故ならそれは、世界がおまえを待っているからだ」

「世界が、私を?」


 大叔父は私の頬と髪を撫でると、封書を押し付けるようにしてベッドに身を横たえた。


「さぁ今日も始めるぞ。鍛え上げた筋肉が己を裏切ることはない。力を付けろ。全てはそれからだ。それがあって初めて、騎士は守ると決めたものを守り抜くことができる」


 それは稽古のたびに聞かされて来た大叔父得意の前口上。


「早く始めろ。私はここからでもちゃんと見ている」


 それから私は後ろ髪引かれる思いで庭先へ戻った。

 初めてする一人だけの稽古。いつもなら午前中一杯は全身の筋肉をいじめ抜いて、午後になると城のような大叔父を相手に剣を振り続けた。毎日繰り返して来たことなのに、一人になると急に勝手が分からなくなる。


 騎士になる――。


 私にはそれだけだった。

 どんな本のどんな魔法使いよりも、一振りの剣、一人の主に全身と全霊を捧げる忠誠の騎士。大叔父の背中にいつも、そんな真っ直ぐな生き方を見ていた。

 やがて、どこか空虚な時間を終えて寝室へ戻ると、大叔父は目を閉じて、もう息をしていなかった。

 本当なら夜は夜で騎士の何たるかを滔々と聞かされ、何度も繰り返される話にウトウトと船を漕いでいたはずだ。

 その晩は物言わぬ大叔父の隣りで眠りに就いた。そして朝起きて、目覚めない大叔父に「おはよう」を言ってから、黙々と庭先に穴を掘った。




 ***




 腰を落として低くなった重心と丹田アブドメンが一つになるのを感じる。井戸から汲み上げたオーラを雪だるま式に膨れ上がらせて行くと、鼓動や全身を巡る血の流れを強く感じた。

 呼吸を一定に保ち、体の中心で渦を巻くオーラに、大叔父から学んだ技のイメージを練り込んで行く。


乾坤一擲ライズオアフォール――」


 選んだ技は、持ち合わせの力を根こそぎベットして伸るか反るかの博奕ばくち技。結果で未来を占うにはお誂え向きだと思った。


「行くぞっ!!」


 丹田アブドメンに溜め込んだ気の塊りを爆発させて跳び上がる。そのまま落下の勢いに乗せて全身全霊の振り下ろし。狙い澄ました刀身をモノリスの天辺にこれでもかと叩き付けた。


 ガイィィィィィイイン――!!!


 鈍鉄の抵抗が衝撃の波になって、腕から肩へと瞬時に突き抜けた。

 しくじった!

 咄嗟の思いと脂汗が同時に噴き出す。けれど次の瞬間プッツリと抵抗は消た。

 体はそのままモノリスの前にストンと着地。握り締めたままの柄から切っ先へと視線をずらす。するとそこには真っ二つに断ち割られた鉄塊がV字になって、断面が青く輝いて見えた。


「できた…………」


 今までにない全力を出し切って、体は戦慄わなないていた。


「できたぁーっ!! できたっ、できた! できたぁぁぁー!!」


 倒れ込んで転げ回って、草だらけになりながら体中の喜びに任せて叫んだ。


「大叔父様っ、今の見てた!?」


 立ち上がって振り返ると、誰もいないポーチにロッキングチェアが揺れていた。

 私は盛り土の前に剣を立て、柄に花輪を飾り、しばらくじっと祈った。


「見ててくれた? ほら、大叔父様より硬いモノリスが真っ二つに割れたよ。お蔭で決心もついて……、だからこれでもう、しばらくお別れだね……」


 不思議だ。さっきまでの興奮がすっかり水を打ったようになって、私の心は既に旅立ちの準備を終えていた。


「大叔父様の言い付け通り、私はこの邸を出て広い世界を見て来ます。先ずは遺言を果たしに帝都ネビュラへ。それから先のことはまだ何も分からないけど……、でも大丈夫。大叔父様と一緒に鍛えたこの体、この筋肉があれば、きっとやって行けると思う」


 墓標の剣にかけた花輪は、この時季になると庭を埋め尽くす勿忘草わすれなぐさ。私も同じ花を一輪、押し花にして、お互いに、この先もずっと忘れない。そう誓った。

 立てる誓いはもう一つ。託された封書のこと。

 大叔父がどんな想いでその手紙を書き、どんな想いから勲章を返そうと決めたのか、それは私には分からない。今はただ師であり、父でもあった大叔父の、最期の望みを叶えるだけだ。


「大叔父様。遺言は必ず果たします。一廉ひとかどの騎士に、必ずなると誓います。だからもう何も心配しないで、ここで吉報を待ってて――」


 今日までの感謝を胸に、私は騎士の礼を取って誓いを立てた。

 これは私にとって、騎士としての初めての任務だ。

 ポーチを見ると、一瞬パイプをくゆらせている大叔父の姿が見えた気がした。


「さぁ、行こうポルックス。帝都まで道のりは長い。大叔父様の地図は古い物だから、途中で迷わないように気を付けなきゃ」


 鳥の発つ音を合図に墓標に背を向け、若駒の背に打ち跨った。一段高くなった視界は、それだけでもう別の世界を見渡すかのよう。

 手綱を取ると愛馬のポルックスは返事代わりにいなないた。三年前に私自身の手で母馬のお腹から取り上げた若駒だ。大叔父から馬の世話も騎士の大事な仕事だと言われて、今日まで全部の世話を焼いて来た。だから今からは家族同然の相棒と二人旅。これっぽっちも寂しくない。


「はいどー、やぁ!」


 軽く鞭を当てるだけで一気に速まる駒足。生垣が緑の帯に見えるほど速度を増して、蔦の絡まるアーチを頭を低くして潜った。そのままの勢いで山裾の森を飛び出せば、眼前に広がったのは何一つ遮る物のない大草原。季節は春で、野には花々が溢れていた。


「見てご覧、ポルックス。春の匂いがする。旅立ちには最高の日だ。この景色を目に焼き付けておこう。私たちの旅はここから始まるんだから」


 帝都まで距離にして八〇〇キロ。定める針路は北北西。私はいざ、自らを奮い立たせるように馬腹を蹴った。

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