第29話 兄貴

 林が屋上から去り、いよいよ私とクソ兄貴の二人だけとなった。

 クソ兄貴に醜態を晒してしまった記憶がフラッシュバックし、居た堪れない気持ちに駆られる。

 そんな自分が恥ずかしくて、惨めで、悔しくて……消えてなくなりたい気分だ。


「大丈夫か? 白雪」


 クソ兄貴が優しく私に声をかけ、歩み寄ってくる。

 手を伸ばせば顔に届くほどまで距離を縮めたあと、同じ目線になるよう腰を下ろした。


「……あぁ」

「ケガは?」

「ない」

「そっか。よかった」

「……」


 心配してくれるクソ兄貴の対応に困惑してしまう私。


「……怒らないのか? 前みたいに」


 小学生の頃を思い出す。それはきっと、今の状況が過去のと似ているからだろう。


「怒る? どうして?」

「どうしてって……っ。小学生の時は怒っただろ」

「……ああ、あの時か。確かにあの時は怒鳴ってしまったかもね」


 クソ兄貴は自嘲するように鼻で笑う。


「怒るわけないだろ。今のお前にどこを怒る必要がある」

「だって私は、また喧嘩を……」

「じゃあ聞こう。白雪、どうしてこんなことをしたんだ?」

「それはっ……あいつらが、自分勝手な理由で林を傷つけたからだ」

「つまり、お前は彼を守るために喧嘩をしたってことだろ?」

「ああ……」

「それのどこに怒る要素があるんだい?」

「!」

「今回、お前のした喧嘩には意味があった」

「……」

「けど、昔のお前は喧嘩を売られたから喧嘩をするだけで、そこに意味はなかった。まぁ、あの時は両親を馬鹿にされたという理由が絡んでいるが、あいつらから手を出したわけじゃない」

「……」

「お前はあの時、確かこう言ったね。『ずっと馬鹿にされながら我慢しろ』、『立ち向かう勇気のないただの弱虫』、『両親がいなくなって実はせいせいしているんじゃないか』、だっけか?」

「ッ……!」


 クソ兄貴は可笑しそうに笑う。


「そんなわけないだろ。ずっと馬鹿にされたままはムカつくし、僕は弱虫なんかじゃないし、そして何より––––––」

「……」

「両親がいなくなって、せいせいしているわけないだろ……っ」

「っ……!」


 クソ兄貴がらしくもなく、歯軋りを鳴らしながら悔しそうな顔をする。それも束の間。すぐにいつものスカした顔つきへと戻した。


「でも、お前から見ればそう見えたんだろうな。両親が亡くなっても、僕は普段通りに過ごしていたから」

「……」

「でも、それは違う。僕だって本当はお前と同じぐらい悲しんでいたんだ。ただその姿を見せたくなかっただけなんだ」


 それはきっと、妹に弱い姿を見せられない兄としてのプライドだ。


「僕は兄として、両親の代わりとして……お前を守る義務があるんだから」

「だったら、私を最後までちゃんと守れよ! 私を放置して、女遊びなんかしてんじゃねぇよ!」


 突然の白雪の怒鳴り声に僕は身を引いて驚いてしまった。本当に、身を引いてしまった……。

 そこには歯を食いしばりながら、涙をこぼす白雪が映っていたから。


「白雪……」

「うぅ、ぐっ……!」


 僕はこの時、自分の考えが間違っていたんだと気づいた。

 白雪を初めて怒った以来、全く口を聞くことはなくなった。話しかけても逆鱗に触れるかのようで、いつしか触れ合うことをやめた。

 生活費はモデルでたくさん稼いでいたから困ることはなかった。お互いに好きなように行動出来るよう、白雪の口座には給料の半分を毎月振り込んでいた。

 結果的に、それで別々に好きなように暮らせることが出来てしまった。

 そして愚かにも、それが正しく、心地よいとも思ってしまった。それが楽だったんだ。

 いつしか時間が解決してくれると、不確かな確信という矛盾を心に収めながら……。




 ––––––。

 ––––––。

 ––––––。




『おい。クソ兄貴』




 そんな喧嘩真っ最中のある日、白雪が僕に声をかけてきた。

 長い間口を聞かなかった関係にやっと転機が訪れたのだと、そう思った。


『さっきから気になって仕方がないんだが……なにソワソワしてんだ?』


 まだ怒りが収まっていない様子の白雪からそう指摘され、気付かされる。

 ソワソワ……つまり落ち着きがないということ。確かに僕らしくない。

 でも仕方がないだろう。

 僕はさっき、赤坂さんを廃墟ビルに連れ込み強姦しようとして……。




『この傷を警察に通報すると言ったら……どうします?』




 彼にそう脅され、ようやく自分が犯罪に手を染めていたことに気づかされたばっかりなんだから。警察に連行される自分が、脳裏に焼きついて離れてくれない。

 僕が土下座をしたことにより、彼は他言しないことを約束してくれた。けど、本当に他言しない保証はないため、安心することはできない。

 だから、内心落ち着かなくて当然だ。


『……いや、なんでもないよ』


 実の妹に真実を話すわけにはいかない。警察沙汰になるかもしれないことをわざわざ伝え、不安にさせる必要はない。


『言え』


 だが白雪はそれを許してくれない。僕が滅多に見せない萎れた姿が気になって仕方がないのだろう。きっと顔も青ざめているに違いない。


 僕は覚悟の上で、真実を告げた。




 ––––––。

 ––––––。

 ––––––。




 白雪に真実を告げた翌日の放課後。

 今度は白雪も一緒になって、彼に土下座をすることを話し合いで決まった。


『今日はお前に事実を確かめたくてここに連れてきたんだ』

『事実?』

『ああ。お前、クソ兄貴にかなりひどいことをされたらしいな』


 白雪が彼に事実を確かめる。その隣に立っている僕の心臓の鼓動は速くなる。息をするのが苦しい。


『……あれはもう終わったことだ。気にしていない』


 彼から発せられた気にしていないという言葉を聞き、僕の心臓は落ち着きを徐々に取り戻す。あれだけ傷を負わされたというのに、終わったことだと、さらには気にしていないなどと。彼はどれほど寛大な心の持ち主なんだ。

 兄妹揃っての土下座だけで、この件は終止符が打たれた。

 白雪は必ず恩を返すと宣言したが、それは僕も同じだった。

 終わったこととはいえ、気にしていないわけがない。

 自分では気付いていないだけで、心の底ではきっと僕のことを恨んでいるかもしれない。

 だがそんなことは考えても仕方がないこと。

 彼が警察に通報しなかったことにより、僕達の生活は変わらずに今も暮らせている。

 だから僕は決めた。彼への協力を惜しまないと。

 彼からお願いをされれば引き受けるし、困ったことがあれば力になることを決意したんだ。それは白雪も同じ。だからあいつは彼のことを誰よりも気にかけ、守ろうとしたんだ。

 そのことに僕は気付いていたし、彼もそのことには気付いていた。

 だからあの時––––––。


『先輩』

『ん?』

『最後にお願いを聞いてくれますか?』

『……そういえば、最初にお願いがあるって言っていたね。どんなお願いかな?』

『俺は明日、白雪を潰そうと思っています』

『!?』


 内容を告げられると、僕はらしくもない驚きと動揺を見せてしまった。


『ただ誤解はしないでください。これは白雪の為であり、俺の為でもあり、そして、先輩の為でもあります』


 彼はこの時、計画の全貌を明かすことはしなかった。計画に支障が出るからか、それとも僕に対しての意地悪なのかはわからない。

 でも、僕達の関係をなんとかしてやろうという意図は読み取れた。

 不安を感じつつも、彼の案には乗っかってみたが……まさかこんな方法だったとはね。




 僕は初めて、恐怖を感じたよ……。




 白雪を利用したことは正直納得がいかない部分もあるが、どれもこれも僕に原因がある。

 彼が僕達の為に用意してくれた舞台を無駄にしない為にも、僕も腹を括らないといけないようだ。



 僕は、白雪を胸へと引き寄せた。



「ごめんな、白雪。僕が間違っていた……」

「うぅ……」

「僕がだらしないせいで、お前を一人にさせてしまった……。長男として、本当に情けないことをした。……ごめん」


 白雪は覚悟していた。このまま兄妹の関係が一生修復しないものなら、一人で生きていくと。その為にも、自分は強くならないといけないのだと。


「っ……いまさらかよ」

「ごめんっ」

「…………私は、クソ兄貴が嫌いだっ」

「……」

「背も高くて、強くて、いっぱい稼げて……本当に嫌いだ、大っ嫌いだ!」


 白雪は自分の不甲斐なさから込み上がる悔しさと嫉妬が入り混じった感情を強く噛み締める。



「でも、これまで支えてくれて……ありがとな……」



 白雪のらしくない感謝のセリフ。抱き寄せて顔が見えないが、今は照れ臭そうに、それはとても照れ臭そうにしていることだろう。

 僕は勝手にそう思い、頬が緩んでしまう。


「……フッ。兄が妹を守るのは当然のことだよ」


 僕もつい、らしくないセリフを言ってしまう。それでも、いつものクールな振る舞いは崩さない。


「はっ。なにかっこつけてんだよ」


 白雪は鼻で笑う。

 そして白雪は僕から身を離し、茜色の空を見上げながら言い出す。


「なぁ兄貴。私、バイトするよ」

「え?」

「いつまでも兄貴に頼ってはいられない。私も自分の分は自分で稼ごうと思うんだ」


 白雪はこれまで僕の稼いだ給料を分けてもらい、なに不自由なく生活をしてきた。

 だからといって無駄遣いや賭け事などは一切せず、食料品や衛生用品といった必需品ぐらいにしかお金を使うぐらい。

 だがこれからは、それに充てるお金は自分で稼いだお金でやっていくと考えているのだ。

 それは白雪なりの、自分に出来るところから自立していこうという強さの現れなのかもしれない。


「確かにバイトはお金を稼ぐ苦労を味わえるかもね。社会経験も学べるし良いと思う」

「ああ」

「でも、僕は反対だ」

「えっ?」

「今のお前には、バイトよりもすべきことがある。それは学園生活を楽しむことだ」

「別に、今も十分楽しいよ」

「そうか。なら白雪、お前はこれまで誰かと一緒に遊んだことはあるか?」

「…………ねぇな」

「やっぱり。お前は一匹狼みたいなところがあるからな」

「う、うるせぇ……」

「だからこそ楽しめ。人生で一度きりしかない学園生活を。そこには高校生でしか味わえない貴重な経験があるはずだ」

「兄貴……」

「お前はまだ入学したばかりで実感が湧かないだろうけど、3年間なんてあっという間だ。遊べるうちに、遊んでおいた方がいい」

「だからといって、兄貴みたいに女遊びみたいなことはしないからな。絶対に」

「はははっ。まぁオススメはしないかな」


 そのせいで何回喧嘩を売られたことか。おかげで喧嘩には慣れたけど。


「とにかく楽しめ。学生の強みは自由な時間がたくさんあることだ。信頼できる友達を一人だけ作るとか、居心地のいいグループに属するとかなんでもいい。学生での経験は大人になってからでも活かせる」

「……まぁ、そういう奴なら、心当たりはある……かな」

「そうか。なら、その人達と時間を共にすることだ。きっとこの先、一生の財産になる」


 ……私はこれまで、誰かと一緒に遊んだことや、何かのグループに属したことはない。せいぜい軽く世間話をする程度の関係ぐらいで、誰かと深い関係になったことは一度もない。だから、それが楽しいことなのかはピンと来ないのが正直の感想だ。一人なら一人で、私には没頭できる趣味があるしな。

 でも、兄貴がそこまで言うんだったら、今しかできないことに着目するのもいいかもしれない。


「さてっと。白雪」

「なんだ?」

「今日の夕飯、久々に焼肉なんてどうだ?」

「なっ、焼肉だと!? いいのか!?」

「ああ。今日はお祝いだ。好きなだけ食べよう!」

「やったぁー! 焼肉だぁー! ああいう店は一人じゃ入りづらいから行きたくても行けなかったんだよなぁ……」

「今日は金曜日だし、もうすぐ仕事終わりの人達で混む時間帯になるから、そろそろ行こうか」

「おう! あ、牛タンとか食べていい!?」

「ああ。好きなだけ食べていいぞ」

「わーい! サンキューな! 兄貴!」


 夕飯が焼き肉に決まり、高揚し始める二人。それは焼き肉を食べる喜びよりも、二人一緒に食事ができる喜びの方が勝っているように感じる。

 二人は夕焼けに照らされながら、同じ歩幅で笑顔を共にした。

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