第3話 わたしのR

 『ピシナム』に勤めているなかで、半年を過ぎても忘れられないことは、溢れかえるほどあり、そしてそのほとんどは『彼女』のことだった。


 『彼女』は僕のことなど覚えているはずもないのに、それでも一向にかまわなかった。あるいは、それが愛情なのではないかとすら思った。


 僕は『彼女』に名前を訊かなかったし、『彼女』も名前を告げなかった。


 だから勝手に『彼女』のことを『R』と呼んでいた。そういう感じの名前をしてそうだったから。


 僕が初めてRを目にしたのは、『ピシナム』に勤め始めてまだ一カ月目くらいのころだ。


「金魚のいる部屋でお願いします」


 Rは部屋を選ぶとき必ずゲストテレフォンを使う。


 受付とフロントは、ブラックフィルムの張られたガラスの壁で区切られている。受付からでは、かろうじてお客様のぼんやりとしたシルエットを確認することができる。


 そのため、Rからも僕からも顔を伺うことはできなかった。


「あの」

 時々Rは、ガラス越しに尋ねてくる。

「金魚のエサとか、あったりしませんか」


 はい、と口に出しそうになって咄嗟に飲み込んだ。

 ピシナムのホテルマンはいかなる時もお客様に声をかけてはいけない。だから彼女が金魚の餌やりを望んだ日だけは、部屋の鍵と一緒に黙って餌の入った袋を渡した。


「ありがとうございます」


 ガラス越しのRは、今からセックスをするとは思えないほど、落ち着いた声音。僕の頭の中でRは金魚に餌をやりながら男に抱かれる、普通ではない女だった。


 思えば、僕はこの頃から彼女を訝しんでいた。Rが来ると、いつも金魚を飼育している201号室の鍵を小窓から渡していた。


 ときどき小窓から見えるRの手は、お豆腐がそのまま手の形を帯びたように、色白で、崩れそうに見える。いつも、なんとかRの手に触れないようにと、注意を払いながら僕は鍵を渡していた。


 そうやって、Rの指や爪から、彼女がどんな姿形をしているか思いを巡らした。


 Rは、201号室でしか休憩しなかった。


 空室を表示するモニターに201号室が載ってないと、彼女は受付の前にある腰掛に座って、部屋が空くのを地蔵のようにひっそりと待った。


 その姿が、受付のガラスを通してうっすらと見えた(連れの男はだいたい不機嫌そうにごねていたが、Rは頑として動かなかった)。


 そして彼女は、いつも容貌の違う男を連れていた。


 ある日は派手なTシャツを着た大学生くらいの男だったり、またある日にはだらしなく腹が出た中年の男を連れ込んだりもする。


 Rは、もしかしたら恐ろしい女なのではないかと考えたときもあった。


 しかしRと並んで部屋に入った男性客は、必ず彼女よりも先に部屋を出てチェックアウトしてしまう。

 男がチェックアウトして三十分ほど経つと、Rはすんすんと鼻を鳴らしながらエレベーターから出てきて、小窓に置いてあるキャッシュケースに鍵を置く。


 フィルムガラスなんてなくても分かるくらい、Rは泣きはらしていた。『ピシナム』にRが訪れると、その日のうちに彼女の泣き顔も見ることになった。


 Rは週一回ピシナムに訪れている。彼女はその度泣いていた。


 彼女のすすり泣く姿を目にすると、僕にはRが想像していたような恐ろしい女だとも思えなくなってしまった。


 衣替えの季節になるとRは長袖を着ていた。カードキーを渡す小窓から、白いラインが二本入った黒色の袖口と、胸元の赤いスカーフが目立つようになった。


 Rは女子高生だった。


 ファッションホテル『ピシナム』は高校生以下の利用は禁じられていた。


 しかし僕から見たRは、目に見えない何かからじっと耐えているようで。


 その時間を邪魔することなど自分にはできなかった。僕はRのことをオーナーや他の誰かに告げ口をすることはなかった。


それがこのときの僕にできる、精一杯の優しさだった。

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