9 青騎士の誓約
9 青騎士の誓約(1)
ここはかつて龍王から贈られた空間で、実際の丘や森に似せて作られた、現実世界とは異なる場所なのだとフィオーレは言う。そのためこの世界にはわたしたちのほかに人や動物はいないらしい。
当初は地龍の背から繋がっていたが、砦から劇場へと改装される際に入口を政庁に結び直したということだった。先日パルコシェニコにも道が通じてしまったのはフィオーレの意図したことではなかったようだが、政庁側のドアをわたしにしか開けられないよう願ったために、地龍が混乱してしまったのだろうと話してくれた。
「龍王に嫁いだと聞いた。昼間、会ったよ。……いまさらだが、結婚おめでとう。遅くなってしまってすまない」
はじまりはどうあれ、ふたりの婚姻関係は百年続いたのだ。そのことは素直に素晴らしいと思う。ただ、龍王のことを話していると震えやおそれが思い起こされて、笑顔が続かなくなる。
察したのだろう、フィオーレはぺこりと頭をさげた。
「ごめんなさい、ねえさま。眷属のにいさまと違って、ねえさまにはつらかったはずです。わたしは一度もそれを味わったことはないのだけれど、苦しいと聞いています」
「一度も?」
「ええ。だって百年前だってそうだったでしょう? ねえさまは覚えてない?」
百年前、宮城の玉座に座る龍王を、わたしは瞳の色がわかるような距離から見ている。
そうだ。今日ほどの近距離ではなかったが、あの男の影響を受けていてもおかしくはない。
「そういえば……」
「ね。あれはわたしがいたから、ねえさまたちも平気だったんです」
「つまり聖女の奇跡の力ということか。使っても平気なのか」
「わざわざ行使しているのではなく、どうやらわたしの存在、たとえば息のようなものに含まれている力で相殺しているらしいのです。だから呪いを浄化するときのように倒れることもありません」
「それならよかった。しかし妙な話だな。フィオーレを遠ざけるならわかるが……」
龍王にとってフィオーレの存在は目障りなのではないのか。
フィオーレは苦々しそうにうなずく。
「逆なのです。だからあのひとはわたしを妻にしたのです。わたしを連れていれば、誰も傷つけることなく世界中のどこへだって行けるから。もう、地下深くの宮城でひとりきり長すぎるいのちを持て余さずにすむから、と」
「そう、だったのか」
しかしそれは、聖女であれば誰でもよかったということになる。フィオーレという個性が求められてのことではない。たとえこの世界に聖女がフィオーレただひとりであったとしても。
すべての婚姻が愛情だけで行われるわけではないことは、わたしも理解している。しかもこれは和議の条件ともなった結婚だ。おそらくフィオーレに決定権はなかっただろう。
「きっといまごろメルくんはわたしがいなくてつまんないつまんないって、駄々をこねているんでしょうね。いい気味です」
強気なことを言いながらも、フィオーレは編みかけの花冠の花を指先でもてあそぶ。言葉の半分ほどは本意ではないようだ。
「ここへ閉じこもったのは龍王とのことが原因なのか」
わたしの指摘を待っていたように、フィオーレは素直にこくんとうなずく。
ここまで決断させた直接的な何かもあったのだろうが、和平のために受け入れざるを得なかった婚姻、そして百年ものあいだ続いた結婚生活。その積み重ねがいまこのときに爆発したのだとして、誰がこの子を責められるだろう。
「フィオーレは、どうしたい?」
問いかけに、フィオーレはじっと押し黙る。なにか言いたげに口をひらくけれど、ためらうように俯く。うーと唸るような声を洩らして、フィオーレはやっとひとこと呟いた。
「……メルくん次第です」
メルくん……、テオリアはメルクーリオと呼んでいた。龍王次第、か。どうやらフィオーレはまだ匙を投げ切ったわけではないらしい。
フィオーレにその気があるなら、夫婦のことは夫婦で話し合うべきだ。
「ならば、政庁へ戻ろう」
わたしは立ち上がり、フィオーレに手を差し伸べた。
「思っていることをすべて龍王にぶつけて、それでも駄目だったらそのときは一緒に町へ帰ろう」
「……はい! ねえさま」
フィオーレは頬を染め、花がほころぶように微笑んだ。
重ねられた手を掴んで、フィオーレが立ち上がるのに手を貸す。だがフィオーレは片足をかばうようにしか立てない様子だった。
「どうかしたのか」
「さきほどすこし挫いてしまって」
「そういうことは早く言え」
森にいるのだから添え木になりそうなものはあるだろうが、包帯の代わりになりそうなもの……。
わたしはポケットからハンカチーフを取り出した。テオリアが探してきてくれた添え木を、ハンカチーフで足首に固定する。
「ねえさま、それ……」
「そうだ、わたしを生かしてくれたものだ」
「いいえ、実際のところは地龍のおかげです。あの子がわたしたちの願いを聞き届けてくれたから、ねえさまを再生してくれたのだと思います」
「龍王の力でもなく?」
「ええまあ、地龍に命令してくれたのはメルくんなんですけどね」
そういえば龍王はわたしから地龍の気配を嗅ぎとっていた。あれは先日飲まれたからだけではないのか。
「あのときメルくんは地龍の力をもってしても、ねえさまを元通りにするには百年はかかると言いました。だからわたしは百年待ったのです。それなのに……」
フィオーレはなにごとかを呪詛のようにぶつぶつと呟いている。わたしは聞かないふりをして足もとから顔をあげた。
「どうだ、歩けそうか」
「うーん、まだすこし痛みます」
「そうか」
負ぶってやるのがいちばんいいのだが、いくらフィオーレが細身とはいえ、子どものころのようにはいかないだろう。無理をして担いでも危険なだけだ。肩を貸すのがいいのか、それとも杖になりそうな枝でも探してこようか。
どうしたものか思案していると、テオリアがわたしの隣にしゃがみこみ、フィオーレに背を向けた。
「ほら」
「にいさま」
「それともメルクーリオ以外の男は、たとえおれでも嫌か」
「いいえ。むしろテオリアにいさまの背中のほうが安心できます」
龍王は背ばかり高いけれど体つきは少年のように儚いものだったのを思い出す。それに比べてテオリアなら半日でも平気な顔をして負ぶっていてくれそうだ。
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