4 ランチと魔女と蜜りんご(6)

 コルダ殿はすらりと肩越しに振り返る。目が合うだけで、呼吸ができないほどの圧迫感がある。

 わたしはシロカネの肩を掴んで前へ押し出した。


「この子が、お手洗いへ行きたいようで!」

「ぴゃっ」


 シロカネが怯えた目でわたしを見上げている。すまないシロカネ、すこし我慢していてくれ。

 コルダ殿はシロカネをじろりと見つめて、狐かと呟く。その瞬間、シロカネはポンと白い煙に包まれて、本来の姿へと戻ってしまった。


「えっ、えええええええ……! は、はずかしい……!」

「猿真似をするほうがよほど恥と思うけども」

「だってだって、狐のままってことは、すっぽんぽんということですよ……!」


 室内に満ちていたひりひりとした空気が一瞬で霧散する。

 コルダ殿はメテオラの上から降りてわたしたちに向き直ると、腰に手をあて大きな声で笑った。


「厠は扉を出て左。行ってらっしゃいな」


 シロカネはぼく別におトイレいらないですと小声でわたしに訴えてきたが、すまないあとでおいしい菓子をメテオラにたかろうと提案すると、舌をぺろりと出して駆け出していった。

 コルダ殿は煙管をひっくり返し、煙のあがる煙草をメテオラの上へと捨てる。


「あっつ!」

「わたしの警告を無視するなんて、なかなかおもしろい人間だこと」

「邪魔をして申し訳なかった。だがあまりにも、見ていられなかった」

「それはそれは、ずいぶんとお優しい」


 コルダ殿は澄みきった湖の底のようなモスグリーンの瞳を、猫のように細めた。背中が薄ら寒くなる。

 遊んでいたおもちゃに飽きた子どものようにコルダ殿はメテオラからすんなり離れ、机に軽く腰かけて煙草の用意をはじめた。

 わたしはいまだ寝転がるメテオラを上から覗き込んだ。煙草の火がきいたようで頬にはすでに紋様が戻っている。


「これは日常的なことなのか」

「範疇といえば範疇」


 へらへらとした笑顔も、いまばかりは疲労の色が濃い。メテオラは無事なほうの片腕を支えにして体を起こす。わたしは彼の背中に手を添えてそれを手伝った。タオルを渡すと、メテオラは口に残っていた血をぬぐった。

 かすかに、ため息をもらす。


「ルーチェになんにもなくてよかった。もうあんなことしないでね」

「すまなかった」

「うん……、でもうれしかった。ありがとう」

「体は大丈夫なのか」

「たぶん大丈夫、たぶん、殺されるところまではたぶんいってないから。たぶん、たぶんね」


 悲しいほどたぶんが多すぎる。

 小鬼の姿でシロカネが戻ってきて、床に座っていたメテオラも立ち上がる。わたしたちはあらためてコルダ殿の前に並んだ。


「連絡もせず任務を放棄して、すみませんでした」


 傷口の塞がったメテオラは、そつなく深く頭を下げた。

 コルダ殿はそれを横目に紫煙を吐く。


「アルトロにいたようね」

「実家がありますから、たまには帰ります」

「勤務中に?」

「そう、なりますね」


 机からおりたコルダ殿はメテオラの前に立ち、煙管の先でメテオラの顎を持ちあげた。


「もう一度聞いてほしいのかしら?」

「いいえ、申し訳ありませんでした。焼けています」

「そうね、焼いてる」


 あたりには何かが、……メテオラの肌が焼けるにおいがした。


「隊長、うちの母の近況をお聞きになりますか」

「先輩の? おまえがアルトロの政庁に買収されたという疑いがあるのだけど、まあいいわ、話しなさい」


 いいのか?

 メテオラはもったいつけるように咳払いをひとつする。


「前髪を切りすぎて、眉上のぱっつんになっていました」

「ぱっっっつん……!」


 コルダ殿は口もとを手でおさえ、みずからの体を抱きしめた。目は潤み、指先はやや震えている。


「え……、絶対かわいい」

「本人は、切りすぎちゃったよおと、舌をぺろりしていました」

「あざといを通り越してもはや古典芸!」

「以上です」

「よし、本題へ入れメテオラ」

「ありがとうございます!」


 メテオラは胸に手をあてて敬礼をし、わたしのほうへ向かって情けないほどほっとした笑みを見せた。


「いまのはね、とっておきの手土産」

「ああ、手土産。その話か」


 別リアの話を思い出し、わたしもつられて微笑んだ。

 想像以上に個性的な手土産ではあるが、なんだ、ちゃんと用意しているんじゃないか。メテオラはふわふわへらへらとしているが、わたしが思っている以上に周到な男なのかもしれない。……なのか?


 紫煙をくゆらせながらコルダ殿は、で?、とメテオラに話を促した。

 メテオラはわたしの置かれた状況と旅の目的をざっと話し、その旅に自分も同行すると告げた。


「そういうわけでしばらく休職させてください」

「昨日出会ったばかりの男と女で旅に出るとか、おまえたちずいぶんとロマンがすぎるとは思わないの」

「まだ若いんで」

「ばかもの、ロマンは歳とは関係ない」


 コルダ殿はわたしの前に立ち、楽器でも似合いそうな細い指先でシャツのボタンをすべて外し、つとわたしの鎖骨に触れた。それは一瞬の出来事で、わたしには拒否するだけの間はなかった。

 コルダ殿の指先、その爪は、メテオラとおなじように美しく飾られていた。色は浅瀬のグリーンから深海のブルーへ。根元から徐々に色調を変えていた。

 その指先がふわふわに泡立てたメレンゲに差し込まれるように、わたしの体の内側へと沈み込んでいく。

 痛みはない。むしろ心地よいくらいで、たまらず息がこぼれる。


「んっ……ん」

「安心なさい、取って食ったりはしないから」


 簡単な占いのようなものですこし視るだけだと、コルダ殿は耳もとで囁いた。

 指は石碑に刻まれた文字を読むように、わたしの内側をなぞっていく。鎖骨から心臓のそば、乳房を縦断して臍へ。そうしているあいだ、コルダ殿はずっとわたしの目を見つめていた。


「まさかおまえのような存在があるなんて、これだから人間はおもしろい」


 さきほどは薄ら寒く感じたモスグリーンの眼差しも、いまはやわらかい。


「ルーチェといったね。たしかにルーチェだ」


 わたしの体から指が引き抜かれる。

 コルダ殿はわたしのシャツのボタンをとめ直して、礼を言うように、そっとわたしの胸に手を添えた。


「なるほど。メテオラ、おまえはどこまで知っているの」

「隊長がルーチェのなにを覗き見したのかおれにはわかりません。どこまでなんて言えないでしょ」

「まあいい。おまえの本心がどこにあるのかなど興味もないが、おまえがこの女に付き合うのは必然だろうな」

「運命です」


 メテオラは正面を見据えたまま、妙に静かな声で消え入るように言った。

 コルダ殿はそんなメテオラを鼻で笑う。

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