4 ランチと魔女と蜜りんご(5)
案内されたのは、昼食をいただいたお店から三つほど通りをまたいだところにある、こぢんまりとしたカフェだった。
間口の狭い三階建てで、壁の色が階ごとに異なっていた。一階がアッシュブルー、二階がエアリーイエロー、三階はピンクブロンズ。窓はアーチ型になっていて、窓枠の木材はどれも深いグリーンの塗料で彩られていた。全体的にやわらかく、エレジオ狩りをする組織の本部のようには見えない。
「やっと着いた……」
掠れた声でメテオラが呟く。
わたしとシロカネは彼の痛ましい姿に、ただゆっくりとうなずいた。
ここへたどり着くまでに、さまざまな罠があった。壁から無数の槍が出てきたり、足もとが急に奈落になったり、メテオラの上にだけ豪雨が降ったり、そのなかに矢が混じったり、一度はメテオラの腕が肘からちぎれ飛んだりもした。
そのためカフェのふかふかとした絨毯の上には、ずぶ濡れのメテオラの足跡だけがぐずぐずになって残った。
なるほどたしかに三十分はぎりぎりだった。
カウンター席の向こうに立っていた給仕姿の男性がメテオラにタオルを差し出す。
「残りは一分とすこしでした。おつかれさまです、メテオラ」
「ありがとう、カルチェレ」
「腕、お手伝いしましょうか」
「どうにか血は止まってるから、あとでめちゃくちゃおいしいエスプレッソもらってもいい?」
「かしこまりました」
男は柔和な笑顔を青褪めた肌に浮かべると、わたしとシロカネに向かって軽く会釈をした。
「弓弦の魔女コルダさまのもとで長年勤めております、カルチェレです」
かつては地底で牢獄の門番をしていたという。ある日囚人だった魔女に籠絡されて脱獄を手伝い、それからずっと彼女に仕えているらしい。
弓弦の魔女コルダというのがさきほどの声の主、スティヴァーリ隊の隊長殿のことだろうか。
室内にベルの音が響く。カルチェレは胸ポケットから懐中時計を取り出し、わたしたちへ向けた。
「お時間です。いってらっしゃいませ」
地面がかすかに揺れはじめる。カウンターの上にあるガラス製の器がか細げな音を立てている。
地震か。
にこやかに手を振るカルチェレ氏が斜めに立っているように見える。おなじくカウンターも斜めだ。地震で地面が歪んでいる?
違う。
わたしたちの足もとがいままさに上下反転しようとしている……!
気づいたときには世界がぐるりと回転して、わたしは見知らぬ部屋の中央に立っていた。シロカネがわたしの腕にしがみついている。得意な小鬼の姿をしているのに、耳や尻尾がうっかり見えてしまっていた。かわいい。
メテオラは濡れた髪をタオルで乾かしながら、まっすぐ正面を見つめている。
アーチ型の窓の前に、どっしりとした机があり、そこにひとりの女性が足を組んで腰かけていた。
逆光で顔はよく見えない。肌は褐色で、首すじなどは日差しを受けてきらめいている。髪は弦のように艶やかなシルキーホワイトで、すこし首を動かすたび肩の上で絹糸のように揺れた。手には煙管を持ち、優雅に煙を吐いている。
「脚を狙ったのだけど、おまえは避けることだけはほんとうにお上手よねえ」
「ありがとうございます、コルダ隊長」
心なしか、メテオラの声が緊張している。首にかけていたタオルをゆっくりと外して、こちらを見ないままわたしへ渡す。
「あとでまた使うことになるから、ルーチェ持っててくれる?」
「あ、ああ」
受け取る際に、やんわりと体をうしろへ押される。身構えていなかったこともあって、一歩二歩と後ずさる。
直後、わたしの目の前を鋭い風が横切っていった。壁になにかが突き刺さる。
「矢……」
別の方角から甲高い金属音が鳴り響いた。見やると、メテオラの血の装甲がコルダ殿の煙管を受け止めている。
頬の紋様が溶けるように消えていく。
「時間には間に合ったはずです」
「おまえは自分のやったことを忘れたか、ばかもの」
ふたりの打ち合いは鋭く、速く、重い。
「ルーチェさん、止めに入らなくていいんでしょうか……」
「いや、これは止めに入ってはいけない類いのものだ」
あの矢は、そういう意味だろう。
しかしメテオラがわたしを押してくれなければ、矢は確実にわたしのこめかみに突き刺さっていたのだが……、コルダ殿はそれも含めてメテオラを試しているのかもしれない。
コルダ殿の煙管が不思議なやわらかさでメテオラの片腕に触れる。メテオラは短く悲鳴をあげた。床の上にメテオラの片腕が落ちる。
「この鬼畜女! まだ繋がってない腕を!」
「ほう。まだ、とな。わたし相手に半端者のままだなんて。なまいきな」
煙管の先をくるりとまわすと、触れてもいないのにメテオラの体が中空で三回転した。……いや、これは触れていても普通は無理だ。
メテオラは床に叩きつけられ、息つく間もなくコルダ殿に喉を踏みつけられた。
膝上まである黒いブーツの踵は、枝の先端のように細い。
「さあ、言うべき言葉があるでしょう」
「う……っ、ぐ……」
細い踵が喉にめり込んでいく。噛みしめた牙のあいだからは血があふれてくる。メテオラはコルダ殿の足首を掴んで引き抜こうとしているが、装甲は乾ききった血のようにはらはらと剥がれ落ちていく。まさか退魔の術ではなかろう。ならばメテオラの生命が危機に瀕しているのではないのか。
これではまともに話すことなどできない。息だって。
「コルダ殿!」
わたしはたまらずコルダ殿の名を呼んでいた。
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