3 音速襲来(2)
「わたしは赤子のころにロッソ家の門前に捨てられていたらしい。当主夫婦は子どもがまだいなかったこともあって、迷わずわたしを育てると決めたそうだ。ちょうど、住み込みで働いていた一家に子どもがうまれた直後だったのも幸いした。彼女は初産で大変だったのに、わたしの乳母を引き受けてくれたんだ。その子どもというのがテオリアだ」
まだ物心がつくかつかないかくらいの幼い時分には、……わたしの独りよがりな見解でしかないが、テオリアとの仲はよかったと思う。いつもふたりでおなじ本を読んだり、庭を駆けまわったり、騎士のまねごとをしたりしていた。
テオリアは虫が苦手だったから、服についた虫を取ってやるのはわたしの役目だった。一方わたしはそそっかしく、靴下が左右ばらばらだったり、ボタンが互い違いになったりしていたので、テオリアがよく気づいて直してくれた。
「わたしが五歳のときだった。ロッソ家に待望の子どもがうまれた。それが妹のフィオーレだ。あの子は18才のときに聖女に選ばれたが、それをどこか運命の帰結のように感じたくらい、生まれた時から神々しく愛されるべき赤んぼうだったよ。ほんとうに、父も母も、そしてわたしも、フィオーレのためならなんだってできた」
髪にこびりついていた血もなんとか落ちて、ようやく人心地つく。
「……ただ、そのころからテオリアとはすこし疎遠になったかもしれない。あれは民間の学校へ通うようになったし、それ以外の時間はご両親の手伝いをしていたから」
わたしは肌に張り付くようなブラウスを脱いで、水の中でよく揉んだ。
「ふたたびテオリアと過ごすようになったのは、ともに騎士学校へ入学してからだ。寮生活のなかで、寮長だったあいつの補佐をしたり、数は少ないが女子学生のまとめ役もしていたから、寮の自室へ戻るまでは接する機会も喧嘩もぐっと増えた。血はつながっていないとはいえ、おなじ学舎内に身内がいるのは心強く思ったものだった」
そう、あのころはすべてがふわふわとしていて、実習や実技にどんなに真剣に取り組んでもどこか『戦争ごっこ』の域をこえなかったように、わたしとテオリアの喧嘩だって一晩寝てしまえば忘れてしまえるようなものだった。
「それが変わったのはフィオーレが正式に聖女となってから、……いや、その聖女の護衛隊長にわたしが選ばれてからだ。みなテオリアが選ばれるものと思っていたんだ。わたしでさえ、心の隅では兄が選ばれるかもしれない、そうだとしても喜ばねばならないと思っていた。だが青騎士に任命されたのは、わたしだった」
ブラウスの汚れはいくらかは落ちたようだが、夜目にももとの白いブラウスでないことは明らかだった。
折りたたんで両手で挟み、水気を絞る。においやべたつきはある程度残っているものの、乾けばどうにか着られそうだ。
メテオラが凭れかかっている木の枝には、メテオラの白いシャツが揺れていた。わたしもその横にブラウスを引っ掛け、メテオラの上着を羽織って、木を挟んで背中合わせになるように腰をおろした。
周囲の森の暗さが、池や夜空の明るさをさらに際立たせる。
「テオリアは言った。おれが日陰なら、おまえもおなじだ、勘違いするな、と」
出征の朝だった。馬小屋でわたしの胸倉を掴み、テオリアはわたしに掠めるように口づけた。互いに目をひらいたまま、にらみ合っていた。あの数秒の交わりをわたしはしばらく理解できなかったが、最期の瞬間、首を斬られて喘ぐわたしを見おろすテオリアの眼差しにその答えを悟った。
烈しく燃えたすえの、凍るような憎しみ。
「わたしにとってフィオーレがただひとりきりの妹であるように、テオリアもまた、ただひとりきりの兄だった。血のつながりがなくたって、積み重ねた日々や思い出がわたしを……、ここにいてもいいと許してくれているように思っていた」
首にそっと手をあてる。
永遠にも思われた打ち合いの果て、テオリアの剣がわたしの首を捉えたあの瞬間、テオリアはわたしに口づけたときとおなじ目をしていた。
「だがそう思っていたのは、わたしだけだった」
膝を抱えて、じっと水際を見つめる。強い風に、水面は騒がしく波立った。
「でもまだ信じていたいから、見届けようと思ったんでしょ」
「そう、なんだろうか」
フィオーレに対しては許してほしい気持ちからだとわかる。それに、なんでもいいから、あの子を感じられるものに触れたいとただ心から思う。
だがテオリアに対しては……。
「あいつは悪魔との戦争を始めるにあたって、そのこと自体には賛成していたが、ただの報復合戦は建設的ではないとこぼしていた。悪魔の存在によって禁足地とされていた半島西側を開発できれば、あらたに港をおき、外側大陸への航路もひらけると話していた。帝国は領土を広げすぎたこともあり、慢性的な労働力不足でもあった。悪魔と争うのではなく手を結べたなら大陸の覇権は揺るぎないものになるとも……」
テオリアの意見もまたひとつの考え方なのだということはわかっていた。むしろみなが利益を享受できる、合理的な考えだとも感じた。
だが悪魔の存在を受け入れられずにいたわたしは、彼の理想を不敬で冒涜的だと罵った。
「だから、わたしは確かめなければならない。あいつが正しかったのかどうか」
たとえば、誰にとっても暮らしやすい世界がこの百年で築かれたというなら、わたしはテオリアに謝罪をし、彼を認めなければならない。
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