1 青天の流星(2)
「ぐっ……」
メテオラが苦しげな声を洩らす。わたしを丸腰と思っていたのだろう。彼の瞳はいまだ切なげに揺れていた。
わたしはメテオラの体を突き飛ばし、その反動で立ち上がって、光が差し込むほうへと走った。足がもつれて、転げそうになりながら、ようやく暗がりが途切れる。
外だ!
けれど喜びは長くは続かなかった。
「えっ……」
踏み出した片足が宙に浮かんでいる。
いや、浮かんでいるのではない。
わたしはなかば、中空に放り出されていた。
「うそ」
体は勢いのまま、空へと駆け出していく。蹴り出すような形になりながら、かろうじて地面についていたもう片方の足も、流れに逆らえず地面から離れてしまった。
眼前には見渡す限りの大海原が広がっていた。水平線からは白い雲がわきあがる。よく晴れた真昼の空は、青く、清く、澄みきっていた。
不思議と恐怖を感じなかったのは、わたしのかねてからの覚悟のためだろうか、それともこの景色があまりにも浮世離れしていたからだろうか。
わたしは青ばかりの世界に飛び出しながら、いましがた斬りつけた男の眼差しを思い返していた。
あれは、なんてうつくしい目をしたおとこだろう。
だがそんな感傷を境に、浮遊するようだった体が急激に重くなった。
落ちる。
予感はすぐに現実になる。
短く息を吸う。恐怖のため肺がひゅうひゅうと鳴るようだった。
反り立つような断崖絶壁と、そこへ激しく打ち付ける白波。落ちれば、水面へ上がってくることは難しい。
父さん、母さん、フィオーレさま……。わたしの目に浮かぶのは、青の世界ではなく、故郷の山深い夕景だった。
そのとき、腕が引かれて、肩が抜けそうなほどの強い衝撃が走った。
「間に合った!」
男の声に、わたしはすぐさま天を見上げる。
メテオラがわたしの手首を掴んでいた。洞穴のあったところから腹這いになって腕を伸ばしている。届かなかったのだろう、直下にいるわたしからでも彼の上半身が見えるほど、彼もまた身を投げ出していた。
「こんなところから飛び出すなんて、人間のきみには自殺行為だよ」
わたしの手首をさらに強く掴んで、メテオラが声を張る。
「足をかけられそうなところを探してみて。おれも引っ張ってあげるから」
「なぜわたしを助ける」
「九死に一生を得て、第一声がそれなの? いいからどこか足場を見つけてよ。おれだっていつまでも支えていられるわけじゃないんだから」
メテオラは苦しげに笑いながら、早く早くと急かす。わたしは不思議な思いで彼を見つめていた。
なぜ助ける。食うために助けるのだとしても、なぜこんなに危険な方法を選ぶのか。なぜ悪魔のくせに飛ぼうとしないのか。わからない。
飛べない種族もいるとは聞くが、彼はバンパイアの血を引いていると話していた。それが嘘でないなら、飛べるはずなのに。
わからない。
わたしの頬に、なにか温かなものが落ちてくる。それはメテオラの腹から腕を伝って落ちてきた、彼の血だった。
「はやく!」
わたしは膝のあたりにあった窪みにつま先を押し込み、ついで、わずかな出っ張りに指をかけて、メテオラの助けを借りながら上まで引き上げてもらった。
洞穴の入口周辺は狭く、ほとんど抱き合うようなかたちになりながら倒れ込む。わたしは荒い呼吸を繰り返した。あたりは、濃い血のにおいがする。
「どうして」
そう言葉にしてから、なにを訊こうか迷ってしまう。わからないことが多すぎて、もう、どこから訊ねればいいのか判断がつかない。
メテオラは顔を伝う汗をぬぐって、無邪気に笑った。
「そりゃあ、目の前で人が落ちそうになってたら、誰だって手を差し伸べるでしょ」
「そうじゃなくて」
「あー、この傷のこと? これね、さっき話したでしょ。おれは人間とのハイブリッドだって。純血種に比べると、すこし時間がかかる」
でもそのうち塞がるからと、どこか恥ずかしげに眉を寄せた。
わたしはたまらず目を伏せた。
「どうして……、どうしていままさに戦争をしている相手に対して、こんなことができるんだ……!」
「え……」
「はじめに境界を踏み越えてきたのは貴様らとはいえ、帝国もそれを追い払うにとどまらず、領域の深くまで攻め込んだことは事実だ。この戦争はもはや双方の責任と覚悟のもと続いているものなんだ。われわれには、最初に被害に遭った村の報復感情は無いに等しい。帝国軍も少なからず無抵抗の悪魔を手にかけている。おまえがこの戦争のことをどれだけ知っているかは知らないが、騎士であるわたしに同情は不要だ」
舌がしびれるようで苦しい。それはつまり、助けてくれたメテオラに対し、わたしが深く感謝を覚えているということでもあった。軍人として戦ってきたわたしは、この恩を受け取ってよい立場ではない。その思いが苦味となって口のなかに広がっていた。
わたしはおそるおそる目をあげた。すぐそばに、すこし驚いたようなメテオラのスカイブルーの瞳があった。明るい場所で見る彼の目は、ずっと見つめていると吸い込まれそうになる。
彼は何度かまばたきをしてから口をひらいた。
「戦争って、なんのこと」
「は?」
「あ、知ってるよ。悪魔と帝国の戦争のことは。いちおうガキのころは学校も通ってたからね。でもそれはもう、百年もむかしの話だろ?」
「むかし……、百年?」
「そう。いまはフィオーレ暦九九年だよ」
頭痛がする。
フィオーレ暦だと。なんだそれは。
わたしは勢いよく起きあがった。
「そちらの暦は知らないが、帝国はルビーノ暦三五年のはず」
「ごめん、それはおれは知らない。ただ、大陸が共同国家として統一されてからはフィオーレ暦だよ」
メテオラの話していることの意味がわからず、くらくらとする。だが彼が嘘をついているようにも思えない。いまが何年であるかについて、彼がわたしに嘘を教える必要なんて、どこにあるだろう。たしかにわたしの頭はいまひどく混乱しているが、そのくらいの判断はつく。
まだ横たわったままわたしのことを見上げていたメテオラが、痛々しげなため息を洩らしながら体を起こした。
「たぶん、の話なんだけど、してもいい?」
わたしは小さくうなずきながら、メテオラの脇腹を見た。赤く染まったシャツでよくわからないが、傷口を押さえる彼の手はいつまでも血に濡れて乾かない。
「おれがここへ入る前、この洞穴には悪魔避けの結界が張られていた。しかも、きみもさっき見ただろうけど、この洞窟は海に向かってひらいている。悪魔にも人間にも、そう簡単に来られる場所じゃない。それと、あれを見て」
メテオラはわたしが目を覚ました場所を指さす。
そこには寝ていたわたしを取り囲むように様々な文字や円陣が書かれていた。
「魔法陣……?」
「だろうね。状況から考えて、きみがあんまり狂暴だから封印してたか、もしくはその包帯の下の傷を治療していたか」
わたしはメテオラの視線を追って、みずからの首に指先で触れた。そこには首全体を覆うように、布が巻かれていた。
ほどいてみると、布の端に刺繍があった。帝国の国花、紋章にもなっていた薔薇の刺繍だった。
わたしはこの刺繍を、よく知っている。
爪のほんの先に、わずかな電流のようなものを感じた気がした。それがわたしの、わたしに対する憤りだということに、その時はまだ気づいていなかった。
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