青騎士の失態
望月あん
1 青天の流星
1 青天の流星(1)
冷たい。
まるで水底に沈んでいるような冷たさだ。
自分の体が存在する感覚はあれど、指先を曲げることも叶いそうになかった。肉体はもはやただの物体のようだった。
ああ、そうか。
わたしは意識のなかで思い至る。あの時、死んだのだと。
だから体はひどく冷たいし、青騎士の証しを嵌めた耳は世界から遮断されてしまった。自分の鼓動すら聞こえないことがこんなにも静かだなんて知りたくなかった。
世界は、……いや、帝国はどうなったのだろう。帝国を悪魔たちから守るためなら、いのちなど惜しくなかった。その決意を認めていただき、青騎士の称号まで賜わったときの心の震えは、いまでも忘れられない。きっともう動くことのない、この体でも。
最後までお役目をまっとうできなかったことは不甲斐なく思う。けれどわたしは仲間たちの高潔さ、強さ、正しさを誰よりもわかっている。まさか勇者さまや聖女さま、そして黒騎士や赤騎士の一行が、下劣な悪魔たちに負けるわけがないのだ。わたしのこのいのちも、平和の礎になれたのなら、死してもなお誇らしく思えた。
頬や、首すじ、そして胸に、温もりがともる。神の国へ召されるのだ、そう直感した。なんてやわらかで、心地よい温もりだろう。肺の奥まで凍えるようだった体が、みるみる解き放たれていく。胸もとを抑えつけていた甲冑ももはやなく、死とは生きていたときよりずっと自由なのだった。
わたしは喝采をあげる。
皇帝陛下、万歳!
「ばんざーい!」
呼応するように、男の声がした。わたしは眉根を寄せる。寄せる? 寄せた?
……体が、動く?
わたしはおそるおそる目をひらく。すると何がなんだかよくわからないが、すぐ目の前に見知らぬ男の顔があった。
「あ、起きた」
男は顔のそばでひらひらと手を振って、やっほーと笑った。彼の片方の頬には蔦のような紋様の刺青があった。やや長めの前髪は濡れた烏のように黒く、その奥には夜空の星をちりばめたような輝きを秘めるスカイブルーの瞳。笑うと、八重歯というにはやや鋭い牙がのぞく。
「あ……っ」
悪魔……!
わたしはとっさに体を起こして、背後に飛びすさった。……つもりが、思うように体が動かず、体を起こしてふらついたところを悪魔に支えられてしまう。
「は、はなせ!」
「なんかよくわからないけど、すぐに動くのは無理っぽいよ、あんた」
「くそっ、まさか敵の手に落ち、生き恥を晒しているとは。不覚……!」
どうにか腕を振り払い、わたしは地面にぺたりと座り込んだまま這うようにして男と距離を取ろうとした。だが牢獄かなにかなのだろう、ここはひどく狭く、二歩半ほどしか離れられなかった。甲冑のない、ブラウスだけの背中から土壁の湿っぽさが伝わってくる。
ほどけてしまった髪が落胆したわたしの胸もとへさらりと落ちた。その、色素のうすい髪を掴んで、わたしは大きく息を吐いた。頭のなかには、不覚とみずからを責める声ばかりが響く。
悪魔の男はしゃがんだ膝に頬杖をついて、首をかしげた。
「はあ……、そうではないけど、まあそういうプレイでしとく?」
「そういうプレイとはなんだ! 貴様は悪魔どもの兵隊なのだろう」
「兵隊……いやいや、こんなおしゃれな兵隊さんなんていないでしょうよ」
腕を広げて、よく見てよと男は上着を揺らす。
騎士学校の制服風に仕立てた黒い革ジャケットは首もとにフードがついているので雨天の行軍にも重宝しそうだが、身ごろの生地は一部加工がされていて、男が動くたび裾には流星のような輝きが瞬いた。
「たしかに、それでは夜陰に紛れようとしてもすぐに敵に見つかってしまう」
「でしょ」
「しかしそれならここは……」
男を挟んだ向こう側から、外の光が差し込んでいる。わたしひとりが横たわれるだけの小ささの、洞穴のような場所だ。光は奥までは届いていないが、さらに穴が続いているような暗がりもない。
つまりわたしは行き止まりに追い込まれている。
たとえ男が兵隊でないとしても、悪魔などどいつも信用ならない。なぜなら奴らは人間の生き血を飲み、無辜の民を意味なく惨殺し、同族の間柄でも争いを厭わず血を流し合い、尊敬や敬愛、慈悲や協調とは無縁の民族だからだ。
男はいまのところ気安くしているが、そうやって油断させ、わたしのことを頭からばりばりと食ってしまうか、兵隊たちのところへ突き出そうとしているに違いない。奴らは人間を捕らえては軍へ売り捌いていると報告にもあった。
思考はぐるぐるとめぐるが、いまはこの場から一刻でも早く離脱することが先決だ。
しばらく気を失っていたせいか目眩はあるが、さいわいなことにどこにも痛みは感じられない。
気づかれないようブーツの底を外して、仕込んであった小刀を抜く。退魔の術を施したものではないから致命傷にはならないが、時間稼ぎくらいにはなるはずだ。
悪魔は治癒能力が高い。痛みは感じると聞くが、傷口はすぐに塞がってしまう。
チャンスはおそらく一度きり。小刀で男を斬りつけ、彼が驚いているその一瞬しかない。
狙うとしたら、どこがいいだろうか。顔や首だとどうしても小刀が視界に入るので避けられてしまう可能性が高い。出来るだけ、男の死角がいい。
ジャケットや細身のパンツはどちらも厚手の生地だ。小刀には荷が重い。だが、男がしゃがんでいるせいか、ジャケットの裾からは薄手の白いシャツが覗いていた。
わたしは小刀を持つ手を、男から見えないよう背中へまわした。
「兵隊ではないなら、おまえは何者だ」
「おれはメテオラ。バンパイアと人間のハイブリッドだよ」
「はあ?」
わたしには男の言ってることがわからない。言葉はわかるが、意味がわからない。バンパイアと人間のハイブリッドだと?
「ふざけるな! 貴様の父か母かは知らんが、われわれ人間が悪魔なんかと、その、ほら、ち、契りを交わすわけがなかろう!」
「ちぎり……」
メテオラはわたしの言葉を小さな声で繰り返すと、口元や頬をふるふると震わせて、たまらず大きな声で笑った。
「なにがおかしい! 間違っていないだろう!」
「だってそんな言葉、うちの九五歳のばーちゃんだって使わないよ」
そう言って、腹を抱えて笑い続ける。体をよじったため、白いシャツが一層あらわになる。
いまだ!
わたしは力を振り絞り、小刀を脇に構えて、抱きつくようにメテオラへ飛びかかった。押し倒すようなかたちになりながら、小刀へ体重をかける。鋭い刃先はコットンのシャツをたやすく裂き、メテオラの脇腹へ突き刺さった。
すぐ近くには、驚いたようなメテオラの瞳があった。透けるような青天を濾し取った、スカイブルー。
わたしは小刀を横へ薙ぐようにして、メテオラの脇腹をかっさばいた。
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