《 第22話 はだけた浴衣 》

 水族館から電車とバスを乗り継ぎ、自然豊かなバス停で下車した俺たちは、先輩の案内で目的地へ向かう。


 川沿いに佇む、古民家を改装した温泉宿だ。昔の文豪が立ち寄りそうな雰囲気で、漫画作りが捗りそう。


 まあ、俺と柚花の目的は漫画作りではなく、赤羽根先輩をスズメバチから守ることだが。


 羽音を聞き逃さないように耳を澄ませてあたりを警戒していると、先輩が「こっちだよ」と手招きする。



「いらっしゃい千鶴ちゃん」


「ひさしぶりだなぁ。しばらく見ないうちに立派になったなぁ」



 先輩のあとに続いて宿に入ると、優しげな老夫婦に出迎えられた。


 この宿は先輩の祖父母が切り盛りしているようで、先輩は顔見せも兼ねて温泉宿を合宿先に選んだのだとか。



「ただいま、おじいちゃん、おばあちゃん。ふたりは同じ学校の後輩で、黒瀬くんと鯉川さんだよ」


「黒瀬です。今日はお世話になります」


「温泉に入れるって聞いて楽しみにしてました!」


「よく来たねぇ」


「たいしたおもてなしはできないけど、自分のお家だと思ってくつろいでくれていいからね」



 急きょ参加した俺たちを歓迎してくれるなんて……。


 優しいふたりを悲しませないためにも、ぜったいに先輩を守ってみせる!


 決意を新たに、先輩のあとをついていく。


 宿は全体的に木の温もりにあふれた作りになっていた。古民家ながらも掃除は隅々まで行き届いている。2階建てだが、上の階はおじいさんたちの私的な空間らしく、宿泊客は1階で過ごすことになる。


 1日1組限定で、大勢が泊まることは想定していないのか、寝室は一部屋しか用意されていなかった。



「ここが私たちの部屋だよ」



 広々とした空間だ。


 掘りごたつのある部屋があり、ふすまの向こうは寝床になっているようだ。すでに3組の布団が敷かれている。



「あの……俺もあそこで寝るんですか?」


「私としても、黒瀬くんと寝るのは恥ずかしいけど、後輩を廊下で寝かせるわけにはいかないよ」


「だいじょうぶです! 航平は私が見張ってますから!」


「それだと俺が危ない奴みたいだろ。見張らなくても変なこととかしないっての」



 むしろ見張るべきは俺ではなく先輩だ。


 いつスズメバチが現れてもいいように、目を光らせて監視しないと。



「黒瀬くんに変なことをされるとは思っていないさ。私こそ廊下で寝たほうがいいんじゃないかな?」


「変な気遣わなくていいですからっ!」


「先輩はここにいてくださいっ!」


「初々しいね」



 先輩はほほ笑ましそうだ。


 水族館で手を繋いでる姿をばっちり見られたからな。いまさら交際を否定しても、照れていると思われるだけだ。



「さてと。私は漫画作りを始めるけど、きみたちはどうする? よかったらふたりで温泉に入ってきてもいいんだよ」


「あたしは先輩と入りたいです! 漫画の話が聞きたいです!」



 ズルい! 俺だって先輩と漫画トークしたいのに!


 そう言いたかったが、嫉妬心をぐっと抑えこむ。


 温泉は透き通る川が望める露天風呂だ。自然に囲まれた外風呂なら、スズメバチが出てもおかしくない。


 できれば近くでふたりを守りたいが、必死になって『先輩と混浴したいです!』とせがめば怖がらせてしまうし、優しい老夫婦が鬼の形相になるかも。


 そんなわけで俺はひとりで、柚花は先輩と一緒に入浴することになった。


 温泉は夕食後に楽しむことになり、掘りごたつに座ると、先輩はさっそくノートになにかを描き始めた。


 夏休みに漫画を持ちこむって言ってたし、キャラデザを考えてるのかな?


 目の前で海底王のデザインが生み出されているのだと思うと……ファンとしては、夢のような光景だ。


 いつまでも見ていたいけど、じろじろ見ると集中力を削いでしまう。


 俺たちは羽音を聞き逃さないように注意しながらも漫画を読む。そして持ってきた漫画をあらかた読み終え、柚花の漫画と交換しようとしたところ、腹の音が響いた。


 柚花の頬が、じんわりと赤く染まる。



「静かにしろよ。先輩の集中力を削いじゃうだろ」


「仕方ないじゃない。お腹空いたんだもの」



 ぎゅるるるる。


 今度は俺の腹が鳴った。


 盛大に響いたものだから、柚花と先輩に笑われた。



「す、すみません。邪魔しちゃって……」


「気にしてないさ。そろそろ食事が来る頃だから、テーブルの上を片づけようか」



 先輩がにこやかに言ったところで、ふすまが開いた。


 野菜をふんだんに使った健康的な料理が運ばれてくる。


 メインは焼き魚だ。古民家の雰囲気も相まって、美味しく食べることができた。



「さて、温泉はどうする?」


「俺から入っていいですか?」



 先輩たちが入る前にスズメバチがいないか確かめたい。


 そしてハチがいれば、なんでもいいから理由をつけて温泉を諦めてもらわないと。


 使命感に燃え、浴衣を持って温泉へ。


 ……見たところハチはいない。


 耳を澄ませても葉擦れと川のせせらぎが聞こえるだけで、羽音は一切しなかった。


 これなら柚花たちにも温泉を楽しんでもらえそうだ。


 安心した頃にはのぼせる一歩手前だったので、さっさと上がって部屋へ戻る。



「気持ちよかったかい?」


「はい。疲れが落ちました」


「それはよかった。じゃあ私たちも入ろうか?」


「はいっ!」



 続いて柚花たちが温泉へ。


 たっぷりと漫画トークを楽しんだのか、浴衣姿で戻ってきたのは1時間が過ぎた頃だった。


 いいなぁ。俺だって神作家と漫画トークしたかった……。


 ハチ退治が終わったらなにを話したか教えてもらわないと。


 黒髪を乾かした先輩は再びキャラデザを始め、俺たちは漫画を読むことに。


 そして日付が変わる頃、何事もなく就寝タイムを迎えた。


 窓は閉め切ってるし、部屋にハチがいないのは確認済み。ハチに刺されるのは今日じゃなさそうだ。


 先輩・柚花・俺という並びで川の字になって寝る。


 俺と柚花はお互いに意識してるんだ。こんな状況で眠れるわけがないと思っていたけど、今日1日ずっと気を張り詰めて疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてきた。


 すぐとなりに浴衣姿の柚花がいるのだと思うと緊張で眠れなかったけど、しだいに眠気が押し寄せてきて――



「んんっ」



 ばさっ、と。


 柚花が鬱陶しげに布団を払いのけた。


 ハチと戦っている夢でも見ているのか、今度は布団を蹴り上げる。


 この流れで俺も蹴り飛ばされるんじゃないかと身構えていたところ――



「さむ……」



 寝返りを打ち、腕にしがみついてきた。


 ぐにゅぐにゅと柔らかなものが触れる。


 こ、この感触はあれか!? あれだよな!?


 幸せだけど……幸せだけど、いまの俺には刺激が強すぎるぞ!


 どきどきしていると、柚花が寝返りを打ち、柔らかなものが遠ざかる。


 ふぅ。これで一安心だ。風邪引かないように蹴り飛ばされた布団をかけてやろうと上半身を起こし、ぎょっとする。



「――ッ!」



 下着が! 谷間が!


 まじまじ見てはいけない! ――そう頭では理解してるのに、目が釘付けになってしまう。


 俺たちは元夫婦だ。仲が良かった頃は毎日一緒に入浴してたし、下着だって飽きるほど目にした。


 だけど離婚して、友達になって、再び好きになりかけて……昔みたいに、ちょっとしたことでどきどきするようになってしまった。


 そんな俺にとって、下着は刺激的すぎる!


 見たいか見たくないかで言うともちろん見たいけど、起きたときに浴衣がはだけていると、柚花が恥ずかしい思いをしてしまう。


 いまのうちに戻してやるか。


 そうと決め、浴衣に手をかけた次の瞬間。


 柚花が、ぱちっと目を開いた。


 俺の顔を見て、手元を見て、はだけた浴衣に気づいて――


 かああっと顔が赤らんだ。



「な、なんで!? 服なんで脱がせるのっ!?」


「ち、違うっ。はだけた服を戻してるんだっ」


「そ、そんなの放っておけばいいじゃないっ」


「放っておけるわけないだろっ。心配しなくても下着は見てないからっ」


「……ほんと?」


「……ほんとはチラッと見た」



 正直に認めると、柚花が目を細めた。


 じっとりとした眼差しで、



「えっち」


「そ、そんなこと言うなよ。柚花がはだけるのが悪いんだろ。だいたい、先に触ってきたのはそっちだぞ」


「は、はあ? 触ってないわよっ」


「触ったって。寝てたとき抱きついてきただろっ」


「それは寝相が悪いだけよっ。あんたは自分の意思で触ってきたじゃない」


「ちゃんと理由を説明しただろっ。だ、だいたい、ちょっと触るくらいいいだろっ。俺たち、男女の垣根を越えた友達になるんだから!」


「だとしても、これはまだ早いわよっ」



 恥ずかしそうにそう言って、柚花は寝返りを打ってしまった。


 まだ早いって……じゃあ、いずれは触ってもいいってことかよ。



「……もう寝るわ。おやすみ」


「お、おやすみ……」


「……あと、風邪引かないようにしてくれてありがと」


「お、おう。どういたしまして……」



 いずれその日が訪れる――。そう考えると途端に緊張してしまい、なかなか寝つくことができなかった。



     ◆



 翌日。


 昨夜のどきどきはすっかり収まり、俺と柚花は警戒モードに入っていた。


 先輩が朝風呂に入ると言い出したときは柚花に同伴してもらったし、腹ごしらえに近くを散歩したいと言い出したときは殺虫スプレーを手に同伴した。


 しかしハチは姿どころか羽音すら響かせず、ついに帰る時間になった。


 多めに出された昼食でもたれたお腹をさすりつつ、おじいさんとおばあさんに礼を告げ、俺たちはバス停へと向かう。


 バスが到着するまであと数分。少しの油断が命取り。最後の最後まで気を抜けず、俺はギンギンに目を見開き、スプレーを手にあたりを警戒。


 ……なのにハチは姿を見せず、とうとうバスが近づいてきた。



「一度殺虫スプレーをカバンに入れたほうがよさそうだね」


「で、でも、虫が出るかもしれませんよ?」


「殺虫スプレーを握っていたら、運転手さんを怖がらせてしまうよ。鯉川さんもハエ叩きをカバンに入れたほうがいいかもね」


「ですけど……」


「だいじょうぶ。虫が出たら、私が倒してあげるから。それにほら、もうバスが来たから安心だよ」



 いつスズメバチが出るかわからないのだ。武器を手放すのは不安だけど……先輩の言う通り、このままだと乗車を拒否される怖れがある。


 言われた通り、俺たちは殺虫スプレーとハエ叩きをカバンに入れた。


 そのとき。



 ブゥゥゥン!



 エンジン音に混ざって羽音が聞こえ、気づいたときにはスズメバチが先輩の頭上を飛んでいた。



「わっ!?」



 私が倒すと言ってたが、さすがに不意打ち気味にスズメバチが現れて驚いた様子。先輩は反射的に手を振り上げ、ハチを叩き落とそうとする。


 瞬間、俺の脳内にこの数日で仕入れたスズメバチに関する知識が駆け巡り――



「動かないで!」


「――ッ!」



 ぴた、と先輩が手を止めた。


 スズメバチは先輩の頭上を旋回すると、茂みの奥へ飛んでいった。


 急いで車内に駆けこみ、先輩がため息をつく。



「びっくりした……」


「俺もです……」


「でも、何事もなく済んでよかったわっ」


「だなっ。もし先輩が攻撃してたら刺されてたかもしれないしな!」



 スズメバチは警戒中で、まだ威嚇の段階には入っていなかった。


 殺虫スプレーもハエ叩きも、向こうが襲ってきた際に返り討ちにするためのもの。言わば最後の手段なのだ。


 スズメバチは近づいてきただけ――敵意が芽生えてないのなら、なにもしないのが一番の安全策である。俺が調べたサイトには、そんな情報が記されていた。



「知らなかったよ。先輩として守るつもりが、逆に助けられてしまったね」



 ありがとう、と感謝され、達成感が湧いてくる。


 これで1回目のハチ刺されは回避できた。


 スズメバチの対策を伝えたので、2回目も回避できるかも。


 とにかくこれで死の運命から逃れることができたわけだ!



「どういたしまして! これからも楽しい漫画を描いてください!」


「あたしたち、先輩がデビューするのを楽しみにしてますからっ!」


「嬉しいよ。私がデビューしたら、真っ先にサインを書いてあげるからね」



 最高の報酬に、俺たちは心の底から笑顔になるのだった。

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