8月14日

 耐えきれなかった。気がついた時にはもう手遅れで、

「……はぁ……はぁ、……はぁっ」

 気づけば俺の下には、あの人の死体があった。自分の手に首が収まっていた。そう、俺が、殺した。汗だくの体で、ボロボロの腕で、死にたくなくて……。

「ウッ……、オェェェ……」

 罪を、犯した。


         *


「うわっ……」

 洗面所に行くと亡霊みたいな自分の顔と対面した。ほぼ部屋に軟禁されていた状態だったから、顔を見るのは久しぶりだった。痩せこけた顔。日に当たっていないから恐ろしく白い。不衛生でも伸びていた髪。関節部分が青黒い腕。今すぐ鏡を叩き割りたいぐらいには醜かった。とりあえず汚れてしまった手を執拗に洗って顔もついでに洗った。改めて見ても見てられない顔だった。

「自首……しなきゃ……」

 そう思ってリビングに戻った。警察の番号ってなんだっけ。9だっけ、0だっけ。ボタンを押そうとした瞬間、ふとキョウの顔が浮かんだ。生きているのかな。親、だいぶ暴力振るうみたいだし。あの部屋に戻るのは忍びなかったけど、警察にいく前にどうしてもキョウの声が聞きたくなった。もうだいぶ汚れてしまった紙切れ。描かれた番号を押していく。心なしか手が震えていた。番号を確認し発信ボタンを押した。プルルルルルルと音がする。

「……はい」

 受話器からキョウの声が響いた。久しぶりだった。涙が溢れた。彼が生きていたという安堵とこれからどうすれば良いかわからない不安と、その他諸々の感情が波のように押し寄せてくる。

「……リツ?」

「……キョウ……」

「泣いてんの?」

「……ズッ……」

 そっか、とキョウは言った。いつもより優しい声だった。涙がとまらなくて困った。泣き声を、泣き方を忘れてしまった。

「プール、行くか。30分あれば学校着く?」

「……うん」

「じゃあ、30分後な。一応、金と保険証持ってこいよ。何かあると困るから」

 待ってる、と言って電話が切れた。言われた通り支度をした。お金と保険証を血眼になって探した。やっとの思いで見つけたそれらを鞄に入れた。何日かぶりにワイシャツに袖を通した。心なしかぶかぶかな気がする。多分痩せたからだろう。いつもより軽い鞄を持って家を出た。さながら鳥籠から放たれた鳥のように。外は真っ暗だった。人通りもない。時間の感覚がなくなってしまった。とりあえず学校に向かった。振り返らずに歩いた。あの人のこととか、あの女のこととかは一旦忘れることにした。忘れようとすると早歩きになる。いつもより早く学校についた。30分もかからなかった。

「よぉ」

 久しぶりに会ったキョウは痛々しいほど傷だらけだった。そして少し痩せているように思えた。

「生きてたな」

 そう言ってキョウは俺の髪に手を伸ばした。顎までだった髪は肩につくぐらい伸びている。俺と同じくらい。髪をよけられて目が合った。やせ細って醜い顔があらわになる。あんまり見ないでほしい。キョウが微笑んだ。キョウの手が俺の輪郭を辿る。

「行くぞ」

 キョウは俺の細い手を取って歩き出した。


         *


 裏門を通ってプールに着く。呆気ないほど簡単に忍び込めた。門を飛び越えて階段を上り、プールについた。

「そういえば水着あった?」

「……忘れてた」

「だよなー。俺も。まぁこのまま入ればいっか」

 そう言ってキョウがいきなりプールに入ろうとするから慌てて止めた。本人はキョトンとした顔をしていた。

「いきなり入るのは、危険」

「そうなん?」

「まず足から浸かって、水に慣れないと」

「ふーん」

靴と靴下を脱いでプールサイドに座る。足を水面に入れた。まだまだ蒸し暑い夏の夜には心地よい水温だった。キョウも見よう見まねで腰掛けた。時計は12時を指していた。夜が深くなっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る