旅立ち

諏訪森翔

旅立ち

「うあっ!?」

 死んだ。確実にあの感覚は死んでいた。だが、今こうして目が覚めた。男は刺された場所を見る。しかし、そこには傷一つなくスベスベの肌が幻だと語りかけているようだった。

 困惑しているとカチャンと扉が開き、湯気の立つ鍋を持った女性が入ってきて目覚めた男を見ると顔を明るくし、話しかける。

「お、おはよう。自分が誰か分かるかな?」

「あ?う.....あああ」

 は?誰だお前、そう言ったつもりでも言葉にはならず呻き声のようなのが口から発せられ、目の前の女性は鍋を机に置いてから困ったような表情で男に近寄る。

「言葉、分かる?」

「あ、ああ...」

 うんうん、と頷いた女性はさらに男の近くに寄り、彼の手を掴む。

「発音の仕方が分からないのかな?なら、これで」

 そう言うと女性はなんの躊躇いもなく男の指を自分の口の中に入れる。

「!?」

「わはひは、アイヒフ。オエッ」

 若干えづきながら自分の名前を口にするも男は今起きた出来事に思考が追いつかず口をパクパクとし、女性はもう一度同じことを繰り返す。

「わはひは、アイヒフ。ほは、いっへ」

「わああいは、あい.....いふ?」

 あともう少しだ、と女性は思ったのか指をもう少し奥の方へ持っていき舌の動きをきちんと覚えさせようとする。

「ゔっ...わーはーひはー、アイヒフ。お゛っ」

「わたしは、アイリス....?」

「へーはい!ヴッ!!」

 しっかり発音できたことに安心した自身をアイリスと言った女性は気の緩みから食道も緩んだのか吐き出し、それを顔面に受けた男の叫び声が部屋に響き渡った。

「う〜、まだ気持ち悪い....」

「急に人の指口に突っ込んで挙句吐いたんだから謝罪してほしいな」

 頭から吐瀉物を被り、アイリスから浴室に案内され洗い流した男は憤慨しながらまだ顔が少し青いアイリスに言うと彼女は突っ伏していた顔を上げる。

「なによ、山道に倒れてたから助けたのにその態度は。もし助けてなかったらアンタ凍死してたかもよ?てか、急に喋れるじゃない」

「とても嬉しくないが吐かれた衝撃で思い出したんだよ。というか山道に?どういうことだ?」

 首を傾げた男にアイリスはさっきまでの弱々しかった態度はどこに行ったのか椅子から立ち上がって胸を張る。

「そう。山道にアンタは倒れてたの。荷物満載で!」

 そう言って指をパチンと鳴らすと奥の部屋から男が当時持っていた荷物を抱えた人間がやって来て荷物を置いて立ち去ろうとしてアイリスに止められる。

「廉もなんか言ってあげな」

「ええ?何も言うことないよ」

 廉と呼ばれた人間は肩をすくめながらアイリスに告げるも何か一言、とせがまれ仕方なくと言った顔で男に話す。

「君が誰なのかは分からないけど悪い事は言わない。今すぐ去ったほうがいい」

「廉、嘘はダメだよ〜」

 廉の脇を突きながらアイリスが意地汚く言うと廉も抵抗し、それを見た男は笑った。

「お?笑ったな–––、そう言えば名前は?アンタの持ち物を見ても名前が書いてなかったんだよね」

「名前?」

 男は自分の名前に心当たりがないのか怪訝な表情を浮かべるも彼の脳裏には別のものが浮かんでいたが、そんな事微塵も知らぬ二人は男の名前を考えてワイワイしていた。

「コーネリアスとかは?」

「いーや。カエサルとかがいい」

 自分のことなどお構いなしか、と男は笑いながら自分が持っていたという荷物を漁ってみる。

「ん?」

 その中でも一際男の気を引いたのは手紙の束だった。それも一日二日で書かれたものではなく一番古い物は黄ばんでいた。

 一つの手紙を何気なく選んで中身を読む。


 今日は雨がすごい。そして雨宿り先にいた小さな同居人と止むまで過ごしていた。『彼女』は人見知りらしいが僕には随分と心を開いてくれて家族が六人もいるらしく養うために働いているらしい。僕にも姉がいると伝え仲良く話していると雨も止み、僕らは別れた。別れ際に彼女は僕に稼ぎの一部をくれた。これでまた旅が出来そうだ。それじゃあ、またしばらくしたら書くよ。

 十


 誰かに宛てた手紙なのだろう。そして全ての手紙に共通していたのは最後に必ず『十』が書いてあったということ。

 何かのサインなのだろうか、そう悩んでいると二人の命名論争も決着がついたらしく男の肩を叩いて報告する。

「アンタの名前は....って、何それ」

「ああ、これが俺の名前なのかなって」

 そう言いながら手紙の最後にいつも書いてあった『十』を指差す。

「名前.....?」

「十字架?君はキリシタンなの?」

 首を横に振る男に廉は首を傾げ、アイリスはサインの意図がよく分からないのか真面目な表情でそれを覗き込んで、しばらくすると指をパチンと鳴らし立ち上がる。

「分かった!!」

「お?」

「え?」

 アイリスが突然放った言葉に廉と男は驚き、そしてすぐにそれがサインの意図が分かったという意味だと分かると期待の視線に変わった。

「多分ね、アンタの名前はクロスだ」

十字架クロス?随分と罪な名前だね」

 廉はその名前に怪訝そうな顔をし、男の方はしばらく呆気に取られた表情をしていたが頷き、満足そうに笑う。

「クロス....ああ、多分俺の名前はクロスなのかもな。違和感がない」

「名前に違和感もクソもないさ」

 突然寛大になったアイリスに少し違和感を覚えたクロスだったが、この短い時で決心したことを告げる。

「俺はここのことがよく分からない。だからここに住まわせてもらいながら教えてほしいんだ」

 廉とアイリスは囁き合い、すぐに解決したのかそれぞれの手を差し出す。

「「いいよ。我が家にようこそ。義弟よ」」

 こうしてアイリス、クロス、廉との同居生活が始まった。

 それからは目まぐるしかった。

 アイリスからの訓練によって死にかけたり、廉を風呂に誘ったクロスが殴られアイリスから廉は女性だと笑いながら告げられたり、クロスが料理上手だと知った二人から家事を全部丸投げされて困ったりとあり、そんな中でもこの世界の性質かたちなどを知ったクロスはあの時持っていた荷物を纏い、旅立とうとしていた。

「本当に行くの?」

「どうせならシチューとか作り置きしておいて欲しかったなぁ」

「うるさいなぁ。いい加減作りなよ」

 未練がましく話しかける二人にクロスは苦笑しながら懐から取り出した一枚の絵を見せると二人はギョッとした。

「それは?」

「唯一の手がかりなんだよ。この手紙に書かれている『姉』の似顔絵だ」

 そう言いながら意気揚々と小屋を出ると外は霧がかっており、先も見通せないほどだった。

「さあ、長く留まりすぎたし巻き返すぞ!」

 歩いて行くとクロスの姿は霧に包まれ、消えていった。

 そしてクロスの去った小屋で廉とアイリスは黙って茶を飲んでいると廉が思い出したように笑い始め、アイリスもつられて笑った。

「アイツ大丈夫かな」

「まあ、旅は良いだろうけどアレはね....」

 笑いすぎて浮かんだ涙を拭きながらアイリスはクロスが見せてきた絵を思い出し、廉も腹を抱えて笑った。

「あれは流石に無理だろうね」

「うん。だって––––」

 二人は顔を見合わせ同時にクロスの無自覚な欠点を喋る。

「「アイツ、絵心は皆無だからね」」

 果たして彼は無事に『姉』のもとへ帰れるのだろうか。それとも旅を永遠と続けるのだろうか。

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旅立ち 諏訪森翔 @Suwamori1192

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