君ならで

未麟

君ならで

君ならで 誰にか見せむ 梅の花

色をも香をも 知る人ぞ知る

             紀友則


訳:あなたでなくて、一体誰に見せようか。この梅の花の色も香りも、良さが本当に分かるのはあなただけなのだから。


出典:古今和歌集・春歌上・三八




一 喪失



メンツが変わるだけで、授業ってこんなにつまらなくなるんだな。

俺は呆れながら、ある意味感心していた。

夏休みが終わり、九月の昼下がり。日本史の授業。昼寝に適した時間帯だ。

教壇にはボソボソと喋ることが評判の初老の男性教師。俺は自然とあくびを噛み殺しながら窓の外を眺める。しかし、俺の眠気は教師の次の一言でかき消された。

「……えーと、ここで源サネイエがですね、鎌倉幕府の将軍になるわけですね……この人はえー……北条政子と源頼朝の息子でして……」

いや、源サネイエって誰だよ。そこは実朝だろうが。

教科書を片手に黒板に「源実家」と書く教師を睨みつける。

教科書を見ながら間違えるって本当に教師かよ。

てかサネイエって実家なのかよ。じっかじゃねえか。

高三の日本史で間違いを教えるとか、俺らが間違えて覚えたらどうするんだよ。

思いつく限りの罵詈雑言を脳内で浴びせながら、誰かが訂正するのを待つ。

しかし次の話題に移っても、授業の終わりが近づいてきても、誰かが間違いを指摘することは無かった。

まあ、言わなくてもいいか。俺は別に正しく覚えてるし。俺自身に害はない。

そう思った次の瞬間、聞き馴染みのある声がした。

――でも、言わなかったら後で後悔するだろ?『言っとけば良かった』ってなるだろ?それが嫌だから、あたしなら勇気を出して言う。

まただ。もう傍にも居ないくせに、俺の頭に蘇って話しかけてきやがる。

――避けられる後悔は避けるのが、得策ってものだよ。

あー、分かったよ。分かったから、もうやめてくれ。

俺はわざとらしくため息をつくと、手を挙げた。「……すいません」

「……えっと、君は……」

「天野です。」

「そうそう、天野君。えー……どうかしましたか。」

「さっきの、源サネイエじゃなくて実朝じゃないですか。」

教師はああ、と口にしてサネイエの文字を消し、実朝に書き換えた。「これはこれは、うっかりしていました。いや、失礼。」

これで満足かよ、と心の中であいつに呼びかける。

――天野にしては、よく頑張ったんじゃない?

お前はこんな時でも上から目線なんだな。

――そんなことないよ、頑張ったね。偉いと思うよ。

ん、ありがと。

何十回もこの教室で繰り返された会話は、今でも俺の脳裏にリアルタイムで蘇る。まるで、今でもあいつが俺の目の前にいるかのように。


チャイムの音とともにノートを乱暴に閉じ、音を立てて立ち上がる。

号令に合わせて礼をしながら、隣の席を盗み見る。これは数年前からの俺の癖だ。いつもあいつを探してしまう。

でも、あいつはいない。あいつがいたら、さっきの間違いなんて一瞬で指摘していただろう。だから、いるはずがないのだ。

当たり前のことだ。考えるまでもない。

だって、あいつは。

本間渚は、四月にこの学校を卒業したのだから。

そして俺は、「一緒に卒業する」という、あいつとの約束を果たすことができなかった。

二年目の高校三年生は、一年目とは比べものにならないほどつまらない。良く言えば穏やかで、悪く言えば代わり映えしない。

要するに、俺は刺激を求めているのだ。


「ちーくんいる?」

懐かしい名前を呼ばれた気がして顔を上げると、そこには見知らぬ女子がいた。

「あ、すまん、待たせたな。」

そう言って立ち上がったのは勿論、俺ではなかった。

ああそうだ。このクラスにはもう一人、同じ名前の奴がいる。

俺はすぐ、何も無かったのようにスケッチブックに向かう。

いい加減、この環境にも慣れたいものだ。

もう此処にはあいつはいないし、俺のことを呼ぶ奴なんていない。呼ぶとしても、業務連絡か何かだろう。

好きで俺みたいな奴に関わりたい奴なんて、よっぽどの物好き以外いる訳が無い。

しかし、俺も好きで留年しているわけではないのだ。本当ならば、俺はちゃんと大学生活を謳歌していたはずだ。少なくとも今年になるまでは、それを信じて疑わなかった。いや、考えたくなかっただけかもしれないが。


俺は今日も、あいつの馬鹿みたいな笑顔を求めて、スケッチブックの新しいページにシャーペンを走らせる。

何しろ正解が分からないもんだから、どんなに描いても満足出来ない。

もう半年以上会ってないのだから、似てるのか似てないのかすら分からない。

それでも、描き続けていないといけない気がした。


二 追憶



まだ俺らがお互いのことをあまり知らなかった頃――母親の調子が比較的安定していた頃――あいつは俺の鞄の中に一冊のスケッチブックを見つけた。見ていい?と言ったくせに、俺が返事をした時には既にスケッチブックは開かれていた。

俺が少し怒ってみせると、彼女は謝って、「代わりにあたしが描いた絵を見せるよ」と言った。

「君も、絵を描くの?」思わず口にする。

彼女は頷くと、スマホを操作し、写真アプリのとあるフォルダを開いてこちらに差し出した。「うん。でも、あたしが描くのは風景だけ。君みたいに、生きてる人間は描けないよ。」

青い空と鳥居に海。山から見下ろした街。俺たちが通う学校の昇降口。通学路の商店街。

フォルダに入っていたのは、数十枚にも渡る風景画だった。それも、写真だと言われても納得するレベルの、クオリティの高いものばかり。パースも配色も、影の落とし方もしっかりしていて、同級生が描いたとは思えない。思わず息をのむ。

しかし、どの絵にも一人も人間が描かれていないことに違和感を覚えざるを得なかった。でもそれさえも、まるで人間だけが消えてしまった世界のようで、何処か儚く、美しい。

「どうして風景だけなの?」純粋に疑問を口にする。

「風景を描くのが好きだから。風景って、昔の人も今の人も同じものを見てる。でも、何処か儚い。」言わば遺愛の風景が好きなのだ、と彼女は語った。

あたしはいつでも、あの人と同じものを見ていたいし、愛していたい、と。

彼女の言う「あの人」が誰であるかは聞かなかった。

そんなことより、俺と同い年であるはずの彼女が風景ばかりを描くことが意外だった。自分の知る限りでは、同じくらいの年齢の絵を描くことを好む人は、可愛いキャラクターとか格好良いキャラクターとかそういったものを描く人が大半だったからだ。

「逆にさ、天野はどうして人物を描くの?」

「君のような、深い理由は無いよ。人間はそこらじゅうに居る。だから、それをそのまま描くことができれば正解。正解があるのは、楽だから。」何となく思いついた言葉を並べた。

本当の理由なんてのはもう少し幼稚で、例えば教師だとか先輩だとか嫌いな人の絵を多少リアルに描いて、それを破ったり塗りつぶしたりすることをストレス発散にしているうちに、描くこと自体が楽しくなったから、というものだ。あとは、記憶の中のものをそのまま都合良く投影出来るから。

本当のところ、理由なんて俺にも分からない。

でもあいつは、適当な俺の返事に納得したらしい。もっともらしい考察を語り始めた。

「なるほど。じゃあ天野の描く人間は、二次元的なものじゃなくて、三次元的なものなのかもしれないね。アニメや漫画とかの浮世離れしたものではなくて、あたし達が生きている世界をそのまま描くような。」

「そんな理屈ばかり言われても、分からないよ。普段、そんなこと考えて絵を描いてる訳じゃないから。」俺がそう言い返すと、彼女はもう一度、俺のスケッチブックを真剣な瞳で見つめた。

ややあって、彼女は俺の目を見つめながら、意味深長な笑みを浮かべた。

その笑みに散々振り回されてきたからいつもなら嫌な予感がするはずなのに、今は少し胸が高鳴っているのが分かった。

満を辞して、あいつは口を開く。「ねえ天野。君、いつかあたしの背景に人間を描いてよ。」

「え、俺が?」

「何、嫌なの?」

「そうじゃなくて……君は俺でいいのって言ってるんだ。」

いつも高い理想を掲げる彼女は、俺の絵を見たところでどうせ子供のお遊び程度にしか思わないんだろうな、と思っていた俺からしてみれば、かなり意外な申し出だった。

「天野の絵、あたしは凄く好きだよ。このフォルムとか、影の形を意識して、かなり小さいところまでリアルに描いてるのが、凄く好き。全体的なバランスもいいし、何処か哀しさのようなものを感じさせる絵柄。惹き込まれる。スケッチだけじゃなくて、色の塗られた絵も見てみたいよ。」

何しろそれは彼女から貰った初めてのべた褒めの言葉だったものだから、俺は柄にもなく照れてしまった。

「そんなに言うのなら……是非……。」

彼女の描く風景に俺が人間を描くとしたら、どんなふうになるんだろうか。一緒に想像を膨らませて、たまには外に出て描く対象を探して、アタリを描いて、線画を描いて、アドバイスをし合って、修正して、彩る。本当にそれが出来たなら、どんなに幸せだろう。

そうやって生み出された作品は、どんなに素敵なものなのだろう。


「でも、今のあたしの絵だったら、下手すぎるよね。」

何を言うんだ、ふざけんな、と思った。彼女の絵は難しいパースもちゃんと取れているし、光の加減や影、色の塗り方も大雑把な俺の比じゃ無いくらい繊細で、実にリアルだ。美術部に入っていないのにこんな絵を描ける彼女は凄いと思う。月並みな言葉しか思いつかないが、こんなに凄い絵を描けるのだから、そこまで卑下する必要はないのではないかと思う。

「だからさ、もう少しだけ、待ってよ。」

「待つ?」

「あたしが、天野の絵に相応しいくらい上手な背景を描けるようになるまで、待って欲しい。」

いやいや……。今の時点でも十分上手いのに、そんな彼女が自分の絵が上手くなったと思えるまで待つなんて、一体何年かかるのだろう。

「君の絵は、今でも十分上手いと思うけどな……。それに比べれば、俺の絵の方がリアルさに欠けるし、稚拙な表現しか出来ない。」

「じゃあさ!」まるで夢を語る少年のような輝きの瞳で、彼女は言った。

「あたしももっと沢山絵を描いて、もっともっと上手くなる。だから、天野も沢山描いて、お互い、もっと上手くなろうよ。自分の絵が、一番上手いって思えるくらいに。そして、最終的にはあたしが背景を描いて、天野が人物を描いて、そうやって一緒に絵を描こう。」

そうすれば風景も人物も、二倍の速さで上達できるからね、と彼女は笑う。いつもなら馬鹿にする俺も、何だかこいつとなら何でも出来る気がした。

「分かったよ。具体的には、いつまで修行を積めばいいんだ?」

「高校を卒業するまで。」彼女は躊躇いもなく口にする。

高校卒業。まだ一年半もある。卒業後の自分の姿が上手く想像出来ない俺にとっては、とてつもなく遠い未来に思えた。「え、そんなに?」

「上手くなるには、沢山時間が必要だから。天野だって、一年やそこらで今の絵を描けるようになったわけじゃないだろう?」

確かにそうだ。俺は小学生の頃から絵を描き続けてきた。女みたいだと馬鹿にされても、下手だと言われても、描き続けてきた。成長は日々感じることができたとしても、自信を持って発表できるようになるにはもっと時間がかかる。

「じゃあ、約束。卒業したら、一緒に絵を描こう。誰もが認める、最高の絵を。」

その言葉は、紛れもなく俺の人生を変えた。何となく描いてきた絵に、目標ができた。

ああ、俺らが大人になった時、きっとこの瞬間を思い出すんだろう。二人で語る最高の思い出の一つになるのだろう。そう確信していた。

「分かった。約束するよ。」

こうして俺は、本間渚と一つ目の約束をした。


 *  *  *


それから、二年が経った。

本来なら一緒に卒業して、今頃一緒に絵を描いていたはずの俺たちは、離れ離れになっている。それどころか、俺はあいつの居場所さえ知らない。メールアドレスを変えてしまったらしく、連絡先も分からない。音信不通と言って差し支えないだろう。

どこで間違えたのかなんて、明白だ。考えるまでもない。俺が弱かったから、母さんのことを受け入れられなかったから、こんなことになってしまっただけのこと。

全ては手遅れなのだ。



三 堕落



「この変わり映えしない毎日こそ、何よりもかけがえのないものなんだ。」

昔好きだったヒーローは言った。

意味なんてその頃の俺には分からなくて、最近、やっとその意味が分かるようになった。

俺はもっと、あいつとの何気ない毎日を大切にするべきだった。「二つ目の約束」を守るべきだった。あれは、何が何でも守らなきゃいけなかった。

だって、俺は今。

あいつを失った今。

生き方を見失っている。


 *  *  *


きっかけがあるとすれば、テスト明けに配られた進路希望調査だった。

名前も知らないクラスメイト達は、とうとうきたか、という顔をしている。

俺はまあ、予想通りだった。二回目だから、配られるタイミングなんて分かりきっている。


去年の今頃、同じく進路希望調査を手にした俺たちは、放課後の教室で進路について語り合った。

――正直去年まではさ、まだあと一年以上あるから、って舐めてたよね。学力的に行けるはずのない大学とか書いてさ、深く考えてこなかった。

――分かる。適当だった。

あいつは進路希望調査をひらひらさせながら、冗談をこぼした。

――こんな紙切れ一枚で人生が決まるとか、馬鹿にしてると思わない?せめてラミネート加工くらいして欲しいものだね。

――紙質もあんま良くないしな。俺はケント紙を希望するよ。

俺もあいつのおふざけに乗った。

――お前は、もう決めてんの?大学。

――うん。学力的にも凄くいいところでね。親も賛成してくれたよ。

――それはおめでとう。

――天野は、親御さんに言うタイミング、無いの?

――あるわけねえよ。昨日なんて、学校に行くタイミングも無かったんだから。

この頃の俺はかなりあいつに打ち解けていて、母親が末期癌で余命幾許も無い状態だとか、昨日容体が悪化したとか、母親のそばにいるために子供の頃からやっていた野球をやめたとか、そんなことまで話していた。信頼していたからというのもあるが、誰かに打ち明けないとそろそろ俺がどうにかなりそうだった。

――てか、単位は大丈夫?この前も一週間くらい休んでたよね?

――忘れてたわ。数えないとだ。

――今時間ある?付き合うよ。


日が落ちるのが早くなった教室で、二人で俺の科目ごとの欠時を数えた。

高一で母親が入院してから学校を休むことがぽつぽつと増えてきてはいたが、幸い今までは進級に影響は無かった。しかし、今年は今までとはわけが違う。母親の病気は三年になると同時に余命宣告を受けるほど悪くなり、今では学校で授業を受けていたら病院から連絡が来て、早退することなんてざらにある。

――かなりまずいね。特に金曜の英語表現と数学、体育はそれぞれあと一回しか休めない。

俺はそれを聞いてもあまり驚かなかった。金曜日は母親の定期検診の日で、休むことが多かった。

――じゃあ留年待ったなし、かな。仕方ない。

当たり前のように現状を受け入れた俺に、あいつは不服そうな顔を見せた。

――本当にそれでいいと思ってるの?

――俺は出来るだけ母さんのそばにいたい。それで留年したら、仕方ないよ。きっと後悔はしないさ。

この無責任な言葉のせいで一年後の俺がどんな思いをしているかも知らずに、俺は言った。今思うと、野球をやめてまで、留年してまで、死の淵にいる母親に寄り添う自分に酔っていたのかもしれない。

――あたしは天野と一緒に、この学校を卒業して、笑い合いたいよ。

俺だってそうしたいよ。でも、この前、母さんは俺や妹が学校を休んで病室に通ってることに対して「幸せだ」なんて言ってくれた。そんな母さんを見たら、今更やめられないんだ。

――天野は違うの?

――ごめん。俺は今、母さんのそばにいたい。

はっきりと言い切った俺に、あいつは驚いたらしい。面食らった表情を見せた。

――そうだよね……ごめん。

あいつは珍しく、悲しそうに顔を伏せた。

言ったことに後悔はない。俺は幼い頃から母さんに沢山支えられてきた――野球だって絵だって、俺を構成する要素はほとんど母さんに基づく――から、こんなことになってしまった今、母さんを支えたいと思っている。

でも、それだけじゃない。

――でも、俺も留年はしたくないな。お前と一緒に卒業したいのは同じだ。

思い出すと恥ずかしくなってしまうくらいの台詞を口にした。まったく、俺らしくもない。きっと、度重なる睡眠不足で頭がおかしくなっていたのだろう。真顔で言った俺自身をビンタしてやりたい。

――じゃあさ。約束してよ。

――約束?

――あたしと、一緒に卒業すること。一緒に卒業して、あの桜の前で写真を撮るの。恒例のやつ。

俺たちの学校には、卒業した生徒が校門の桜の前で決まったポーズをし、写真を撮るという慣習がある。そのポーズというものが、学校の頭文字を作るという何とも小恥ずかしいものだから、俺は誰かとそんなことをする予定はなかったし、あいつも同じだと思っていた。

勘違いする人も多いのだが、俺と本間渚は断じて恋仲などではない。関係の清さは一〇〇パーセントだ。俺たちはライバルであり、一緒に居て楽しい友人であり、将来一緒に絵を描こうと約束した相棒でもあった。この感情を言葉で表すのなら、「敬愛」が近いと思う。俺はあいつを色んな意味で尊敬している。

それなのに、あいつのどこが尊敬に値するのかとか、何が好きで仲良くなったのかとかを言葉で表すのは難しい。要するに、あいつには言葉で表せない魅力があるのだ。そのくせ、あいつの気に食わないところならいくらでも出てくる。

だから俺が、本間渚を恋愛的な意味で好きだとか、そんな馬鹿げた話はない。

だからこそ、あいつが俺と一緒に卒業することにここまで固執する理由が分からなかった。

――どうしてお前がそこまでするんだ?

――天野にとっては、あたしなんて小さな存在かもしれない。でもあたしは、天野と一緒に色んなことをしてきたから、一緒に卒業したいんだよ。

あいつは感情的になって言った。珍しいこともあるものだ。

彼女らしくない言い草に驚きながらも、俺は嬉しさを噛み締めていた。今までの俺の人生において、こんなに言ってくれた人がいただろうか。

――ありがとう。じゃあ、約束な。

このとき交わした二つ目の約束が、そっくりそのまま俺の罪悪感に変わるなんて、この時は思ってもいなかった。


 *  *  *


去年はなんて書いたんだっけ。ああそうだ、あいつに色々教えてもらって、無難な大学の文学部を志望していると書いたんだ。まあ結局、そもそも単位が足りなかったから、受験することもなかったのだけれど。

そんなことを考えながら、夕暮れの商店街を歩く。

進路希望調査を貰ってから、去年のことばかり、あいつのことばかり、思い出してしまう。

折角忘れかけていたのに。あいつの言葉が蘇ることも少なくなっていたのに。

それでも思い出すってことは、俺の中であいつが占める割合が相当大きかったということなのだろう。

去年某大学の文学部を志望したのだって、親に負担をかけたくなくて公立の大学が良かったのと、あいつが文学部志望で文学部の魅力をさんざん聞かされていたから――あいつは源実朝という人物とその和歌が好きだった――だ。

元はと言えば、高二の時に文系か理系かを選ぶ時だって、あいつが文系だったからに他ならない。

あいつがいなくなってから、その影響力の大きさを実感するばかりだ。


 *  *  *


「ただいま」

誰もいないのは分かりきっているが、居間に向かって声をかけた。そこには、母さんの仏壇がある。

「水、変えるよ。ちょっと待ってくれ。」

仏壇にそう話しかけながら、手を洗い、コップに水を注ぎ、仏壇に供える。

「そうそう、今日、進路希望調査が配られたんだ。母さんは、どうすればいいと思う?」

こうやって日々あったことを母さんに話すのは、俺の日課だ。あいつが聞いていてくれたことを、今は母さんが聞いてくれている。

「なんか、上手く決められないんだよ。あいつがいなくなってからかな。なんか、進路とか生き方とか、自分に関することなのに決断する勇気がないんだ。」

母さんはいつも遺影の中で笑っている。俺が中学生の頃、家族旅行で撮った写真だ。

「なんか、うまく言えないんだけど。これ以上、何かを失うことが怖いんだ。これ以上、自分に失望したくないんだ。だから、決めるのが怖い。」

いつか失うくらいなら、はじめから何も要らなかった。

野球も、母さんも、あいつも、あいつとの約束も、全部。

夢も、希望も、いらない。期待して裏切られるだけだから。

「もう、疲れたよ。留年してるからって気を遣ったり、友達の一人もいないのに、学校行ったり。もともと、俺にはやりたいことも何もないんだ。野球だって母さんに勧められて始めたし、勉強もあいつと張り合うために何となくやってただけ。だから、もう、やめちゃおっかなって。」

言葉にしてしまうと俺が悩んでいたことなんてちっぽけなもののようで、もういいかな、と諦めさえ生まれてくる。

「だってもう、母さんはいない。あいつもいない。これ以上……」本当はもう、とっくに限界だった。言葉にするのが怖かっただけだ。

「生きる理由が分からないよ。」

窓から夕陽が差して、俺の影を伸ばしていく。

母さんが慰めてくれているような気がして、俺は涙を堪えることが出来なかった。


俺はもう、あいつや母さんのいない世界に価値を感じることが出来なかった。

生きている意味さえ分からなかった。


なあ、本間。お前がいたら何か変わったのかな。

こんなこと言ったら笑うだろうけどさ、お前のいない世界はつまらないよ。



四 遺愛



俺はそれから三日間、学校に行かなかった。正確に言うと、サボった。

大した理由なんてない。気分が乗らなかっただけだ。

幸運なことに俺の今年の担任は若い教師で、留年した俺に気を遣っていたから、学校から深く理由を聞かれることは無かった。

一日中家にいると流石に父親や妹に疑われるかと思ったが、父親は毎朝早くに家を出ていって深夜に帰ってくるので心配はいらなかったし、妹も最近は部活が忙しいとかで朝早くに出ていく。俺が学校をサボったことに気付く様子は無かった。


一日目は久しぶりに、母さんのお墓参りをした。お墓は、電車で一時間ほどかかる場所にあった。その途中で母さんのことを沢山思い出して、情けないことに墓前でも泣いてしまった。


母さんのことで、悪夢のようにずっと瞼の裏から離れない光景がある。一年半前、余命宣告を受ける前の日、母さんの容体が夜に急変した時のものだ。俺はその時たまたまトイレから帰ってきたところで、母の病室に看護師さんたちが駆けつけるのを見て、胸騒ぎがして、急いで病室に向かったのを覚えている。

処置をされながら、母さんは泣き叫んだ。今まで苦しい時も母さんは静かだったものだから、俺は怖くて立ち尽くしてしまった。

看護師さんやお医者さんたちは「天野さん、大丈夫ですからね」と呼びかけるが、母は泣き叫ぶのをやめなかった。最初は「痛い」「苦しい」といったものだった母さんの叫びは、「なんで私だけ」「嫌だ」と、より悲痛なものに変わっていった。俺は看護師さんに促され、病室から出て行こうとしていた。

しかし、病室を後にするとき、母は今までの数倍もの声量で叫んだ。「死にたくない」と。

俺はただただ、怖かった。いつも明るくて優しかった笑顔の母さんが、何処かへ行ってしまうような気がした。

あの時の母さんの泣き叫ぶ声が、どうしても忘れられない。


その翌日、担当医から母の余命がもって半年であることを聞いた。本人に伝えるのは落ち着いてからということだったが、俺は昨日の母の叫びが忘れられなかった。

父は気丈に振舞ってはいたが、母の病室の前で咽び泣いていた。

妹は母の死が近いことを受け止めきれず、いきなり泣き出すことが多々あった。

俺はそれから毎日、病室に通った。病室で、ひたすら母の絵を描いた。母がいなくなってしまう前に、描き残しておきたかった。

その時描いた絵の一部は、今も仏壇の前に置いてある。


二日目は、家でひたすら絵を描いていた。久しぶりにペンタブを使って、デジタルで絵を描いた。絵を描いていると時間が過ぎるのはあっという間で、気付いたら昼ご飯も食べていないのに夜になっていた。


三日目は、部屋の掃除をした。学校をやめようと決めてしまうと、いらないものはどんどん分けられていった。教科書や参考書を積んで、紐で束ねた。もう捨ててしまおうかと思ったけれど、古紙回収の日が一週間後であることに気付き、とりあえず部屋の隅に積んでおいた。

掃除というものは不思議で、普段はやりたくないのに一度始めてしまうともっと色々なところも綺麗にしたくなる。俺は乱雑に積まれたスケッチブックと本の類が気になり、一冊ずつ必要かどうか判断することにした。勿論、ほとんどのものは今の俺にとっては不要で、教科書の上に積まれることになった。

その時、一冊の文庫本を見つけた。随分前に古典の大橋先生から借りたもので、返しそびれていたものだ。俺はもう学校を辞めるつもりでもう行くことはないだろうと思っていたが、流石に借りパクは良くないと思って、明日返しに行くことにした。


*  *  *


四日ぶりに学校に行くといっても、授業を受ける気はない。

お昼頃に文庫本と小さなショルダーバッグだけを持って、家を出た。

一応制服は着た。これで最後かと思うと、少し感慨深い気もした。

生徒と鉢合わせると面倒くさいので、昼休みが終わるタイミングで職員室へ行った。


「大橋先生、今お時間よろしいですか。」

 そう声をかけると、大橋先生は眼鏡を外し、こちらを向いた。

「あら、天野君。お久しぶりですね。」

大橋先生は俺や本間が一、二年生の頃に古典を教わっていた先生だ。

本間渚は古典を愛していたため、休み時間は毎日のように大橋先生のもとに通い、古典について語り合っていた。俺も何となく一緒にいるうちに、彼女のことを信頼するようになった。なかなかあいつには言いにくい母さんの相談を聞いてくれたのも先生だ。

昔からあまり教師というものに良い印象を持っていなかった俺にとって、唯一の「先生」と呼べる存在でもあった。

「お久しぶりです。これを、返すのを忘れていたのを思い出しまして。」

本の表紙が見えるように掲げると、大橋先生はもう一度老眼鏡をつけ、目を細める。

「ああ、そういえば、天野君にお貸ししていましたね。もう歳なので、すっかり忘れていましたよ。二人が来なくなって、一気に老いが進みました。」

困ったものです、と大橋先生は微笑んだ。

俺は返すだけ返してすぐ帰ろうと思っていたんだが、大橋先生がとても嬉しそうにするので、とても帰りを言い出せる雰囲気じゃなかった。

「天野君は最近、本間さんには会っていますか?」

「いや……もう半年以上……連絡もしていません。」俺の返事に、先生は目を丸くした。

まあ普通、あんなに一緒に行動していて仲の良かった俺たちが、今はもう連絡すら取っていないなんて考えられない。俺だって、想像すらしていなかった。

「そうですか……。何か、きっかけでも?」

きっかけ。そう呼べるものは思い浮かばなかった。

ちょうど卒業の一ヶ月くらい前に母さんが死んで、その反動で学校に行けなくなって、単位が足りなくなって、俺は卒業できなかった。留年が決まって、約束が果たせなくなって、それで何となく顔を合わせづらくなって、避けて、そのうちにあいつは卒業していった。

その全てがきっかけと言えるのかもしれないけれど、今更「あの時母さんが死ななかったら」とか言うには時間が経ち過ぎていて、母さんのせいとかではないことは分かりきっていて、だから何も答えられなかった。

その代わり、今学校を辞めようと思っていることを口にした。


あいつがいないとつまらないとか、母さんがいなくて辛いとか、そういう理由を説明できるほど俺は強くは無かったから、ただ淡々と辞めようと思っているという事実だけを話した。

大橋先生はあの頃と変わらず優しく聞いてくれて、「話してくれてありがとう」とまで言ってくれた。

思わず泣いてしまいそうになる。でも何とかぐっと堪えて、今までありがとうございました、と言おうとした。

「今、時間はありますか。あるのなら、少しだけ思い出に浸りませんか。」

最後の思い出に丁度良いだろう、と俺は頷いた。


 *  *  *


大橋先生は俺を国語科準備室に連れて来た。何度も何度も、あいつと通った場所だ。

約一年ぶりに入る国語科準備室は、以前と全く変わっていなかった。壁一面に広がる本棚には物語とか和歌集とかそういう資料が押し込められていて、真ん中の机の上には教科書の類が所狭しと雑に積まれている。

あいつはこの埃と古い紙の匂いのする空間ともう今ではどこにも売っていない貴重な資料達が好きで、この部屋の管理を任されていた大橋先生に頼んで、休み時間や放課後にここに出入りをする許可を得ていた。

「あの頃と何も変わっていないんですね。」

「ええ。此処に出入りするのは私と貴方達だけだったものですから。」

俺は何だか懐かしくなって、あいつがよくしていたように、本棚の資料に少しずつ触れながら、壁に沿って歩いた。

その間、先生は何かを思い出したようにして、隅にある先生の机から何かを探していた。


本棚に「金塊和歌集」と書かれた資料を見つけた。あいつが特に読みこんでいたものだ。

何かに誘われるようにそれを本棚から抜き出し、ゆっくりと開く。小さく埃が舞った。

これを初めて見つけた時のあいつとの会話が蘇る。

――金塊和歌集の全部がこうやって原文で載ってる本なんて初めて見たよ。まさかうちの学校にあったなんて。

――かなりマニアックだからな。お前以外、誰が読むんだろうな。

――天野は読まないの?

――俺はあんまり本とか読まないんだ。

――なるほどね。

――何がなるほどねなんだよ。

――いや、天野ってよく、あたしの気持ちが分からないって言うじゃん?本を読んだら、分かるようになるよ。

思い出の中のあいつの言葉に少しイラつく。

そう言われてから、俺は本を読むようになった。本なんて生まれてこのかた関わりのない人生を送って来たものだから、作家もジャンルも何も分からなかった。だからあいつや大橋先生からおすすめを聞いたり、本を借りたりした。

でも、分からない。俺はあいつの気持ちなんて、分かったことがない。今もだ。


――あたしさ、中学生の時、不登校だったんだよね。この世界に、希望が見出せなくてさ。

国語科準備室に通い始めて数ヶ月経った頃、あいつは突然言った。

――あの時のあたしは、自信がなかったんだ。まだ時間はあるのに、はじめから飛べないと諦めていた。一生懸命頑張れば、届くかもしれないのに。

あまりに突然で内容も内容だったもので、俺は何も言えなかった。

放課後の準備室に、微妙な空気が流れた。


 *  *  *


分からねえよ。俺には、お前の気持ちが分からない。

お前、不登校だったんだろ。学校行けてなかったんだろ。

この世界に希望が見出せなかったんだろ。

じゃあなんで、生きようと思えたんだよ。何がきっかけだったんだよ。

なんで今、自分の翼で飛べてるんだよ。なんで一人で頑張れてるんだよ。

教えてくれよ。なあ。


心の中であいつに呼びかけながら、本を握りしめる。

あいつはもう、俺のことなんて忘れたんだ。俺がいなくても元気にやってるんだ。あいつにとって、俺はそれくらいの存在でしかなかったんだ。その結果が、これじゃないか。

そう分かってはいても、期待してしまう。

また俺の前に現れて、俺に生きる理由をくれるんじゃないか。あの自信たっぷりのうざったい口調で、俺に救いをくれるんじゃないか。

そう思う自分が情けなくて、惨めで、愚かだった。


「天野君は、源実朝について知っていますか。」

ハッと我に返り、大橋先生の方を見る。彼女は優しく微笑んでいた。

「鎌倉幕府の、将軍ですよね。暗殺された。」

「ええ。では彼の和歌は、知っていますか。」

「和歌、ですか?」

大橋先生は、俺の腕の中にある金塊和歌集を指した。「そこに、たくさん詰まっていますよ。彼と、本間さんの、想い。」

「え、あいつの?」

金塊和歌集が源実朝のものであることはあいつに散々聞かされて知っているが、そこにあいつの想いまで詰まっているって、どういうことだろう。

「本間さんは学校に行けなかった時、彼の和歌に救われたんですって。繊細で、でも力強くて、誰よりも優しくて、そんな想いの詰まった源実朝の和歌に。だから今、あたしは前を向けるんです、って教えてくれたんですよ。」

初耳だった。あいつが源実朝や和歌を愛していたことは勿論知っていたが、それはそう言うことだったのか。

「あ、あの、この本、借りても良いですか。」

思わず口にしていた。学校を辞めようとしていることなんて頭から抜け落ちていた。

これを読まないと終われなかった。あいつの想いとやらを知りたかった。

「本当は、学校の資料を勝手に貸してはいけないんですけどね。特別ですよ。」

「ありがとうございます……」

その本は鞄に入れるには大きすぎて、無理やり押し込んだら鞄が膨らんで、少々不格好になった。

「そして、天野君にはこれも。」

大橋先生はそう言って、一枚の封筒を差し出した。

「これは……?」

「本間さんの、忘れ物です。」

「忘れ物……」そっと封筒を受け取る。

ただの茶封筒かと思ったが、そこには「天野千紘様」と俺の名前、そして裏には「本間渚」とあいつの名前が小さく書かれていた。

瞬時に色々な疑問が頭の中を駆け巡る。

こんなもの、いつ書いたんだろう。何で大橋先生が持ってるんだろう。一体何が書かれているんだろう。こんなものを残して、あいつは何がしたかったんだろう。

ずっと望んでいた、期待していたはずのあいつからの手紙なのに、何故かすぐに封を開けることは躊躇われた。もう半年も会っていないあいつの言葉を、今更どう受け止めていいか分からなかった。

「読まなくていいんですか。」一分ほど、ただ封筒を見つめていると、先生は意外そうに聞いた。

「俺には、きっと読む資格なんてないんですよ。だって、約束の一つも果たせなかった。」自分に言い聞かせるように、口にする。

せっかく学校を辞める決断をして、部屋の片付けもしたのに、今更あいつの手紙なんかを読んで気が変わっても困る。もう、遅いんだ。

「だから、読まなくていいです。」

そう言い切った俺に、大橋先生は悲しそうに言った。

「天野君。私はね。去った人が残したメッセージを受け取るのは、残された人の義務だと思うんです。」

去った人、という言い方にドキッとする。

「義務、ですか?」

「ええ。去った人の想いを受け取って、無駄にしないために。」

義務、か。口元でそっと繰り返す。

「でも、俺は……読みたくないです。」

「本当ですか?」

「はい」

「本間さんの想いを、見て見ぬふりするのですか?」

大橋先生は俺の目を真っ直ぐ見つめた。まるであいつみたいで、全てを見透かされているみたいで、その視線の真剣さに思わずゾッとする。しかし俺が怯えていることに気が付いたのか、先生はすぐにいつもの優しい笑顔に戻った。

「すみません。決めるのは天野君なのに、お節介でしたね。ごめんなさい。」

「いえ……」

先生の言葉に我に返る。

今更何を躊躇っているんだよ。金槐和歌集を借りたのは、俺がまだあいつのことを求めてる証拠だろ。あいつにまた自分を変えてもらうことを願ってるのは、誰よりも俺自身じゃないか。

それなのに手紙を読まないとか、あり得ないだろ。

俺は覚悟を決めて、震える手で封筒の端を破る。


 *  *  *


天野へ


久しぶり。元気だった?

きっと君のことだから、私がいない学校はつまらない、とか思って、学校辞めようだとか思ってるんじゃないかな。全部お見通しだよ。

嘘。今のは冗談。卒業まであと二日ってときに、学校に来ない天野のことが心配になって、手紙を書くことにしたんだ。私らしくないよね。

天野が学校を辞めるなんて言った時に大橋先生から渡してもらえるように、頼んでおいたんだ。


この前、天野のお母さんが亡くなったことを先生から聞いた。

きっと私には、天野の気持ちなんて全く分からないんだろう。

分かれないんだろう。


だから天野を救う言葉なんて、何一つ伝えられない。

でも、一つだけ言いたい。

私が天野に「一緒に卒業しよう」って約束をしたばっかりに、天野に無理をさせて、今もこうやって、天野を縛って、苦しめてたんだね。

本当にごめんなさい。

これを言えなかったことが、私の唯一の心残りです。


私は、自分の為に生きる。

君も、自分の為に生きてね。


今まで仲良くしてくれてありがとう。

いつか、また笑顔で会えますように。 本間渚


P.S.もう一つ、約束したことを覚えてるかい?それはまだ有効だからね。


 *  *  *


最後に書かれた日付は、卒業式の二日前になっていた。

読み終わった俺は、柄にもなく国語準備室に座り込んで涙を流していた。

気に入らないんだよ。お前のそういうところが。

本当に辛い時は助けてくれないくせに、こういう時だけ、手紙なんか残していやがる。そして今も、俺の中に闘志を置いていきやがった。

忘れてる?馬鹿なこと言うんじゃねえよ。

このまま負けてたまるかよ。約束を一つも果たさないままで終わってたまるかよ。


「伝わったみたいですね。本間さんの、気持ち。」

「本間はいつだって、自分勝手で自由なんですよ。」俺は涙を拭って、先生に笑顔で返す。

そうだ。あいつはいつだって、自分勝手だった。自分がしたいことに真っ直ぐだった。

自分勝手で、何が悪い。

俺も、自分の為に生きたい。

あいつとの約束や母さんの死に縛られず、自分のやりたいように生きたい。

いや、そうやって生きてみせる。


――あたしは、あの空を飛びたい。自分だけの翼で。

あいつがよく言っていた言葉が蘇る。

なあ、俺は、お前がいなくても飛べるだろうか。




五 ヒーローと決断



二年前の夏休み、あいつと一緒にショッピングセンターに画材を買いに行ったことがある。きっかけは今となっては思い出せないが、あいつが新発売の画材を買いたいみたいなことを言ったから、二人で文具屋へ行ったのだと思う。

それ自体は楽しかったのだが、俺にとってはその行き帰りの道での会話の印象が強い。

その日は朝から日差しが強く、外気温は三十五度近くあった。俺たちは駅からショッピングセンターまで歩く途中で、既に暑さで溶けてしまいそうだった。

あいつは気を紛らわす為か色々と話しかけてきたが、俺はそんな余裕も無く、ヘトヘトになって歩いていた。野球を続けていたらこんな中運動しなければいけなかったと思うと恐ろしいな、なんて考えていた。

その時、ショッピングセンターへの道に上から降ってくるタイプのミストが設置されていることに気が付いた。何という救いだろう。

俺は最後の力を振り絞って階段を駆け上がり、我先にとミストを浴びた。

しかし、俺は涼しさを微塵も感じることができなかった。ミストは威力が弱すぎて、この日の気温では気休めにもならなかったのだ。

俺は思わずミストが役割を果たしていないことに対して文句を言った。弱すぎる、こんなに暑いんだからもう少し強くして欲しい、殺す気かよ、と。

そんな俺に、あいつは平然と「仕方ないよ」と言った。

「無料で提供してくれているんだから、これ以上何かを求める方がおかしいよ。」

いつもこうだ。本間渚はどこか達観している。彼女には、どんなに暑くても、苦しくても、状況を第三者目線で捉える能力があった。それが良いことだと言い切ることは、俺には出来ないが。

それに、ぶっちゃけあいつの口調も気に入らない。「〇〇だろ?」とか「〇〇かい?」とか、アニメでしか聞いたことのない台詞をよく恥ずかしげもなく言えるなあと感心する。


「正義のヒーロー気取りかよ」そんなあいつに俺は何度も言った。正義のヒーローなら、誰よりも先に俺を助けてくれよ、という淡い期待をしながら。

でも彼女の答えはいつも決まっていた。「本当に正義のヒーローなら、自分の為に生きたりしないよ。」

そうだ。あいつはいつだって、自分の為に生きていた。

自分がやりたいから、他の人を助けた。自分が後悔したくないから、他の人を手伝った。自分を嫌いになりたくないから、文句や悪口は言わなかった。

そして、その度に言った。

「あたしはヒーローらしくないから、自分にとってのヒーローみたいになりたいんだ。」

あいつにとってのヒーローが一体誰なのか、それは聞くまでもなかった。

「でも、天野に正義のヒーローだと思ってもらえるのなら、今の自分も悪くはないのかもしれないね。」

いや、俺はお前のことを「正義のヒーローかぶれ」だと言ったんだよ。

でもそんなことは、満足そうな表情のあいつには言えなかった。


 *  *  *


俺も自分自身の、正義のヒーローになりたい。でもそれって、一体どんな奴なんだろう。

教科書やスケッチブックを束ねていた紐をハサミで切りながら考える。

「ヒーロー」いかにもあいつが好みそうな言葉だ。

でも今のあいつは、本当にヒーローみたいだな。手紙ひとつで俺を救ってくれた。言葉には表せないけど、なんか希望みたいな、そういうのをくれた。

束ねていた教科書の間に、一枚の紙が挟まっていることに気付く。白紙のままの進路希望調査だ。

そういえば提出期限、今週だったな。学校を辞めないなら、提出しないといけないな。

俺は、学校を辞めたいのかな。それとも、辞めたくないのかな。

寝転んで、天井を見つめた。

「なあ、本……」

思わずあいつに呼びかけてしまいそうになる。

そうだ。自分の為に生きるって決めたんだ。俺が決めないと駄目だ。


俺は、あいつみたいになりたい。俺にとってのヒーローは、あいつだ。あいつとの約束を果たしたい。

俺は、母さんみたいになりたい。優しくありたい。

俺は、大橋先生みたいになりたい。誰かを導けるようになりたい。


自分の中で何かが湧き上がってくる感じがした。


  *  *  *


「これ、有り難うございました。」

次の日、放課後に国語科準備室に寄り、大橋先生に金槐和歌集を返す。

「あら、天野君。読み終わったんですね。どうでしたか。」

「あいつの気持ち、少しだけ分かった気がします。」

「それは何よりです。ところで、まだ学校を辞めるという気持ちは変わりませんか。」

「辞めないことにしました。一年遅れにはなりますが、あいつとの思い出が詰まったこの学校を、ちゃんと卒業しようと思います。」

笑顔でそう言い切った俺を見て、大橋先生は嬉しそうに微笑んだ。

「そこで先生に、お願いがあります。」

「私に出来ることなら、何でもしますよ。」

「先生がどうやって高校の先生になったのか、教えていただけませんか。」

俺は、自分が教師を志していることを伝えた。


 *  *  *


友達がいない学校は相変わらず少しつまらなかったけれど、勉強や絵を描くことに集中できると思えば、苦ではなかった。

俺は、去年はきちんと向き合うことが出来なかった進路について、色々と調べ、ちゃんと考えて決めた。

教師になりたいという決断は色んな人を驚かせたけれど、父は「千紘が久しぶりに自分のやりたいことを言ってくれて嬉しい」と、大学の学費は出すと言ってくれた。

学年主任の教師は「天野は教師には向いていない」と最後まで言っていたが、俺は諦める気はなかった。


夢に向かう日々がこんなに楽しいなんて初めて知った。

目標の為の勉強がこんなに楽しいなんて初めて知った。

そして、苦しみを乗り越えた後に世界がいかに綺麗に見えるかを初めて知った。


全部、あいつのおかげだ。


なあ、お前も、俺が教師になりたいなんて言ったら笑うのかな。

――皆がそういう訳じゃないけどさ、教師っていつも偉そうな態度だよね。昔はその人も子供だった筈なのに。

いつの日か、あいつがそう言っていたことを思い出した。

大丈夫。俺はそういう教師じゃなくて、大橋先生みたいに、生徒相手でも敬意を忘れない教師になるよ。

心の中であいつに向かって微笑む。

昔の俺なら、お前がいないと何にも挑戦出来なかったかもしれないけど、今の俺は違う。

だって、俺が信じなくて、誰が俺のことを信じるんだよ。俺は自分を、誇れるようになりたい。

お前がいつの日か自分と向き合ったように、俺も自分と向き合って、自分を好きになりたい。



六 卒業



卒業式には出なかった。

最後までクラスメイトの名前すら覚えていない俺が出るのは、場違いだと思ったから。

けれど、四年間も過ごした高校との別れを惜しむ為に、自分の新たな旅立ちの為に、校内を歩く。流石にもう二度と入ることのないであろう国語科準備室を去る時は、思わず胸の奥が熱くなった。

体育館から聞こえてきた合唱曲を聴きながら、あいつとの思い出を思い出していた。


なあ、お前はもう、俺の事なんて忘れたのかな。

俺の事を思い出す時間なんて無いくらい、忙しい日々を送ってるのかな。

でも、俺と過ごした日々が、お前の中で何かになっていればいいなって、そう思うよ。


そう心の中で問いかけたけれど、もうあいつの返事は聞こえなかった。聞こえるのは、ラスサビを迎えてこれでもかと盛り上がる合唱だけ。


でももう、大丈夫。俺は、お前がいなくても飛んでみせる。

自分の空へ。自分だけの翼で。

あいつみたいに、ちょっと格好つけて言ってみた。


今日限りで、お前からも、卒業するよ。

お前と一緒に卒業するっていう約束は無理だったけど、いつかまた、会えるよな。


だって、お前以外、誰に見てもらうんだよ。俺の成長した姿を。

お前しか、居ないだろ。お前しか、俺のことを本当に分かってくれる人なんて居ないんだから。


いつかまた、胸を張って会える時まで。



  後日談



やっと、お前を見つけることが出来た。

自分のことで忙しくて半年もかかっちまったが、ここに居たんだな。ここに居てくれたんだな。ありがとう。

これで俺はやっと、お前との約束を果たせる。


目的地に着く前に、少し涼みに、近くの本屋に寄った。

こんな俺でも一応文学部の端くれなので、本屋を見てまわるのは好きだ。

まあでも、こんな小さな本屋なのだからどのコーナーも大したことは無いだろうと思っていると、あるコーナーだけ妙に充実していることに気付いた。でも、少し考えると合点がいった。観光地だけに、その地域に関連する本を求める人が多いということだろう。

源氏の歴史に、北条氏。鎌倉に関連する本ばかり並んだコーナーに、ひとつ、懐かしい名前を見つけた。思わず本をゆっくり抜き出す。

表紙にはシンプルに「源実朝」とだけある新書には、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝の人生や詠んだ和歌とその意味の考察について章ごとに分けられて書かれていた。

パラパラと本をめくっていると、本棚の脇に貼ってある「立ち読み禁止」の張り紙が目に入った。俺は高鳴る気持ちを抑えながら、財布を取り出し、レジへ向かった。


とあるSNSアカウントが、俺をここに連れてきた。

@nagisakogu__

そのアカウントは、毎週日曜日、十二時ぴったりに鶴岡八幡宮やその近くの様々な場所の風景画を投稿していた。一年半前から、ずっと。投稿された絵の枚数は、八十枚以上。

そしてその絵のタッチは、成長した部分も多いが、あいつのものと完全に一致していた。


そして、その絵に添えられている文章は、決まっていつも源実朝の和歌と、その現代語訳だった。


あいつらしいな、と思う。

源実朝を誰よりも愛していたあいつは、風景を描くのが好きだった。


完成度の高い絵ばかりのそのアカウントはたちまち有名になり、鎌倉の観光誌で紹介されていた。それを偶然見つけた俺は、次の日曜日の十二時に間に合うように鎌倉にやって来て、今に至る。


あと一分で十二時。大銀杏の下で、辺りを見回す。

投稿されたらすぐに確認できるように、スマホの電源を入れる。


やっぱり、広すぎるよな。いくら鶴岡八幡宮やその周辺に絞れたからといって、今そこに居るとは限らない。でも。


俺は、約束を果たさなきゃいけないんだ。

いや、違うか。これでは、まだ俺があいつとの約束に縛られていることになってしまう。

俺は、俺自身の為に、お前との約束を果たしたいんだ。

だから、ちゃんと練習してるよ。お前のやつに負けないように。


時間になった。

ピコン、という音、振動と共に、画面に新しい投稿がされた通知が表示される。

タップすると、いつも通り素晴らしい風景画が表れた。でも、それだけじゃない。

今回投稿された絵には、俺の目の前にある大銀杏が描かれていた。


画面内の大銀杏と実物を見比べていると、背後にふと人の気配を感じた。そして、確信する。

そっと振り返ると、口にした。

「お前は凄いよ。こんなクオリティの高い絵を、毎週投稿するとか。」

「違うよ。これからはいつだって、次回作が最高傑作さ。ここに天野がいるのなら、間違いなく。」

ずっと待ち焦がれていた、リアルタイムで進んでいく会話。思わず、笑みが溢れる。

「そうだな。やっと、約束を果たせる。」

「ずっと、未完成だった。天野が、完成させてくれよ。」

「当たり前だよ。その為に来たんだ。」

止まっていた時間は、ようやく進み始める。


 *  *  *


次の日曜日、例のSNSアカウントで投稿された絵には風景だけではなく、人物も描かれていた。

そして、その絵には次の和歌が添えられていた。



君ならで 誰にか見せむ わが宿の

軒端ににほふ 梅の初花

             源実朝


訳:あなたでなくて、一体誰に見せようか。私の家の軒端で匂う、今年初めて咲いた梅の花を。


出典:新和歌集・春


脚注:紀友則の「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」を本歌とする。


[終]

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君ならで 未麟 @minasemirin

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