第6話 初戦闘

 ドアの奥には……。


「うぅ……っぷ」


 ……惨状が、広がっていた。


 きっと、元は先程の部屋と同様に、真っ白な部屋だったんだろう。けれど、そんな白は……。赤黒い液体で塗り潰されていた。


 一度に襲いかかってくる、噎せ返るような生臭さに、僕は強烈な眩暈を覚える。

 絶対にこれ、肺に入れちゃダメな臭いだ……。


 立ち眩みに耐えきれず、そのままバタリと尻餅をついた。

 あわあわと、口が勝手に動いてしまう。


 恐怖だ。恐怖に、支配されている……。


「見るな……!」声を張り上げたよく笑う男、市井さんは、拳を強く握りしめた。体を、ぷるぷると震わせている。「君達には……まだ早すぎる……」


「……き、気持ち悪っ。うぅ……」と言いながら、ギャル女、もとい天菜が、振り返り口元を手で覆い隠した。「やっぱ……来るんじゃなかった」


 強がっているようだが、分かりやすい震えた声だった。


 ……ユズハは、平常運転だ。やっぱ、この子はあまりにも不気味だ。


「……この血の量。相当人が死んだはずだ。一体、ここで何が……」


 部屋の中央まで歩み、屈んでいた市井さんは眉間にシワを寄せ、悔しそうに唸る。

 そんな彼を嘲るように、ジジッとまたもノイズ音が鳴った。


「あっららー! すみません、前のお方の物がそのままになっていましたねー。それじゃ……リセット致しますね!」


 瞬間、視界が歪んだ。

 ぐにゃりぐにゃりと、原型も留めぬほどに。それと先程の景色が、臭いがフラッシュバックして。酔いに、喉まで何かが込み上げた。


 ……吐くなよ、僕。


 堪え、堪える。

 すると――。


「グ、グギィイイ……?」


 ――そこは、真っ白な部屋だった。


 部屋の中央。

 市井さんのすぐ前に、僕よりも一回り小さな、小穢い緑色の化け物が突っ立っている。


 そいつは低く唸ると、不気味に笑ってみせた。……見るだけで、体が震え上がるような顔だ。


「な、なんなのよアイツ……」


 天菜は涙目になると、咄嗟に僕の両肩を掴み、そして僕の背後に隠れた。

 ……多分相当怖いんだろう。耳元で、「ひぇぇ……」と微かな悲鳴をあげている。


 けどすぐに、自分が何をしているのかに気づいたのか。


「ご、ごめん! これは違くて、えっと、なんいうか、その……っ!」


 なんてあたふたし始めた。

 そんな場合じゃないでしょうが……なんて思うが、無理もない。


 女の子にこの化け物の姿は……あまりにも強烈だろう。

 まあ、ユズハはじっと興味深そうに眺めているんだけど。


「名付けて第一の試練です! みっなさーん、こんな雑魚ちゃっちゃとぶっ殺しちゃってくださいね? こいつを殺さないと……先に進めませんからね! それじゃ! やっておしまいなさい、ゴブリン!」


 言うだけ言って、アナウンスはまたもぶつりと途切れる。

 それを合図に、目の前の小穢い緑の化け物――ゴブリンは、棍棒を高く振り上げた。


「グォァアアアアア!!」


 ……いやいや、ゴブリンってさ、ほら、もっと可愛くて、それで、弱いんじゃなかったのか……? こんなの、話が違うって……。まじで……。


 咆哮に体を縛り付けられ、瞬きさえも許されない。

 ごくりと、つばを飲む。


 僕は息を止め、じっくりと僕らを見渡すゴブリンを見つめていた。


 市井さんは顔を引きつらせ、ゆっくりとゴブリンから遠ざかっている。

 これには流石のユズハも怯えたようで、そそくさと部屋の隅に逃げていった。


 一方の僕らはといえば――。


「おい、離せ天菜! これじゃ逃げられない!」


「ご、ごめ……ん。私、やっぱムリ……。お願い……助けて……。見捨て……ないで……」


 歯切れ悪く、天菜はそう言う。バカみたいに、震えた声だった。掴まれている両肩に、指が食いこんでくる。そして、体の震えが、伝わってくる。


 ……そりゃ、そうだよな。

 急に殺し合えとか、怖いに決まってる。相手がこんな化け物じゃ、尚更だ。


 でも、でも。

 このままじゃ……まずいだろ……。


 いい獲物を見つけた、とでも言わんばかりに、ゴブリンはニタリと不敵な笑みを浮かべ。棍棒を手でぺちぺちしながら、一直線に僕らの方へと向かってくる。


 早く逃げなければまずい。

 このままじゃ、為す術もなく殺される。

 

 頭では分かっていた。


 けれど僕は、逃げられないでいた。


 天菜に体を拘束され、逃げようにも、体が動かなかったのだ。

 少しずつ近づいてくるゴブリンに、歯をガタガタと震わせる。


「ああ……よせ、ダメだ天菜。このままじゃ本当に死ぬ……」


「やだっ……。守ってくれないと……やだっ……」


 もうダメだこれ、完全に堕ちてる。完全に恐怖に染まってる。

 どうする? 天菜を振り払って逃げるか? いいや、それは有り得ない。だったら、どうすればいいんだ……?


 ドクンッと、心臓が強く脈打った。


 ……ダメだ、やめろ。恐れんな……。立ち向かえよ、僕。


 助けを求められている僕が……。

 男である僕が恐怖に染まって、どうすんだ。


 張り詰めた空気の中。

 僕は一気に、すーっと息を吸い込んだ。


 恐怖だとか、躊躇いだとか。

 何もかもを、飲み込んで。


 僕は、拳を握りしめる。

 そして、ギュッと目を瞑る。


「結花……。お兄ちゃん、頑張ってみるよ」


 暗闇の中、結花の笑顔が浮かび上がった。


 ははっ……。僕は何回、この笑顔に勇気づけらてんだ。


 そしてガッと、勢いよく目を見開く。


「天菜……君は、なるべく遠くへ逃げろ」


「……え? ひう……っ!」


 戸惑う天菜を振り払い。

 僕は、走り出したゴブリンを睨みつけた。


「ウグァアアアアアァアアア!!」

「うぉおおおおおおお!!」


 己を奮い立たせるように雄叫びをあげながら、僕は一直線にこちらに突っ走ってくるゴブリンに向かい、固めた拳を振り上げる。拳にはなぜか、強烈な光が溜まっていた。

 それを合図に、体から力が湧き上がる。


 恐れるな……。

 負けるな……。


 僕は、僕は――。


 結花のためならば。


 ――いくらだって、強くなれるはずだから……!


 ゴブリンが振り下ろした棍棒を紙一重で躱し、僕は流れるように顔面をぶん殴る。それによろめいたゴブリンを見ながら、拳に確かな痺れを感じていた。


 やれる……。僕なら、やれる……。


 言い聞かせるように、更に僕は追撃をかける

 がしかし、そう簡単に。一筋縄にいくものではない。


「グギィイイ!!」


 ゴブリンは悲鳴とも取れる叫びを上げると、咄嗟に地面を蹴り、僕に体当たりを一発かましてくる。


「ゔっ……うっぇ……」


 痛みに悶ながら、そんなゴブリンの体を掴んだ。

 がっしりと、離さぬように。


 続けざまに思いっきり、ぶん投げる。


 吹っ飛んだゴブリンは唸り声をあげると、手から棍棒をぼたりと落とした。

 けれど、それでもまだ、終わらない。


「グギィ、グギギギ!!」


 ゴブリンは歯を見せ僕に威嚇をすると、棍棒を掴み、そして――。


「逃げろッ!! 天菜!!」


 ――天菜に向かって、走り出す。


 天菜は、自分の身に起きている状況をあまり理解できていないようだった。


「え、え、え……?」


 と慌てふためき、あちらこちらに視線を流す。

 ダメだ……まじで、頼むから……。


 逃げて……くれよ……。


 足に、ギュゥウと力が溜まっていく。そして僕は、勢いよく、地面を蹴った。


 体が、勝手に動いていた。

 がむしゃらに。ただ、何かに突き動かされるように。


 ……あーあ。多分僕、死んだわ。


 呆然と、まるで俯瞰で世界を見渡すような感覚に、襲われる。

 視界には、僕の手が映っていて。手の先には、呆然と立ち竦む天菜の姿があった


 何もかもが、霞んで見えた。

 天菜の悲鳴が、ゴブリンの咆哮が、少しずつ耳から遠のいていく。


「ごめんな……結花」


 そして、僕は。

 天菜を突き飛ばし、ゴブリンの棍棒を――。


「させるかぁあああああああ……!!」


 その声と共に、頬にズキリと刺激が走る。


 ――食らわ、なかった……?


 すぐに、現実に意識が連れ戻される。

 市井さんだ。市井さんが……助けてくれたんだ。


 視界には、ゴブリンを突き飛ばす市井さんの姿が映っている。

 ……この人のおかげで、棍棒の軌道がずれたんだ。だから、頬を掠めるだけで済んだ。


 ははっ。……ヒーローすぎるって、全く。


 棍棒を手から離しぶっ飛んでいくゴブリンを見て。

 市井さんは振り向き、僕に笑みを飛ばした。


「お前の勇気は、人を動かすな……! ガーッハッハ!!」


 全く……。

 やっぱり僕はこの人の元気さに、憧れる。


 すぐさま僕らは走り出す。

 市井さんは、起き上がろうとするゴブリンを阻害した。

 それを見て、僕は彼らを通り過ぎ。


 ゴブリンが手から離した棍棒を、拾い上げる。


「グ、グギィ……」


 それを見て諦めたのか、ゴブリンは悲しげに唸ってみせた。

 けど、でも……。


 これは、僕らが生きるためだ。


 ゴブリンを地面に押さえつける市井さんはこちらを見ると、目を逸らしながら言う。


「覚悟が出来ないなら……俺がやるぞ……」


「いえ、大丈夫です……。これは、僕が――」


 結花の笑顔が。裏路地にいた不良の姿が。

 脳裏に、浮かぶ。


 そして。

 現実世界で抱いていた憎悪が、ぶわぁっと体の奥底から湧き上がった。


 全部全部、もうダメだって諦めていた。

 けど、僕は、ここに来た。


 そして……機会を、与えてもらった。


 これは。

 その始まりだ。


 これは、これは……。

 僕が……。


「僕が――」


 天高く、棍棒を振り上げる。


「――前に進むための、一撃です」


 そして、目を瞑るゴブリンに向け、振り下ろした。


 何度も、何度も何度も。

 ゴブリンが、息を引き取るまで。


 やがて目の前の血だらけの生き物は「グギィ……」と、断末魔の叫びさえ上げず。

 儚く、光の粒になって消えていった。


「よくやったな……少年……。いいや、ミナト」


「貴方のおかげですよ、市井さん」


 こうして、僕らの初戦闘は幕を下ろした。



【あとがき】

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