■ 「出雲神話」は日本書紀から除かれた

我が国の古代史と言えば『魏志倭人伝』を思い浮かべる方も多いと思う。

当時の日本には文字が無かったので、古くは中国の書物に頼らざるを得ない。

魏志倭人伝を忠実に読むと、『邪馬臺ヤマト国』の存在する位置は九州の遙か南の海上となる。大陸からの行程について、「一月」が「一日」の書き間違いであれば「九州説」、或いは「南」を「東」と読み替えれば「畿内説」などと、思わず笑ってしまうような議論が昔からなされている。

そもそも中国の役人が海の彼方の野蛮な国について、それほど真面目に報告書を書

いたとは思えない。倭国の「倭」は醜い人を表した当て字であり、卑彌呼の「卑」

は卑しい、邪馬臺は「邪」の意。我が国を馬鹿にしていたのは一目瞭然ではないか。

私たちは学校で『邪馬台国』と教えられてきた。これは「ヤマト」を中国が「邪馬臺」と当て字したものを、日本では常用漢字の「台」に置き換えて、ご丁寧にも

「やまたいこく」と仮名を振ったのである。これでは本末転倒としか言いようが

無い。


それから四~五百年の時が経ち、我が国初めての歴史書「古事記」と「日本書紀」が編纂された。共に天武天皇の発議による。

日本書紀は七二〇年、元正天皇の時代に舎人親王の手によって奏上され、古事記は

それに先んじて七一二年、元明天皇の命を受けた太安万侶によって奏上されている。

では何故に、同じ時期に同じ時代の歴史書が別々に編纂されたのだろうか。

我々は日本書紀は正史として海外に向け漢文で、古事記は国内向けに和文で書かれていると教えられてきた。ならば同じものを漢文と和文で記せば良いはず、しかしその中身は微妙に異なっている。大きな違いは二つ、

① 古事記には「出雲神話」が記載されているが、日本書紀からは割愛されている 

② 日本書紀は持統天皇期まで記載されているのに対し、古事記は推古天皇期で

  打ち切られている

推古期と持統期の間に起きた大きな事件と言えば「乙巳の変」、殺された蘇我入鹿は出雲の出自であった。ここに何かが隠されているのではないだろうか。


我が国の歴史を考える上で、ベースとなるのは『島国』ということ。古くは北海道

はサハリンと、九州北部は朝鮮半島と繋がっていた。日本の周辺には4つのプレートが折り重なっており、盛り上がったところが日本、ずり落ちたところが日本海、ざっくり言えばそんなところであろう。

日本海は大きな湖のように、越(高志)を中心に西は出雲から北は蝦夷まで水運に

よって繋がっていた。更には琵琶湖を介した畿内を含め、三つの国が交わるところが三国みくに(東尋坊のあたり)である。

越前、越後とは三国を越す手前と後ろのこと。越には愛発あらちの関があり、これに不破(岐阜)と鈴鹿(三重)の関を加えて『三関さんげん』という。これが当時の『この国』の

防衛ラインである。峻険な山脈と三関によって仕切られた東側は『東国』(関東)と呼ばれた。


大和朝廷には一つの皇統の中に二つの血脈が存在していたように見受けられる。

一つは卑彌呼が没した後、日向の臺與(渡来系の民族)が筑紫ヤマトを乗っ取り、

出雲や安芸、吉備などを併合しながら瀬戸内海を東に進んだ。紀伊半島を南に回り

熊野を通って大和(奈良)に入り、葛城氏など後に『臣』を姓とする在地豪族と

組んで王権を打立てた、神武から天武天皇に通ずる血脈。

もう一つは、出雲に土着していた武内宿禰ら蘇我氏の一族が日本海を通って越前に

渡り、琵琶湖を経由して近江・難波に根付いていた大伴や物部ら『連』姓と共に

王朝を構成した、応神、継体から天智天皇に通ずる血脈である。

この二つの血脈がある時は手を携え、ある時は皇位を巡って争いを繰り返していた。


天武天皇の意図したところは、大陸と対等に交易を行う為にはこの国が正統な歴史

の上に成り立っていることを示す必要があったということ。更に海に囲まれた限り

ある島国にとって、民が平和を愛し自分の国を誇りに思うような歴史であることが

求められた。

そこで神武天皇の「東征」に、神功皇后(応神天皇の母)の「三韓征伐」を重ねる

ことで二つの血脈を一つであるように歴史書を編纂した。そこには伝承にある神々

を天皇家の祖として『万世一系』、長期に亘り平和な統治が続いている様子が記されている。


しかし天武天皇が皇位を手にしたのは、天智天皇の皇子・大友を滅ぼした「壬申の乱」、その天智も「乙巳の変」で皇統の祖である蘇我氏を滅ぼしている。

この国の『万世一系』を確かなものとするには「ヤマト」と「出雲」の対立の過去を消し去り、一つの皇統が続いているように見せかけねばならない。そのため歴史書を二つに分けて、古事記には国の成立ちを示す出雲神話を掲載するが乙巳の変が起きる前で止め、日本書紀は国の正史として乙巳の変を記述する代わりに出雲の存在自体を消したのではないだろうか。


天武天皇が崩御すると皇后・鵜野讃良(四十一代・持統天皇)が即位した。皇位を

継ぐ予定であった草壁皇子が早世したため、孫の珂瑠かる皇子に譲位するまでの繋ぎである。やがて天武天皇と天智の皇女・鵜野讃良の血を引く珂瑠(四十二代・文武天皇)によって長く対立する二つの血脈が統合された。これが天武の願った争いの無い平和な国の第一歩である。

この時、一つだけ手が加えられた。高天原から地上を治めるべく降臨したニニギは

アマテラスの孫と位置づけられた。この天孫降臨の加筆は鵜野讃良をアマテラスに、珂瑠皇子をニニギに重ねることで、他の皇子を差し置いて孫の珂瑠に譲位することについて神代に前例を設けて正当性を裏打ちしようと考えたものであろう。


私たち日本人は『古事記』や『日本書紀』をもっと大切にしなければならない。

海に囲まれた逃げ場の無いこの国は何よりも自然の脅威を恐れ、人間の力では制することのできない自然を神々と並べて崇拝した。災いに見舞われた時には神の怒りを鎮めるべく祭(祀り)を奉納し、民の心を一つにして苦難を乗り越えていく。

民の間に争いが生じれば代表を立てて雌雄を決する。大将が討たれればそこで勝負は終わり、勝った方は敗者を思いやる。いよいよ闘いが長引けば、双方が滅びることになる前に、神の子孫である天皇のみことのりによって和睦が結ばれる。

天武天皇の思いを汲んだ『万世一系』、天皇家を神々の子孫として位置づけることでここに平和な国・日本の『いしずえ』が築かれた。

日本人は穏やかで道徳心が高い、と世界中が認めてくれている。これは古事記や日本書紀に記された古の歴史を礎として、一千年以上にも及ぶ長い期間をかけて醸成された賜と言っても過言ではない。世界に自分ファーストが横行する中で、私たちはもう一度、日本人としてのアイデンティティを見つめ直してみてはどうだろうか。



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