(四)相撲の土俵はなぜ丸い

大相撲が始まった。新横綱照ノ富士の土俵入り、その“せり上がり”は迫力満点だ。

怪我をしないで十五日間、土俵を務めてもらいたい。


相撲の見所は取組みだけに限ったものではない。

「かたや○○、こなた△△」、呼出しに促されて東西から力士が土俵に上る。

土俵上では行司によって戦いの前の“名乗り”の儀式が行われる。神に祈って柏手かしわでを打ち、土俵を塩で清め、仕切り線に手を突いて正々堂々と立ち合う。武士の作法を凝縮したものであろう。

弓取り式も面白い。ぶんぶんと激しく弓を振り回して四股しこを踏む。飛来する矢を弓で払って領地を守っているのだ。その後の所作を覚えておいでだろうか、大地を耕し地面をならして稲や樹木を植えているように見える。

行司は神の採択を告げる重要な役を担う。最高位は立行司、現在は木村庄之助と式守伊之助の二人である。行司の装束しょうぞくは階級によって異なるというが、私の勝手な憶測だが、昔は神主と同じく白絹だったのではないだろうか。仏教の普及に伴って神仏習合、色とりどり袈裟けさの要素が加わったと考えれば腑に落ちるのだが。


中でも横綱は特別な存在である。

神社や御神木には注連縄しめなわが張られている。これは神の領域との結界を示すものであり、即ち腰に巻かれた『綱』は横綱に神が宿っていることを表わしている。

その横綱が立合いで相手の顔を張ったり、勝負が付いた後にダメを押すなど、神が民に対して行うことではない。行司の軍配が不満で土俵下から睨み付けるなど以ての外である。立行司は装束の下に短刀を帯び、“差し違え”即ち、神のお告げを誤れば切腹も辞さぬとの覚悟で臨んでいるのだ。

最近の相撲は神事であることが忘れ去られ一格闘技に成り下がった、そう嘆いているのは筆者だけではあるまい。


ここまで言うとモンゴルの先輩横綱を非難しているように聞こえるかも知れない。

しかし、それは本意ではない。子供の頃から遠く日本まで来て、特異な環境の中で頑張って頂点にまで昇りつめたことは称賛に値する。

問題は、相撲が神事であることを理解させないまま横綱にしてしまったことである。力士の指導は親方の役目、しかし親方と呼ばれる方々も力士上り、“体”や“技”の鍛錬ならともかく、神事について教育できるだけの見識を十分にお持ちなのだろうか。

相撲協会は親方からなる理事会にて運営されている。企業で言えば経営会議のようなものか、だとすれば取締役会に当たるのが評議員会であろう。ところが今の評議員は、国会議員や大企業の役員などの天下りポストになっているとしか見えない。

相撲協会が公益財団法人であるならば、評議員は全国の神社を束ねて神事を司っている方々や、会計士・弁護士などの有識者で構成して頂くことが望ましいと思うのだが。


土俵は“輪”、即ち、民が平和に暮らす集落 “和”や“環”を表わしている。

我が国は海に囲まれた小さな島国である。争いが生じた時は代表を選んで雌雄を決すれば良い。大将が討たれれば勝負は終わり、勝者は敗者のことを思いやる。

限りある国土の中で民が平和に暮らしていけるよう、『万世一系』、一千年を超える時間をかけて醸成された日本の“心”である。

我が国の在り方を“神事”として分かりやすく伝えているのが『相撲』

だから土俵は丸いのだ。


 <追伸>このコラムは以前に投稿していた「出雲神話と古代史の真理」の中で紹介

   したものです。出版に際し小説と共に削除していましたが、この場を借りて

   復活させました。

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