人、マス進む
@takuro-
第1話 食卓
「ほんと、許せないよね」
妻のその言葉に水谷修の箸の動きがぴたりと止まった。水谷修はまさに今、晩御飯のおかずであるトンカツを口に入れようとしていた。
許せない?
自分は何か妻の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうか。水谷修は家に着いてからの自分の行動を振り返ってみた。スーツはハンガーに掛けてクローゼットにしまった。一日中履いて嫌な匂いがしそうな靴下も洗濯カゴに入れた。手も石鹸で入念に洗った。足もだ。もしかして食事の食べ方がいけなかったのだろうか。
「何が?」と、顔を上げた。
顔を上げるとダイニングテーブルの向かいに座る妻、水谷彩香は横顔を向け、怒ったような悲しいような表情で部屋の壁際に置いてあるテレビを睨んでいた。水谷修もつられてテレビに目を向ける。テレビではちょうど7時のニュースを放送していた。映し出された女性アナウンサーが深刻な、あるいは無表情とも思える表情で時折原稿に目を落としながらニュースを伝えている。ニュースを見て妻が何を許せないのか理解できた。
「また犯人捕まっていないんだ」
水谷修はトンカツをつかんだ箸を下ろした。
そのニュースは水谷修が住んでいる街で立て続けに起きている通り魔事件についてのことだった。最初に被害者が出たのは6月の中旬のことだった。夜の10時頃、職場から帰宅途中の20代の女性が人通りの少ない路地を一人で歩いていたところを何者かに後ろから羽交い締めにされ刃物で切りつけられたのだ。たまたま通りかかったジョギング中だった男性が倒れている女性を発見し、女性はすぐに救急車で病院に運び込まれた。女性はわき腹を刃物で刺され重傷だったのものの命に別状はなかった。警察は犯人の捜索にあたったが目撃者がおらず、付近の防犯カメラからも有力な情報は得ることができなかった。
二週間後、次の事件が起きた。今度は女子大学生が被害者となった。被害者は駅前の居酒屋で大学のサークルの飲み会に参加した後、深夜0時過ぎに帰り道が同じ方向の友人数人と共に帰路に就いた。被害者が住むマンションが近くなったところで友人と別れ、路地を一人で歩いているところを後ろから襲われた。女子大生も路上で倒れているところをすぐに発見され病院に搬送され治療を受け、命に別条はなかった。
警察はこの二つの事件を受け、連続通り魔事件の疑いがあるとし、捜査本部を設置して捜査にあたった。夜間のパトロールの強化や周辺の聞き込みなど捜査を続けているが犯人逮捕には至っていない。
立て続けに起きた二つの通り魔事件、それには共通点があった。それは警察への取材でわかったことなのだが、犯人は被害者を羽交い締めにした後、ナイフを目の前でちらつかせながら、耳元で囁くのだそうだ。
「謝れ」と。被害にあった女性達は二人とも恐怖のあまり言われるがままに謝ったそうなのだが、結果刺された。二人とも命は助かったが、もし謝らなかった場合はどうなのるか、マスコミはこのことを必要以上に騒ぎ立て、連日朝も昼も夜もこの事件についての報道を繰り返した。
「ほんと、許せないよね」
水谷彩香は水谷修の方に向き直って同じ言葉を続けた。
「許せないというよりひどい事件だ」
「謝れって何に謝るの?襲われた人たちは悪いことしてたのかな?」
「それは僕にもわからないけど」
「謝るのは犯人だよね。『このような事件を起こしてしまい申し訳ありません』って。まぁ謝ったって許してやらないけどね。なんで襲われた人が謝らないといけないわけ?人を馬鹿にしてるよ」
水谷彩香はそう言って千切りにしたキャベツを箸で山盛り口に入れ、怒りも一緒にずたずたにして消化するかのように千切りキャベツを何度も噛み砕いた。水谷修も箸で摑んだままだったトンカツを口に入れた。トンカツを咀嚼しながら、いきなり通り魔に襲われる自分を想像しようとしてみた。
夜道。一人で歩く自分。背後から迫る足音。なんだ?と思い振り向こうとしたその時、体の自由を奪われ目の前に突きつけられるナイフ。そして耳元で荒い息遣い共に聞こえる声。
「謝れ」
想像として場面はイメージできるがどうしてもそれが他人事のように思えてしまう。今の想像もドラマを見ているかのような第三者からの視点でのイメージしかできなかった。自分には無縁のことなんて絶対に言い切れない。明日何が起こるかなんて誰にもわからない。それはわかっているのだけれどどこかで自分は大丈夫だろうと何の根拠もなく思ってしまう。実際何も起こらないことが日常で日常はこれまでそうやって続いてきたのだ。それが明日突然終わるなんてすぐには想像できない。水谷修は目の前に座る妻に視線を移した。
水谷修が水谷彩香と結婚してから今年三年目になる。二人とも28歳の同い年でまだ子供はなく、2LDKの賃貸マンションに二人で住んでいる。このマンションは駅から徒歩15分という決して駅から近いとは言えない場所に位置している。結婚前に二人で住むマンションを探す際、毎朝電車で通勤する水谷修は少しでも駅に近いマンションに住むことを主張した。水谷彩香も駅前にある会社の事務職として働いているため駅に近い場所に住むのに異論はないはずだと思った。しかしいざ物件を探しに二人で不動産へ行き、駅から近いマンションという希望を伝え、PC画面上で物件を紹介してもらっていると突然
「私ここがいい!」と水谷彩香が言った。「これ?」とPCに表示されている物件情報を指差し「これは少し家賃がなぁ」と水谷修が振り向くと水谷彩香はPCを見ていなかった。水谷彩香の人差指は接客を受けているカウンターに設置された仕切り用のパネルに貼られたれ物件情報紙をまっすぐ指差していた。そこには外壁がレンガ風の瀟洒なマンションの紹介があった。
「修君、絶対ここにするべきだね」
「いや、でもこれ駅から結構遠いよ」
水谷修はそのマンションの住所を読み上げた。
「でもすごくかわいいし、周りも静かそうだよ」
「家賃も少し高いような」
「そこは支店長代理の腕の見せ所だよ」
水谷彩香の言葉にカウンターの向こうにいる50代くらいと思しき男性社員は困った様な作り笑いを顔に浮かべた。その社員の首からかかっている名札には「支店長代理」という肩書きが書いてあった。
結局水谷修達はその日のうちにそのマンションに見学に行き、契約書にもサインした。家賃もしっかり5千円まけてもらえたので驚きだ。妻に押し切られる形でこのマンションを契約したものの、住んでみると徒歩15分の道のりも日頃の運動不足の解消になるると思えばちょうどいい距離だし、実際マンションの周りは静かでスーパーも徒歩圏内ある。コンビニだけは少し遠いがスーパーが近くにあるのであまり気にならない。今は水谷修もこのマンションを気に入っている。
部屋にある家具家電もほとんど水谷彩香が選んだものだ。元々水谷修はインテリアにほとんど興味がないこともあって水谷彩香が雑誌やネットから情報を仕入れ自分好みの部屋に仕上げている。今使っているダイニングテーブルも彩香がお気に入りのメーカーのものらしいのだが水谷修には全くわからない。しかし妻が大事そうにダイニングテーブルを拭いたり、せっせと部屋の片付けをしている姿は、小学生が初めて育てるアサガオを必死に世話しているようで、そんな妻を見て水谷修は小さな幸せを感じるのであった。
もし、本当にもし絶対にあってはならないことだけど、もし妻が・・・
いや、やめよう。縁起でもない。水谷修はコップに半分ほど残っていたお茶を一気に飲み干した。
「修君。私は謝らないでおくね」
よしっ、決めた、とでも言うかのようなきっぱりとした口調だった。
「何が?」
「だから、もしね私が通り魔の犯人に襲われて「謝れ」なんて言われても私は謝らないからね」
「一応聞くけど、それはなんで?」
「だって私、人様に謝らないといけないことなんてしてなんだよね」
水谷彩香は得意げな顔で言った。
「そういう問題かなぁ。それなら被害に遭った人たちもそんな夜道でいきなり襲われるような悪いことなんてしてないんじゃないのかなぁ。」
「そう!それ!」
水谷彩香は人差し指を水谷修に向けた。
「きっとその人達も悪いことなんてしていなかったはずだよね。それをいきなり「謝れ」だなんて失礼な話だよ。みんな真面目に一生懸命生きているだけなんだよ。だから私は通り魔に教えてあげてやろうと思うんだよね「謝るのはあんただろ!何やってんだ!」ってね」
「いやいや、そんな危ないことはしないでくれよ。もし危険な目に遭いそうになったらすぐに逃げるか、助けを呼んでよ。そんな通り魔を説得するようなことなんてしなくていい」
水谷修は妻なら本当にやりかねないと慌てて説得した。
「だから、もしそうなったらって話だって。それに私が危ない目に遭いそうになったらきっと修君が助けにきてくれるんだよね?」
夫の反応を確かめるかのように見つめてくる妻の目を見て水谷修は急に恥ずかしさを覚えた。
「もちろん」と顔を赤くしながら答えた。
「ありがと。信じてるね」
と水谷彩香は優しく笑った。
「あっ」と水谷彩香が素っ頓狂な声を出した。
「どうしたの?」
「そういえば冷凍庫にアイスあるよ。しかもハーゲンダッツ。ストロベリーとクッキアンドクリームの二種類です。どっちがいい?」
突然の話の変わり様と妻の心底嬉しそうな顔を見て水谷修も思わず頬を緩めた。さっきの話はアイスがあることを思い出せば終わりになってしまうぐらいの冗談だったのか、と水谷修は冗談を真に受けてしまった自分を恥ずかしく思った。
「クッキーアンドクリームかな」
「むむ、修君、奇遇だね。私も今日はクッキアンドクリームが食べたい気分なんだ。これはじゃんけんだね」
水谷彩香が拳を突き出した。
食後、水谷修が二人分の食器類を洗い終えるとテーブルにはハーゲンダッツが置かれた。じゃんけんに勝った水谷彩香が美味しそうにクッキアンドクリーム味を食べている。
「ストロベリーも美味しいけど、目の前で食べられると無性にクッキアンドクリームが食べたくなるなぁ」と水谷修はぽつりと言った。
「そういうものだよね。明日また帰りに買ってきてあげるよ」
「別に明日じゃなくてもいいよ」
「でも食べたいんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ明日また食べよう。1日の終わりのささやかな幸せっていうの?なんかいいじゃない」
水谷彩香はそう言ってアイスクリームを掬い口に運んだ。
「あ、そういえばネットの記事で見たんだけどハーゲンダッツのコンビニ限定商品があるみたいだよ。修君、明日はやっぱりそっちにしようか?」
「クッキーアンドクリームは?」
「それは、まぁ明日じゃなくてもいいでしょ」
「でもコンビニ寄るってなると遠回りにならない?この辺って何故かコンビニだけはないんだよなあ」
「大丈夫大丈夫。私に任せて。アイスのためならどこまででもだよ」
「どこまでもって・・・でもあんまり遠いとこまで行くと帰る途中で溶けるね」
「あはは、ほんとだね」
水谷彩香は声をたてて笑った。そのなんとも楽しそうな表情を見て水谷修も笑みが溢れた。
「今度のお休みさ、久しぶりに『すずらん』に行こうよ」
水谷彩香がアイスを口に運びながら言った。
「いいよ。久しぶりに行こう」
そこは二人が最初のデートでたまたま立ち寄った喫茶店だ。そこで二人が注文したコーヒーがとても美味しかった。そのことが水谷修には二人のこれからの明るい未来の前兆なのでは?と思えた。実際二人はそれからもデートを重ね、結婚に至ったので水谷修の予感は当たっていたと言える。『すずらん』はその後も何度も行っていて、今ではその店の店長も顔馴染となっていた。顔馴染みと言っても店長がべらべら喋りかけてくることもなく、あくまで水谷夫婦の二人の時間を大切にしてくれることもお気に入りのひとつだった。
「じゃあ決まりだね。今週はそれを楽しみに仕事を乗り切るとしますか」
水谷彩香はそう言って椅子から立ち上がった。
「もう食べ終わったの?」
「当たり前じゃん。食べ切れないなら私が手伝ってあげようか?」
「いや、結構です」
水谷修は少し多いくらいのアイスをスプーンに乗せて頬張った。
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