第5話

「ごめん……ごめんなさい……生きていてごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい……汚くてごめんなさい……欲深くてごめんさない……汚らわしくてごめんなさい……ずるくて……卑怯で、ごめんなさい……ごめんなさい……恥知らずでごめんなさい……自己中心的で……矮小で……ごめんなさい……ごめん、ごめんなさい……醜悪でごめんなさい……クズでごめんなさい……」

 腕の中の彼女に意味のない謝罪を繰り返す。ただの自己満足でしかないと分かっていても他の表現の方法を知らなかった。それとも私はこんなことをせずに今すぐ消えてしまった方がいいのだろうか。

 けれどこんな状態の彼女をどうして放っておけるだろう。

 私のせいでひどく傷ついてしまっている彼女を置いて、その責任をなにも果たすことなく消え去ってしまうことはそれこそ自己満足としか思えなかった。

「―――生きる資格もないのに生きていてごめんさない……ごめんなさい……触れてしまってごめんなさい……汚してしまってごめんなさい……ごめんなさい、」

 結局私はひどく下らない謝罪を垂れ流すばかり。そして、ああ、そうとも、目覚めた彼女がこれを目撃した時になんと言うかを知りながらこんなことをしているのだ。

「しー……しーの口から、そんなの、聞きたくないよ」

 彼女の優しい声が腕の中から届く。震える指先が私の頬に触れる。いけないと思った。私なんかに彼女が触れてはいけない。けれど避ければ彼女が悲しむだろうかと思えばそれもできず、ただただ陰鬱に胸を沈ませる後悔で唇を噛んだ。

「おはよう。ごめんなさい……サクノ」

「おはよ。ずっと抱きしめてくれたの?」

「怖かった、から」

 気が付いたのは彼女が反応を示さなくなってどれほど経ってからだったろう。小さく呻く彼女が生きていることは分かっていた。それなのに、次の瞬間には息の音が止まってしまうのではないかと恐ろしかった。上下する胸と鼓動を感じていないと不安でたまらなかった。

 そんな私を、彼女はからからと笑う。

「おおげさだよ。ちょっと眠ってただけでしょ。……やまあ、死にそうっ!とか思ったは思ったけど」

「ごめんね……ごめんなさい……」

「わっ!や、そういうんじゃなくて!あ、あんなにいっぱいきたのってハジメテだったから……その……なに言わせるんだよぅ!」

 ぽこすかと胸を打つこぶし。一瞬どういう意味か分からなかった。けれど恥ずかしがっているらしい彼女の様子から遅れて意味を察すると、私はやはり胸が苦しくなった。言葉の内容は覚えていないけれど、彼女が息も絶え絶えで私に声をかけていたのは覚えている。あの状況で口にする言葉なんて、十中八九『もうやめて』といった意味のものだろう。彼女は喉も腫れてしまっているようで、声ががらがらと苦しそうだった。

 彼女の頭を優しくなで、私は彼女をベッドへ寝かす。

「なにか飲み物持ってくるね。いろいろ借りるよ」

「いいよいいよ。やるやる」

「お願い。サクノは少し休んでて?」

「んぁー……ん。じゃー、りょーかい。任せた」

「うん。待っててね」

 彼女の許可を受けて、私はキッチンに向かう。瞬間湯沸かしポットのスイッチを入れ、まずグラスに水道水を汲んで彼女に持って行った。

「ありがとー」

「喉、痛いよね。薬とかってある?」

「ないけどー、カラオケの後もこんなだしだいじょぶだよ」

「そっか」

 彼女の頭を撫で、温かい飲み物を用意するためにまたキッチンに戻る。彼女はコーヒーでいいだろうか。痛めた喉にカフェインは問題ないんだったかとそんなことを考えながらスティックをカップに開けた。

 ポットの湯が沸くのを待ちながら、私は吐息を噛んだ。

 彼女の姿が、まぶたの内側に焼き付いている。

 私が思うままにぶちまけて、そのあとに残った彼女の残骸が。

 瞬くたびに吐きそうだった。

 全身に歯形と内出血の痕が散乱したそれは、まるでおぞましい怪物に襲われたかのようなありさまで―――いや、その文言は紛れもなく事実を表現している。優しく愛らしい彼女を、おぞましい怪物である私が嬲り犯したのだ。大仰な表現なんかじゃなかった。そもそも自分がどうしてこの場にいるのかという記憶さえあいまいなのに、彼女の喘ぎと肉の心地、匂いや味もすべて覚えている。そんな欲の塊を怪物と呼ばないでなんて呼べばいいんだろう。

 私は、なんど過ちを繰り返せば気が済むんだ。

 振り返れば全て過ちだった。ノゾミを受け入れたこと。ノゾミの行いをぶち壊しにできなかったこと。サクノを失わなかったこと。コトリに挫けたこと。コトリを脅したこと。全部が全部。それなのにまた、また性懲りもなく私は繰り返している。

 どうしてサクノを抱いたんだ。

 好きなだけ窒息していればいい、そのまま苦痛の果てに死ねばいい。ああして彼女を抱くことで私はなにを得る。ただただ親友と言ってくれる彼女に裏切りを重ねるだけなのに。彼女を傷つけて、それが私のしたいことなのか。

 そんな訳がない。

 私はサクノに恋をしていた、それを失っても私は彼女を愛している。恋なんていう大げさなものがなくたって彼女を愛せる。私にとってサクノがなによりも大切な人だという事実は絶対に変わらない。それを傷つけようなんて、思ったことなどある訳がない。

 ならそんな彼女を、こんな私を親友と呼んでくれる優しい彼女をこれ以上裏切ってなんになる。

 自責を誰かが嘲笑する。

 そんなことは今更だ。

 それがどうした。私は今更でも選ばなければいけない。窒息することになっても、最愛を失うことになっても、今この場で彼女に殺されようとも。

 私が選ばなかった結果がこの地獄だろう。

 弱みを貪り愛を喰らい最愛に吐き出す、そんな最悪の地獄が結果だ。

 これを望んでいた私がかつてにいたか。いる訳がない。いてたまるか。選択しないことが地獄を生んだ、私はそれを嫌というほど知っただろう。十分だ。もう繰り返したくない。もう彼女を傷つけたくない。もう彼女に私なんかを触れさせてはいけない。今しかないんだ。この地獄に浸る前に、この地獄を極楽と勘違いする前に。私は終わらせなければいけない。

 押下したスイッチが飛び出し、ポットが沸騰を終えたことを告げる。

 私は彼女の分のコーヒーだけを持ってベッドに戻った。

「ありがとー!あれ?しーのは?」

「私はいいの」

「ふーん?」

 首を傾げながらコーヒーをふぅふぅと吹くサクノ。

 一口含んでほふぅと吐息する彼女に、私は口を開く。

 肺が震える。

 終末の予感に凍えていく肺を強引に膨らませた。ばきばきと不快な音を立てて広がる肺。鮮烈な痛みが胸をつんざく。きっと声を出すだけで血がにじむ。この息を吐き切る頃には肺はもう二度と機能しないだろう。

 だから私は迷いなく彼女へと告げた。

 この地獄は、取り返しがつかないことでようやく終われる。

「しー」

 彼女の人差し指が私の口を止める。子供じみた囁きで私の言葉は封殺された。

 どうして。

「だめだよ、しー」

「さ、くの、?」

 言葉の意味が理解できない。彼女はなにを拒んだ。勘違いだと言って欲しかった。それなのに理解は容易く脊髄に差し込まれている。反射的にさえ納得できた。

 彼女は今。

 私の告白を、止めたのだ。

 白妙の彼女は、きっと笑みを浮かべている。

「言わないでよ、しー。そんなこと、わたしは知りたくない」

「サクノ、待って、サクノ勘違いしてるよ、きっと、」

 私の言葉はそうであって欲しいという願望に他ならなかった。そして願望は大抵そうでないから生まれるのだ。

 彼女は告げる。

「しー。わたし、しーが誰と寝てるかなんて知りたくないんだよ」

「っ、え、」

 思考が砕け散る。

 辛うじて湧いた『どうして』という疑問が声の形を取れず口の端から零れ落ちていく。次に脳を占めた『いつから』が逃げてしまわないように舌で成形する間に、彼女はひらりと立ち上がるとベッドにコーヒーをぶちまけた。そのまま倒れ込むよう抱き着いてきた彼女は悪びれもせずに私を見上げる。

「ほら、しー。また・・こぼれちゃったよ。そんな話してる場合じゃないね」

 笑みを含んだ彼女の言葉ががらんどうの頭蓋骨の中で反響する。

 また、と、彼女は言ったのか。

 また。

 こぼれた。

 コーヒーが。

 彼女のスカートと、カーペット。

 カーペットの染みが、まだ、取れていない。


 ぜんぶむだだった。


「しー。ねえ、シーツの染みも、取れなくなっちゃうよ」

 彼女をくるんでいたはずの白が、今は自分にまとわりついている。

 なによりも白く美しい彼女が、私の身を白く染めあげていく。

 肺がつぶれる。全ての言葉を封殺するように、声帯を乾かしながら。

 私は震える手で強引に喉を掴み、絞り出すように言葉を作った。

「で、も、だって、こんな、だめ、だよ、私は、私は、サクノを、裏切って、」

「知らないよ。わたし。そんなの」

 彼女の白が、白々しく私の決意を潰す。

 脳が白く染まっていく。世界が白濁していく。

 彼女のささやきが、外耳を咥えた。

「しーならいいんだよ。わたしを好きにしても」

「ぅ、あ、」

「なにも知らないわたしに、しーの全部、ぜぇんぶ吐き出すの、気持ちいでしょ」

 なにが起きているのか理解できない。彼女の口からそんな言葉が吐き出されることが許容できない。彼女はなにもかも知っているのではないのか。なにも知らないなどと、どうして彼女の舌に平然とそんな嘘が乗っている。

 彼女がその身を離した。

 白がまた、彼女を覆い隠した。

「しーなんて、大っ嫌い」

「ひっ」

「ずっと私のこと笑ってたんでしょ。サイテーなんだけど。二度と顔見せないでよ」

「いやっ、やめて、さくの、やだ、」

 ああ、ああ、ああ、

 分かっているのに。

 ここは白い地獄だ。

 今目の前にある彼女は私の認識していたサクノじゃない。

 それなのに、サクノの声で、サクノの身体で、サクノそのもので―――彼女の造り上げた私の認識するサクノそのもの・・・・・・・・・・・・・で拒絶を告げられ、私は簡単に破綻した。ひび割れた場所から白が侵食していく。私の穢れは、もっと色濃い白に呑まれて安らかに死んでいく。

 なんて心地がいいんだろう。

「それなら、しー。このお話は、おしまいだよね」

「えはっ、ひ、ふふ、あはは、は、ふ、ふくっ、く、あは、そうだね、あはっ、そうだね、うん、えへ、へは、ふ、大変、シーツ洗濯しなきゃ。あははははははは。サクノはほんと、ふふ、ドジなんだから」

「えへへ。ごめんよぅ」

 私たちは笑い合いました。

 それから私たちは、ふたりで協力してシーツを張り替えます。

 親友ふたりで協力したので、それはとても楽しい作業でした。

 一仕事終えた私たちは改めて温かい飲み物で一息つきます。

 私は彼女の介抱のおかげですっかり気分もよくなっていました。

 それに今日はおやすみの日だったので、私は彼女にお泊りしたいと提案しました。

 思った通り、彼女はそれを大歓迎してくれます。

 そして私はその日、大好きな親友と夜通し楽しくお喋りができてとても満足しました。

 その日の出来事はそれだけでした。

 今日はなにも言えなかったけれど、いつか正直に言いたいなと思いました。

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