第3話

 光の刺さない部屋の中に充満したものは、じっとりとした停滞に沈んでは腐敗していく。それに浸っていれば私はきっともっと穢れられる。肺を満たすこれがもっとどろどろとしたものであって欲しかった。たった一息で終わるような解放では足りない。もっと、もっと気持ちよく呼吸がしたかった。そのためにはもっと腐ったものを取りこまなければいけない。この身をもっと腐らせなければいけない。ああ、サクノ、会いたいよ。

「しーちゃん?」

 いつ扉が開いたのだろう。それにさえ気がつかなかった。眠っていたのかもしれない。彼女の傍にいない間は、眠っているのか目覚めているのかさえあいまいだった。呼吸をしていないのだから当然だろう。瞬きさえ永眠に等しい。

 汚物を含んだ身体が重くて、寝返りさえ打てずにノゾミを横目に見た。彼女はうつぶせに寝転ぶ私を覗き込むようにしゃがんでいた。ひたすらに澄み切った瞳が私を見ている。まるで水晶みたいだ。だとすれば、彼女の運命の行き止まりはいつも私だった。

 彼女を抱くつもりはなかった。

 彼女はただただ無邪気だ。恋愛とさえ知らぬままに幾億の釘で串刺しになっていた彼女の幼気な気持ちは私には甘すぎる。全身から血を流しながらまだ鼓動するそれに私のような人間がどうして触れられる。全てのきっかけだったはずの彼女は今はただの被害者でしかない。私がもっと早く終わらせていれば、きっと彼女はこんな地獄に足を踏み入れる必要もなかったのだ。

 そう、思うのに。

 私の身体は当然のように彼女に触れていた。そのほそやかな手をとり、寝返りを打つように抱き寄せた。コートを着たままの彼女が胸の中に飛び込んでくる。冷ややかな冬の粒子を含んだ表面は冷たくて、私の身体は震えた。辛うじて張り付いていただけの瞳は容易く決壊して、ぽろぽろと雫が落ちていく。

 彼女は子犬のようにせっせと雫を舐め取っていく。まるでそうすることが幸せだとでもいうように笑みを咲かせながら。全てが終わり切った私に、彼女はサクノと同じように笑みを向けてくれる。

「しーちゃん、好きよ」

 ノゾミはそう言ってはにかみながら甘いキスをくれる。

 彼女がそんな率直な愛を口にし始めたのは、初めて私が彼女に具体的な痕を刻んだその時からだった。

 彼女の中でそれがどう解釈されたのかを私は理解している。彼女はそのときから、頻繁にその言葉を私に囁くようになった。今更もう全てが遅いのに。もしもその言葉をもっと早くくれていたのなら、何か変わっていたのだろうか。それとも私は、それをただの戯言と聞き流していたのだろうか。

 考えるまでもないことだった。

 彼女はもぞもぞとコートを脱ぎ去る。その下から現れるのは桃色のヴェールに包まれる彼女の肌だ。そこに刻まれた生々しい痕が私の罪を咎めるように赤黒く滲んでいる。彼女に触れることはそれ自体が罪だ。知っている。けれどそれを見ても少しも心は揺れなかった。

 彼女は驚くほどに一途だから、私がどれだけ痕をつけてもサクノに知られることはない。恋人からの冷遇を嘆くサクノによくもまあ親身な顔をして応えられるものだと我ながら思う。もしもノゾミがもっと奔放であってくれれば私と彼女はどうなっていただろう。サクノが私を拒絶して、私は全てを失って、それでも彼女は私の傍らにいるのだろうか。こうして私のベッドで眠るのだろうか。そうであってくれたならと願う気持ちは少しだけある。いや、あった。もう手遅れだ。

「ノゾミ、今日はどこにほしい?」

 問いかけながら彼女の肌に触れる。程よく脂肪に包まれた彼女の身体は、それだけで面白いくらいに反応する。彼女はあまりにも無防備だ。今まさに強姦されようとしていることに気が付いていない。

「んぅ、おしり、おしりがいいの、しっぽのところ、あのね、あのね、そこがね、きゅんきゅんするところなの、」

「そっか」

 今から行う全ては彼女の本意ではない。

 彼女の望むことではない。

 それに彼女は気が付いていない。

 だからこれは強姦と呼ばれるべきなのだ。

 彼女の望むものを、私はもう、欠片も持っていないのだから。

 それなのに私は彼女を騙す。

 コトリと同じだ。

 私は彼女を失わないようにと縋っている。一度も彼女をこの手に掴もうとしたことなどないくせに、なにも知らず胸の中に飛び込んでくる彼女を閉じ込めてしまおうというのだ。彼女を失いたくないから、彼女の望みを叶えるふりをしている。彼女の愛情を受け取るふりをしている。彼女に刻む痕を、私の気持ちだと言い張って。

 最初以外は、どれも彼女が求めたものだ。

 彼女は私に騙されるために印を欲した。愛という名のつけられた傷跡があれば彼女は私のものでいられる。彼女にとってもそれがたったひとつ、望みが叶っていると信じられる方法だった。彼女は私に抱かれなければ生きられない。そうでなければ、彼女は自分の望みが叶っていないことを知ってしまうから。

 反吐が出る。

 いつもなら吐き出してシーツを汚していたそれを、強引に飲み込んだ。ぬるりと喉にへばりつきながら落ちていって、また肺が重く沈む。彼女を騙す理由がひとつ増えた。純真な彼女はあまりにも眩しくて、だから私の身体は爛れていく。また私は、汚れられる。

 背中を向かせ、彼女の視界をそっと閉ざす。

 彼女を離したくない私は、彼女の望むものをすぐには与えない。

 今からここに跡を刻むのだと、望む場所をじっくりと指で撫でさすって彼女にそれを予感させる。使う器具はこれだぞとでも言うように、舌を、唇を、歯を、見せびらかすように背に触れる。彼女から声が漏れだすたびに肺は淀んでいく。己が最低であればあるほどいい。

「しーちゃん、して、ゃあ、ほしいの、」

 甘く蕩けたおねだりがしみ込んでくる。

 私にそれを拒む理由はなかった。

 だから彼女はこれで幸せだ。

 これからも、ずっと、ずっと。

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