第2話

 コトリの指が私の中をかき回すたびに肺は膨れた。彼女の肌が重なる熱で淀みは煮詰められていく。肺を膨らす黒い蒸気と底に溜まる汚物に胸が鈍く痛い。

 彼女に抱かれながら私はサクノのことを考えていた。サクノを抱きしめることを考えていた。肺にこびりつくほどに詰め込んだ鬱屈を吐き出し彼女にぶちまけるのはどれほどに心地よいだろう。そうして空になった肺に詰め込む彼女の親愛は脳髄が蕩けるほどに甘いだろう。

 目いっぱいの深呼吸がしたかった。

 肺が膨れれば膨れるほど彼女で満たせるのだと高揚した。

 ああ私は恋をしているのだ。破裂した風船の山を弾き散らすくらいに目いっぱい膨らんだ肺は間違いなく私の中にある。空気を詰めて詰めて伸び切った膜の中にもっと彼女を取り込みたい。破裂してもいい。破裂するのがいい。そうしたら今度は胸膜に彼女を取り込む。腹膜に彼女を満たす。ついに身体が弾け跳んだとき私は彼女を胸の内に捕らえられるのだ。息の根が止まってもそうすれば彼女で息ができる。呼吸の全てを彼女が介す。それはどこまでも心地よいに違いない。考えるだけで簡単に逝った。

「もう沢山だッ!」

 コトリが私を突き飛ばす。咄嗟に腕を掴んで一緒にベッドから転げ落ちた。一人分の重さに押しつぶされた肺から汚液の泡沫が吐き出される。口の端からこぼれるそれを舌でさらいながら彼女を見上げた。

「僕はッ、僕はこんな、君を、君の都合のいいおもちゃじゃないッ!」

「どうしたのコトリ」

 コトリは突然訳の分からないことを言い出した。どうでもよかった。そんなことよりももっと彼女としたかった。私は彼女に裸体を捧ぐ。

「なんでやめちゃうの。もっとして。コトリは私としたいでしょう。コトリにはもう他になにもないでしょう。都合のいいおもちゃだなんて、そんな今更なこと言わないでよ」

 彼女が私を脅した瞬間から彼女は全部失った。だから今彼女は私のものだ。

 だから彼女はこうしている。

 彼女は私を失えない。それしか彼女にはない。彼女に自由なんてもうないんだ。彼女が私を失わないために彼女は私を抱くしかない。私がそれだけを求めている。それ以外に彼女にはもうなにもない。かつて私と彼女を結んでいた言葉はとっくに汚物に沈んで息さえしていない。彼女は私を抱くことでしか私に触れられない。彼女の心臓は私を抱くために動いている。彼女は私を抱くことでしか生きられない。私よりもずっと悲惨だ。

 それなのに彼女は泣くのだ。

 雫が肌に染みて心臓を刺す。肌に残る黒い染みをサクノに綺麗にしてもらいたいと思った。彼女の舌に触れてほしい。きっと肌で分かるほどに甘い。肌の全てが染まっていれば、彼女は全身を舐ってくれるだろうか。

「僕は……ッ!僕はっ、君が欲しいんだ、君が、君が、だから君を、君に、それなのになんで、なんでそんな顔をするんだ、僕の物になれよ、今は、今だけは、今だけは君は僕だけの物だろうがッ!」

「なに言ってるの気持ち悪い」

 次の瞬間右側の音が弾け跳んだ。まっさらになった肌の感触をじんじんと赤が侵食していく感覚があった。彼女に頬を張られたのだと理解するころには彼女の指が首にかかっている。締め付けるというよりはむしろ突き抜くような鋭い掌握。首筋を流れていく冷たい血の感触があった。

「なんなんだよ、君は、君はどうしてこんな、僕をどうしたいんだよ君は、」

「――うも、こう―、、い、よ」

 喉がつぶれて上手く声さえ出せない。

 ああ、肺が溜まっていく。息苦しい。

 もっともっとと彼女の手を首に押し付ける。彼女は唇を食い破りながら私の手を振り払った。たぱぱ、と散った血液が私を染める。頬に落ちた生ぬるいそれを指ですくって舐る。汚い。サクノの白と比べるとあまりにも汚い。それを取り込むことで、彼女の美しさをもっと知ることができると思った。私が汚れれば汚れるほど、サクノはもっと綺麗だ。

 だからコトリの唇を食んだ。苦くて舌を指すような酸味がある。吐き気を呼ぶエグ味にえづきながら一滴残らず彼女の汚れを取り込んだ。

 左側が弾けた。

 弾き飛ばされてカーペットに叩きつけられる。口の端が切れて黒々とした血液がこぼれた。カーペットに染みを作るそれがもったいなくて首を回して舐めた。

「はっ、はは、ははははははは!」

 彼女は笑った。

 耳が腐っていく。サクノの声で浄化してほしい。彼女の囁きが耳介を浸していくのを想像するだけで心地が良かった。ああ、もっと、もっと腐りたい。

「―――はっ、はあっ、はぁ。ふ、ふふ。しい。君は、そんなにしてほしいのか」

「うん。コトリにしてほしい」

 頷きながら思う。私も彼女のことを言えないかもしれない。

 私はもう彼女を二度と離したくなかった。だって彼女はこんなにも私の肺を満たして汚してくれる。彼女より汚いものなんてきっと世界のどこにもない。もっと触れてほしい、もっと汚してほしい、彼女の全部が欲しい。

 彼女から目が離せない。

 視界を通して脳髄が汚染されていく。全身を汚してくれるという予感に心臓がはしたなく踊る。誘うように鼓動に触れさせた。ほら聴いて、コトリ、あなたは今からこれを汚す。

「コトリの汚いものを全部私に容れて。もっと満たして。じゃないと私息ができない」

「いいさ、君が望むならくれてやるよ」

 はやくはやくとあさましく彼女をねだる。

 零れてくる彼女の唾液を、舌を突き出して受け取った。

 どろどろと熱く煮えたぎるそれは私の粘膜に焼き付いていく。こぼれた液体が鼻腔に流れる。味蕾が壊死する空虚を味わう。嗅神経が壊死する空虚を匂う。この舌で触れるサクノはどれほど甘いだろう。この鼻で嗅ぐサクノはどれほど香しいだろう。

「ああそうさ。君が望むのなら、全部、全部、くれてやる」

 そして彼女は私を汚した。

 彼女はもう二度とおかしなことを言わなかった。

 私たちはかつてのそれよりももっと強固なもので結ばれた。

 汚物の底はあまりにも深くて、二度と空は見えなかった。

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