容姿も中身も超ハイスペックな俺がオタクになった訳

入江 郊外

第1話

 薄暗い、いやほぼ真っ暗な部屋の中。パソコンの前で、薄ら気味が悪い笑みを浮かべ、二次元の美少女を堪能している"奴"がいる。

 

 部屋の中の音と言えば、不規則かつ頻繁に鳴り響くマウスのクリック音だけだ。奴はヘッドホンを付け、画面の中の美少女キャラの喜怒哀楽を堪能している。

 

 部屋の壁は一面に、いや見える壁すべてに美少女ポスターが張り巡らされ、あろうことか、天井にまで一面美少女パラダイスだ。


 部屋の一角には、美少女を模ったフィギュアが飾ってあり、一辺には天井ほどあろうかという本棚に、ぎっしりとライトノベルや、漫画、同人誌。ありとあらゆるジャンルの書物を蔵している。


 一つ共通することは、すべて二次元に属するキャラクターということだけであり、中には"18禁"と言われるものもありそうである。

 

 そんな部屋に、合計1000人以上はいそうな、二次元の美少女たちは笑みを絶やさず、奴を、この部屋を、死角なく見つめている。


 無機質な視線の中、パソコンのモニターの中の美少女に夢中の奴。


 ―ピンポーン


 奴を夢から引きずり出すように、家全体にインターホンのベルは響き渡った。

 

「うっせえなーー」

 

 ため息交じりに発する怒りに満ち溢れた言葉。だが奴の口は動いても、パソコンの前に座る彼の体は、ビクとも動かない。

 

 数秒後にまたベルが鳴る。


 次は、言葉すら発さなかったが、奴の足元がどうやら騒がしくなっていき、下の階に響くくらいに貧乏ゆすりをしている。

 

 またもベルは鳴るが、椅子から立ち上がって行動に移そうとしない。

 

 とうとう家の外から攻勢を仕掛ける人物は、何かが吹っ切れてたようにインターホンを押し続けて、ベルを鳴らし続けた。家中にベルが響き渡り、一向に止む気配のない音は、容赦なく奴の部屋にも響き渡っている。

 

 奴は、突然の来訪を無視する”居留守”でやり過ごそうと思ったのだろうが、今もなお根気強くボタンを押し続けている。

 

 とうとう奴は重い腰を上げ、玄関へと向かいだした。

 

「あぁーーーーーー!!なんなんだよ。こんな真昼間に!!」

 

 真夜中で怒るならわかるが、今は真っ昼間。常識である。

 

 ぶつぶつと文句を言いながらも、奴はようやく玄関へたどり着いた。

 

 鍵を開けドアノブに手をかけ、玄関のドアを押し開けようとした瞬間。掴んだドアノブは自身が押す速さよりも先に勝手に動いた。


 ―カチャ

 

 自身が開けようとしたタイミングよりワンテンポ早く扉が開き、重心をドアノブにかけていたせいで、おのずと体が外に吸い出される。

 

 崩れた重心を立て直そうと、一歩玄関の外へ出るような形で足を出した。

 

 奴が口元を強張らせながら、顔を上げると真っ昼間の日を浴びながら、にっこりとした郵便の配達の人がいた。


「こんにちわ。郵便です。矢場さんのお宅で?」

「あっ。はい。」

 

 まさかの来訪者は郵便屋である。郵便屋の立場にもかかわらず、人の家に対してあれだけ根気強くインターホンを鳴らしていればクレームものだが、さすがである。


「書留です。サインか印鑑をお願いします。」

「じゃあサインで」

 

 郵便屋は肩にかけているカバンから、茶色い封筒を差し出し、奴に丁寧にボールペンを渡した。


「ここにフルネームでお願いします。」

 

 奴は"矢場賢人"と、郵便屋が差し出した受領書にサインする。


 イラつきを顔に出しながらサインをするのと打って変わって、相手は営業スマイルで元気よく言い放つ。


「ありがとうございましたーーー」

 

 嫌味を込めるかのよう、元気に言い残した郵便屋は次の配達へ向かうのだった。


「誰だよ。こんな封筒、家に送りつけたやつ。」

 

 小言をぶつぶつ言い部屋に戻りながら、宛名を見る。

 

 "矢場賢人"


「チッ。俺宛かよ。メールとかSNSが普及している時代に紙で送ってくんなよ。」


 今にも破って燃やしたい衝動を抑え、封筒の裏面を確認する。


「時代遅れの送り先はだーれだ。」

 

 "私立高宮高校"

 

 送り先を確認し封筒の封を盛大に破り、中身を確認する。数枚いろいろと書かれた書類が入っていたが賢人が気になるのはただ一つ。気になるものだけを取り出し、目を通す。

 

 それを見た瞬間。賢人の表情が一気に変わる。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお。よっしゃああああああああああ」

 

 さっきまでの怒りキレ散らかしていた態度はどこへ行ったのか。近所迷惑になるレベルの奇声を発し、謎の奇妙なダンスじみた動きをして、体全身を使って喜んでいる。これほど喜ぶ訳には理由があった。


 中学校2年生まで不登校だった彼は、秋葉原の高校に行くためだけに、苦痛であった学校へと、中学校3年生から、死ぬ気で通ったのだからである。


「オタクの聖地。秋葉原が俺を待っている!」


 その内容とは"合格通知書"であった。


 "私立高宮高校"とは、賢人が住みたくてしょうがない秋葉原にある高校である。なぜならば、彼はオタクだから。そもそも校風やらそういったもので高校を決めたのではなく、ただただ立地している場所だけが決め手であった。

 

 盛大に騒ぎながら部屋に入りかけていたが、華麗に右足を軸に180度ターンを決めて駆け足で階段を下る。先ほどの痛みはすでに消え去ったようである。向かった先は台所。

 

「とりあえず荷造りでもするか!」

 

 彼は威勢よく腕をまくると、東京へ行く荷造りをし始めるとともに、古巣になるこの部屋の掃除も同時に進め始めた。

 それは夕方まで時間を要することになった。 


 カラスが「カーカー」となる時間。額に浮かぶ汗を手で拭いながら、満足げにつぶやく。


「ふぅー、久々の労働、疲れるものだな。」

 

 汗ばんだシャツの中に新鮮な空気を入れるようにパタパタさせながら、キッチンへ向かう。冷凍庫の氷をコップに入れ水道の蛇口から水を注ぎ、勢いよく口元へもっていくと、水を欲した魚のようにゴクゴクと飲み干す。


「ただいまー」

 

 玄関の方向から母親の声が聞こえ、足音はキッチンへ向かってくる。

 

 両手にパンパンのレジ袋を持った母親は、普段目にしない汗ばんだ息子の姿を見るや、その場に立ちどまり目を丸くする。


「あんた家でなんしよったん。」

「いや、部屋の掃除」

「だ…だれのへや?…なんで掃除しようとしたんね?」

「気分転換かな。あと、春から秋葉原の学校へ進学するから。」

「ねぇ賢人?秋葉原って東京の学校?九州からどうやって通学するとね?」

 

 さすがに現実味のない質問であるが、自分の息子がそんなことを言えば、当然である。何食わぬ顔で2杯目の水をコップに注ぎつつ、そっけない表情で人生のターニングポイントを提示した。


「東京に住む。」

「賢人!!東京に住むって、一人暮らしが大変なこと分からんのかね!?しかも知らん土地で!それに一人暮らしするお金は?引っ越し代は?とてもじゃないけど、高校生一人を、世帯から出して生活させられるほど裕福じゃないわよ。しかも東京の家賃とかって、田舎の"ここ"とは比べ物になら…」

「東京は小学校前半までいたんだから、勝手は分かってるじゃん!」

 話を遮るように言い放った、今までとは違う語気の強い物言いは、家という空間を静けさで満たしていく。

 

 二杯目の水を飲み干すと、勢いよくコップをキッチンに置きつける賢人。


「自分の部屋に物取りに行くから、少し待ってて」

 賢人は自室の机の鍵のかかった引き出しを開けると、中から長方形の薄い冊子のようなものだけを取り出し母親の元へ戻っていく。

「これ俺の通帳なんだけど、見てもらえる?」

 部屋から持ち出した通帳をパラパラと開き、一番最新の口座残高のページをめくり渡す。

「これが俺が今持っているお金。これだけあれば学費も3年間の生活費も全部補えると思ってるし、バイトもする必要ないくらいはあると思うけど……だめかな?」

 

 落ち着いたトーンで喋る賢人だが、母親の方は、高校生では到底考えられないお金の桁数を数えることに夢中で聞く余裕もない。


「いち、にーさん。違う。いちじゅうひゃく……。1000。1000万??????????????」

「うん」

 

 母親は一呼吸置くと、打って変わった低いトーンで賢人に尋ねた。


「これどうやって稼いだの?悪いことしてないでしょうね?」

「最近、動画を投稿したりするのって流行ってんじゃん?テレビでもたまに紹介されてるやつ。それでちょっと稼いだだけ。」

「本当に?」

「うん。」


 母親の表情が、息子の手にある大金の入手方法が分かったとたんに、胸をなでおろすかのように、これまでの真剣さが無くなっていくが、賢人はくぎを刺すように耳打ちをした。


「動画投稿を俺がやってることは誰にも知られたくないし内緒だから、誰にも言わないで欲しい。」

 

 小さな声で耳元へ言い残すと、汗ばんだ後の乾きかけの体から早く”おさらば”したい様子で、浴室へ向かいシャワーを浴びるのだった。


 


 冬真っただ中、もうすぐ卒業の春、別れのない春が訪れる、2月初め。オタク願望にまみれた奴が、オタク人生を充実させるための重要なファクターであった。


 ※


「賢人!グラウンドでサッカーしようぜ」

 まだ声変わりすらも終えていない男子が賢人を呼ぶ声が教室に響き渡る。


「今行くからちょっと待って~~!」


 この頃小学校三年生の幼い賢人は、元気目いっぱいに友達へ返事をする。夏真っ盛りの炎天下のグラウンドの上で、友達と遊ぶサッカーがしたくてしょうがない賢人。しかし、目の前に立ちふさがっている、給食当番の片づけが済んでいない。


 昼休み入りたての異様な騒がしさを見せる教室の中で、給食当番である彼と同じ班である数人は、遊びたい衝動を小さな心で抑えながら、食器類を片づけたり整理したりしていた。


 給食後の片づけがほとんど終わり、あとは食器を給食室に返すだけとなった頃、いまだに給食を食べ終わっていない女子がいた。


 ――またあの子か……自分で給食室まで片づけてもらうとして、早くサッカーサッカー!!


 賢人は念のために給食をいまだ食べ終えていない女の子に一言、食器を自分で片づけるように言おうとした時………


「おいブタ女~~~。デブなのに食べるのおっそいんかよ。俺らより食べるの遅いとか恥ずかしーーー!。」

「うわぁー俺らよりご飯の量少ないのに!!ダイエット??お前が?気持ちわるーー。早く食えよブタ!」

 

 同じ給食当番の中の男女二人が、その女の子に罵声に近い言葉を浴びせる。

 

 昼休みに差し掛かってもなお、給食を必死に食べ続けている女の子は、賢人の倍くらいの横幅があり、肥満体系……"太りすぎ"に値する部類の子であった。


 罵声に近い言葉を浴びせた男女二人というのは、クラスの中で最も人気が高い二人であり、カースト上位に属する二人である。男子の中の一番と女子の中での一番。この二人が言ったことには、クラスの人誰もが逆らうことはできない。


 この心無い言葉はいつものことで、今に始まったことではななく、カーストトップの男子と女子の心無い言葉を、見て見ぬふりをする。


 もし、この二人の言動を止めようとしたり、ケチを付けようものなら、明日は我が身で、賢人自身のクラスの中での立場も危うい。


 賢人はグラウンドに出るために、運動帽子をかぶった瞬間、教室の中から液体が滴る音が賢人の耳に入る。

 

 その音に違和感を覚えた賢人は、急ぐ足を止めて音のする方へ振り返る。


 振り返った先には、いつもの言葉の暴力だけではない、カーストトップの二人がいつもする行動よりも、さらにエスカレートした末のロクでもない様子が目に入った。


 カーストトップの男子児童は、女の子の机にあった半分くらいになった飲みかけの牛乳を手に持って、食べかけの白ご飯の上にぶちかけていたのであった。


「ほ~~ら。これでおかゆみたいで食べやすくなったでしょ?」


 隣にいる女子児童が、男子児童の行動をあたかも正当化したようなセリフを吐いたりしたが、女の子に対するカーストトップの二人の行動は、これでは終わらなかった。

 女子児童の方は、白ご飯と牛乳が入り混じった中に、少し余っていたおかずをぶち込んだ。


「あら私、盛り付けの天才?」


 高らかに笑うカースト上位の二人。


 しかし、笑っているのはこの二人だけではない。もう昼休みに入ったとはいえ、この教室には半分近くの児童が残っている。


 教室の中には大爆笑と言うには甚だしい、クスクスとした笑いが立ち込める。


 椅子に座っている女の子は、残飯に成り果てた自分の給食を前に、声を必死に抑えて泣くことしかできなかった。


 泣いている女の子にとって、給食を滅茶苦茶にされたということよりも、自ら手を下さず汚さずに、"中立"という立場の革を被った"見物人"の、身を刺すような視線が、何よりも辛い。


 そう、少女はクラスの中での"見世物"にされている。


 反抗して「やめて!!」と言えば笑われ、この場から逃げようにも、周りの視線という壁が彼女を阻んでいく。


 女の子は心の中で叫んだ。


 ――だれか助けて!!!!!!


 女の子の心のコップが溢れかけようとした時、賢人は急ぐ足と心を止めて、騒がしい彼らの方へ向かい優しく女の子に向かって話しかけた。


「給食と当番、早く終わらせたいからごめんね。」


 賢人は、もはや人間が食べるようなものではなくなったぐちゃぐちゃになった白ご飯の入った食器を持つ。


「おい!!何やってんだよ賢人!!」


 カーストトップの男子児童が、ものすごい剣幕で賢人に向かって叫びだす。

 ぐちゃぐちゃ中身の食器を持ちながら、男子児童を無視するように何食わぬ顔で窓際へ向かい始めた。


 窓際にたどり着いた賢人は窓を開けて、手に持っている残飯じみたものが入った食器を窓の外側へと出し、手のひらを翻して食器を地面のほうへと傾けた。

 食器の中の残飯じみた白ご飯だったものは、ぺちゃぺちゃと音を立てて、地面に落ちていく。

「邪魔すんじゃねえよ!!」

「早く食べ終わってもらわないと、俺も遊び行けないんだけど……」

「賢人、覚えとけよ?」

 

 賢人は、今にも崩れ落ちそうな女の子の机の上にある食器類を、お盆ごと持ち上げると教室から静かに立ち去った。クラスメイトの男子たちと、元気よく外のグラウンドでサッカーをして遊ぶことが、この日が最後だとも知らずに――


 ―翌朝―


「おはよー!」


 賢人は、教室のドアを開け、いつもと何一つ変わらない元気な声であいさつをした。


 普段なら、仲のいいクラスメイトの数人は、賢人が発した挨拶に返事をするが、今日にいたっては誰一人として、挨拶を返してこなかった。


 ――聞こえなかったのかな?


 これは偶然だと賢人は思ったが、教室に一歩足を踏み入れた瞬間、教室の中が一気に静寂に包まれた。


 賢人へ向けられるクラス全員の視線。昨日、給食を食べ終えられなかった女の子に向けられたのと、同じ類のもの。


「な、なに?みんなして……」


 賢人は周りの視線を気にしないように、自分の机へと向かうが、いまだこの状況を受け入れられない様子で、周囲を気にしている様子だった。


 あからさまに次の標的にされた彼はいつも通りに、後ろの席の昨日サッカーを一緒にグラウンドでした友達と、会話をしようとした。


「ねえ、昨日のテレビ見た?お笑いの。」

「ねえ次の時間って、国語だったっけ?」


 友達は返事をしたが、それは賢人に向けられたものではなく、条件反射のように一瞬だけ視線を合わせると、そのまま賢人の席とは真反対の後ろに振り返り、別の友達と会話をしだした。


 ――え?


 つい最近、国語の時間で習った"ことわざ"があった。


 ――火に飛びいる夏の虫


 いつもの教室が果てしなく広く感じ、にぎやかでクラス全体の雰囲気が良いと思っていた、周りの会話や笑い声は、すべて雑音に成り果て、賢人は自分の席から動くことも声を上げることも何もできなくなった。


 原因……いや、きっかけはひとつしかない。


 クラスメイトほぼ全員から標的にされた少年は、クラスの中で空気と化すしかなかった。この行動が功を奏したのか、直接的な嫌がらせを受けることなく下校の時間になる。


 いつもなら、家の方向が同じクラスメイトと一緒に帰ったりするのだが、今日は一人。


 少し下を向きながら歩く”ひとりぼっち”の道のり、周りには友達と一緒に楽しそうに会話をしたり、石をけりながら歩く同じ学校の児童。


 ――何でぼくだけが…


 気づいたら家の前に着いた賢人は、昨日と同じいつも通りの表情で顔を上げる。

「ただいまーー」

「おかえりー。おやつあるわよ」

「食べる食べる~~。」

「手、洗ってからね。」

「分かったー。」


 家に帰ると温かい空気に包まれ、学校での出来事から一時的にではあるが逃げられた賢人は、思いつめていた緊張が解ける。


 手を洗うために洗面所に向かい銀色に輝く蛇口を回す。蛇口から無機質な水道水が、幼い賢人の心情を覆い隠すように際限なく出続ける。


 手を洗いながら鼻をすする賢人。母親の愛情と今日の小学校での出来事が交錯し、心のコップが溢れたように泣きそうになる賢人だが、母親が洗面所に近づく気配と足を音を聞いて、必死に我慢する。


「まだ手、洗ってるの?」

「ちょっとツメの間にゴミが入っちゃって。」

「あらそう?」


 母親は賢人の仮面のような笑顔を見て安心し、リビングへと戻る。 母親というものは、我が子のいつもとは違う些細な行動や表情に、いち早く察するものである。


 賢人が演じた悲しさなんて微塵も見せない振る舞い。完璧な抜かりない作り笑顔に

 は、母親ですらも気づくことができなかった。


 幼い少年が必死に取り繕った努力が、幸か不幸か報われ、学校が終わればいつも通りの平穏且つ温かい家庭での生活を過ごし、朝になれば空気人間となって学校の自分の席へ座る。


 音の出ないアコーディオンを、ひたすら演奏するように、有意義とは真逆な無意味で無価値の学校生活と、家での身に染みる愛情との狭間を、日々折り重ねていった。


 ※


 賢人が孤独な小学校生活を送ること一か月。

 いつも一人ぼっちなのは変わらず、学校から帰ると母親はリビングの椅子に座っていた。その表情はやや神妙で申し訳なさそうな視線を、自分の息子に送っていた。


「賢人さ、伝えにくいんだけど……」


 母親は賢人の目を見ながら、重い声色で話し始めるが、一度言葉を濁すがすぐに続きを話し始めた。


「お父さんの仕事で、今いる東京から九州の方に引っ越さなくちゃいけないの。」

「うん……」

「だからね、今の学校から違う学校に行くことに……。ごめんね。」

「うん……」


 賢人は相槌を打つくらいの返事しかしなかったが、内心安堵していた。一人ぼっちになってしまった小学校生活から"おさらば"できることを。


 賢人は逃げるように椅子から立ち上がると、二階にある自分の部屋へと駆け上がった。そのままベッドの上に寝転がると、張り詰めた心から解放されたのか、すぐに眠ってしまった。


 ―1週間後―


 朝の会で担任の先生から呼ばれ、黒板の前に向かう少年は、黒板下の一段高い教壇の上に上がり、先生の隣に立つ。


「皆さんにとって残念なお知らせがあります。今日で矢場賢人君は、この学校から転校するので、皆さんと過ごすのは最後になります。」


 先生のこの一言で教室中がざわめきだす。賢人が教壇の上から見下ろしているクラスメイトは、誰一人として、彼に声をかけることはしなかった。

 隣にいる先生は賢人の肩へ、励ますように優しく手を置いた。


「矢場くん、みんなに一言。」

「みなさん、ありがとうございました。」

 ――"一言"?僕をいじめて楽しかったですか?それとも、サンドバックがいなくなるから行かないでー?


 下を向き、暗い口調でみんなに放った一言とは裏腹に、賢人は一人ただ、自らの手で拳を作るように固く手を握りしめた。

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