第六話
緑の葉が赤や黄色に変わり、すぐに散ってしまい、茶色の枝だけが残る。
枝だけになった木には音すら吸い込んでしまいそうな真っ白い雪が積もる。
いつもどおり、家の掃除と洗濯をして過ぎていく時の中を静かに過ごす。彼女の目には何も映っていなかった。
そして、雪が解けて温かい風が吹き、春の足音が聞こえてきた頃。
少女は何気なく窓の外に目を向けた。変わらない枝だけの桃の木と透き通るような青い空。
一年前のあの日と同じ空だ。
なにを思ったのか、少女は立ち上がって外に出た。この一年間、洗濯物を干す以外は外に出たことのない少女が、靴をはいて川原を目指す。
天使なのだから人間よりも寿命はずっと長い。しばらく何も食べなくても死ぬことはない。天使の寿命に比べれば一年なんてとても短いけど、永遠の時の中に身を置いているような気もした。
しばらく目にしなかった外の世界は……何も変わっていなかった。少女はゆっくりと川原に向かって歩いていく。目は虚ろ。足取りはおぼつかない。
特に理由があるわけではなかった。ただ、なんとなく足が動いたのだ。
川原では桃の花が咲いていた。雪解けの透明な水が流れる川に沿って花を咲かせた桃の木が並んでいる。そのうちの一つ……見覚えのある桃の木の根元に少女は腰掛けた。
顔を上げると枝の隙間から光が差し込み、風に散って川に流れる桃の花びらがある。
あの時と全く一緒の景色。けれど、一番大切なもの……隣にはいない。
いっそあの川に流れてしまえば、私もあの人のところに行けるかな? 少女が川を濁った目で眺めていたところへ、
「ねぇ、どうしたの?」
社会人に成り立てくらいの年の女の人が声をかけてきた。
一年前と変わらない、やつれた様子もない姿の天使の少女とくらべると大人っぽい感じがした。
少女はなんでもないように答える。
「いえ……なんとなく花を見ていただけなんです」
女性は「ふーん」といいながら少女の右側に座った。
「何か悩みがあるの?」
女性は唐突に切り出した。
「……そう見えます?」
「うん。今にも川に飛び込みそうな感じだったわよ」
周りには分からないように隠していたつもりらしい。
けれど、少女は自分のマイナス思考に驚いた。一度でも死のうなんて思った自分が分からない。
女性は彼女の顔を見ながら続ける。
「だめだよ。なにがあったかは分からないけど、それだけは絶対にだめ」
「そう……ですよね」
少女は少しためらったが、女性の言うことはもっともだ。素直にうなずく。
「いなくなっちゃったんです」
少女はゆっくりと口を開いて、一年前の彼と過ごした日々を思い出していった。女性は途中で相槌を打ちながら、ところどころ言葉に詰まる少女に付き合って最後まで真剣に聞いてくれた。
話しながら、途中で涙声になるのが分かった。
「ひょっとしたら、今までのは全部夢なんじゃないのかなぁって……振り向いたらいつもの笑顔で笑いながら出てきてくれるんじゃないかなぁって思うんです。でも、どこにもいなくて……いくら探しても、いくら待ってもどこにもいなくて……戻ってきてくれなくて……」
彼がどうなったかは一番近くにいた彼女が知っているのに、心がそれを認めようとしない。
ずっと苦しいままだ……。
彼の最後の笑顔が浮かんできて、体育座りしている膝に顔を埋める。
「ごめんなさい……軽々しく聞いちゃいけないことだったのね」
少女は顔を埋めたまま首を振った。
「……大切な人だったのね」
「……はい」
少しだけ沈黙が流れた後、ようやく顔を上げた少女に女性がまた口を開く。
「だからこそ……変なこと考えちゃだめだよ?」
「……はい」
「……そうだ。へんなこと言うようだけど……思い出を整理してみたらどうかな?」
「整理? ……思い出をですか?」
疑問符を浮かべる少女を軽く微笑んで受け流し、正面の川の流れを見つめながら女性は続ける。
「そう。思い出の整理。あなたの中の気持ちや、身の回りのものとか……そういう『思い出』を一つずつ整理していくの」
埋めていた顔を上げ、涙をぬぐって少女は女性の話を聞く。
「そういうものを整理して、思い出していけば……少しは楽になるかもよ? もちろん、自分の大切なことはずっと残したままね」
女性はそう言って鞄からハンカチを取り出し、少女の目元をぬぐった。
「ありがとうございます」
思い出の整理……私と彼の思い出……。彼の部屋は毎日掃除している。桃の木は……違う。もっと大事な二人の思い出……。
そういえば、彼がいなくなってからピアノ……弾かなくなったな。
ピアノ、毎日の二人の楽しみ。毎夕の演奏会……。
彼はどう思っているだろう? ピアノを弾かなくなった……私のこと。
「あの……ありがとうございます」
気持ちの整理をつけてみる。
いつの間にか夕方だ。桃の花のピンク色がオレンジ色に変わり、川がとても眩しく光を反射させる。
少女は女性にお礼を言って家に帰った。
心残りはある。このままあの人のことを忘れてしまうのではないかと。でも、私はあの人との思い出を『辛い思い出』にはしたくない。私は心の中のごちゃ混ぜの気持ちを『楽しかった思い出』にするんだ。
家に帰り少女はピアノの前に立つ。窓から差し込む光はオレンジ色。いつも弾いてた時間だ。ぼんやりと家の中を薄く照らし、ピアノの黒い光沢が目立つ。
静かにピアノの前に座り、カバーをあける。両手をそっと鍵盤に乗せ……。すっと小さく息を吸う。
彼女の後ろの棚にはバイオリンが置いてある。
そういえば……あの人はいつも、私の後ろでバイオリンを弾いてくれたっけ……。
体はあの曲は覚えているみたい。頭の中で思い出し……指を鍵盤の上で躍らせる。
あの時はバイオリンの音も一緒に奏でられていた。けど今は……一人。
弾きながら思い出す。一年前のとても短く、とても幸せだった日を。
冷たい風が吹きつける中、ピアノの音に引き寄せられてたどり着いた家。
そこで一人、ピアノを弾いていた彼。
ピアノを教えてもらい、一緒に弾くようになり、この家に住むことになった。
毎夕の演奏会、時々二人でお買い物に出かけた。笑って食べた夕食。夜になれば電気を消して「おやすみなさい」。朝、お日様が出たら「おはよう」。
いつの間にか曲は中盤を終え、ピアノのソロパートに入っていた。長い長いピアノの
楽しみにしていたお花見。
二人で一緒にサンドイッチを食べた。桃の木の下で肩を寄せ合ってお昼寝をして、ちょっと寝過ごしちゃった。
そして最後にやってくるのはやっぱり……彼の笑顔だった。
彼との思い出が浮かんでは消え、胸の奥にすとんと落ちてくる。
あぁ、もうそろそろ終盤。バイオリンも入って二つで奏でるパート。
もう……これで最後だね。
彼の笑顔を頭に思い浮かべながら、幸せだった日々の思い出を膨らませて最後のパートへ指を躍らせる。
――っ。
ピアノとは違う、優しく張りのある音が聞こえた。バイオリンだ。
彼女の耳に響いたのは……バイオリンの音だった。
聞き覚えのある優しくて、心を打つ大好きな音。後ろから……背中を合わせて弾いた、彼のバイオリンの音が……聞こえてくる。まるで彼が弾いているかのように、バイオリンの音がピアノの音と混ざり合う。
けど、振り向けない。もう少しこの音を聞いていたい。せめてこの曲が終わるまで……そこで一緒に奏でてくれますか?
彼女の願いが通じたのか、バイオリンの音は絶えることなく部屋を満たす。ピアノの音と混ざり合いあの日々の幸せな音で部屋を満たす。
庭にある桃の木には蕾がついた。一つ二つ。部屋の中の音と一緒に桃の枝には蕾がつき始める。
ピアノとバイオリンの音と一緒に三つ四つ……いつの間にか、枝にはたくさんの蕾がついていた。
あぁ、この音が欲しかったんだ。私はここで一緒に……弾きたかったんだ。できればこのままずっと弾いていたいなぁ。私の後ろには彼がいる。彼が私と一緒にいる。ずっとずっと……一緒にいたい。
けれど、曲には終わりがある。次第にそれは近づき、彼女の指は鍵盤を弾いて最後の音が響いた。
行かないで!
彼女は声にならない叫びとともに椅子から立ち上がり、バイオリンに……大好きなあの人に振り返って手を伸ばす。
そこにはバイオリンを首から外し、とても優しく笑う彼の姿があった。
けれど、彼女の手は届かない。指先は空を掴み、そのまま地面に倒れる。彼女の周りには誰もいない。あの彼の姿は……幻だったのだろうか?
お願いだよ……眠らせて。君のその優しさの中に……眠らせてください。
彼女は地面に倒れた。彼女の思いが作った幻だったのだろうか? それとも本当に彼がここにいたのだろうか?
しかし、彼女は一人。両腕にバイオリンを抱いたまま目を覚ますことはなかった。
◇◆◇◆◇◆
その夜。少女はまだ目を覚まさない。月の光が庭のピンク色に輝く幻のような桃の木の花びらを照らす。
少女の傍らに男が一人、静かにささやく。
「君は良くがんばったよ。庭の桃も……ほら、いつの間にか一つだけ実が成ってる」
男は庭の桃を拾う。そしてリビングに戻り、眠ったままの少女を抱きかかえる。
「帰ろうか、天界へ。そこでまた……やり直そう」
男と彼の手の中の一つの桃の実と、彼の腕に抱かれた少女は音も無くすぅっと消えていった。
誰もいなくなった小さな家。ピアノとバイオリンがそっとおいてある小さな家。庭ではこの世のどの花にも劣らない桃の花が毎年春に花を咲かす。
その桃の花を見て誰かが言った。
桃の花言葉は……「愛の幸福」だと。
あなたの一生は私の一瞬 古代紫 @akairo_murasaki
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