あの木陰にはユウレイが住んでる
七屋 糸
第1話 萌葱色、セピア色
あの大きな木の名前、なんて言ったっけ。
ずり落ちる花束を左腕だけで抱え直すと、鼻先に百合が香った。新緑を押しのけた強い芳香は、瑞々しい花びらに反してひどく甘ったるかった。
掻き消えた白線が伸びる一本道は地平線とつながっている。家を囲むのブロック塀にはむした苔の緑や枯れた蔦が目立ち、その足元で剥き出しの側溝から荒々しい水の音がする。まるで人の暮らしが自然の中に取り込まれたみたいだと思う。
その青々しい景色の真ん中に、一際大きな樫の木が見える。2階建ての家にかぶさるような高さで、風が吹くたびに若葉の擦れ合う音が巻き上がる。
物心ついた頃にはすでに今の姿だった大樹の名前を、わたしは頭の隅で探している。
木の根元へ近づくと、木陰にはいつものおばあさんが立っていた。綺麗な淡い水色のワンピースを着て、わたしがお辞儀をすると、彼女も人好きのする笑顔を浮かべる。ちらちらと揺れる光が皺の刻まれた頬の上で踊っていた。
やっぱり思い出せない。
六年振りに訪れた故郷には濃いセピア色が漂っている。はじめまして、よりも「はるちゃん、おかえり」と言われるほうが多くて、戻ってきた当初は苦笑いばかりしていた。急な帰郷のわけが幸せなはずもないのに。
さっさと目的の場所へ足を踏み入れ、用意してあった手持ちの桶に水を汲んだ。その間も抱えた花束から重い香りが弾け、早く生けてしまおうと母の墓前に立った。
まだ真新しい墓石の花瓶から枯れたものを抜き、買ってきた花と入れ替えていく。一昨日に供えた花がまだ元気で、すぐに口がいっぱいになった。
最後に墓石の正面に立つと、自分の名字と目が合う。故郷にいると「はるちゃん」と名前で呼ばれるから、わたしは母を弔うときにだけ自分が「梶原はるか」であったことを思い出す。
両手を合わせ、目を閉じる。光が瞬き、子供の声がする。春と呼ぶには暑すぎる風がざぁ、と抜けていく気配がして、母が死んでからふたつ目の季節が過ぎようとしていた。
わたしは、いつまでここにいるんだろう。
目を開け、空を見上げる。あ、と急に頭の隅が点滅した。
そうだ、あの木、ユウレイカシだ。
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