3-2


 翌日。

 カチュアはどこからか流れてくる音楽で目覚めた。

 ベッドから出て音のするほうに目をやると、部屋の天井の角にある四角い箱の中から、心地よいピアノの旋律が聴こえていることがわかった。

 それがあまりにも不思議で、カチュアは椅子を用意してその上に立ち、箱を間近で見つめ、触れたり軽く叩いたりした。


「なにやってるの?」


「きゃっ!」


 急に背後から声をかけられ、カチュアはバランスを崩して椅子から落ちてしまいそうになる。


「い、いつからそこにいらっしゃったんですか!?」


「ちょっと前よ。さっきからドアの向こうから呼びかけてたんだけど、まったく反応なかったから。悪いとは思ったけど勝手に入らせてもらったわ。そしたら、あなたが変なことしてるものだから驚いちゃった」 


「ご、ごめんなさい。あの箱から音がしましたので、不思議で」


「ふふ。あれはね、スピーカーって言って、別の場所から音を伝えるための道具。朝の七時になると音楽が流れるようになってるわ」


「じゃあ、みなさんの部屋にも?」


「ええ、私の部屋にもあるわよ」


「新しく来た人によく質問されることだけど、椅子まで使って見てた人はあなたが初めてね」


 笑顔で言われ、カチュアの顔が一気に赤くなる。


「私はキト。第五期生だから、二年生。あなたより一年上の学年になるわ。よろしくね」


「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします。私は、」


「カチュアでしょ、シナから聞いてる」


 キトは小柄な子でカチュアより頭一個分くらいの背が低い。

 赤みがかった長い髪を左右で結んでいる。髪は丹念に手入れをしているようで、窓からの微風にさらさらと揺れていた。

 大きな瞳のせいもあり、その顔立ちからは幼さが前面に表れている。


「ねえ、カチュアって何歳?」


 自分との雰囲気の違いに、キトも聞かずにはいられない。


「十四歳です」


「じゅうよん? なんで!?」


「なんでと言われましても……年齢ですから、私にはどうしようも……」


「そういう意味じゃなくて。普通はね、この学院には十二歳に入学して十六歳に卒業するの」


「……そうなのですか?」


「そうなのです!」


 と、カチュアの口調がキトにうつってしまう。


「でも、私は何も聞いていません」


「そうなんだ。でもよかったわ。こんなに大人っぽい子が私より年下だったらショックだもの」


 キトは安心したように胸を撫で下ろすが、はたから見れば、その差が一年で縮まるとは到底思えない。


「今日はどこに行くように言われてるの?」


「九時までにA3教室の前で待っているようにとライザ様が……」


「やっぱり」


 キトはうんうんと自分だけで納得する。

 何のことだかわからず困惑気味のカチュアに、キトは、A3が第六期生の教室であることを説明する。


「普通は有り得ないことなのよ。だって、ランク持ちって、国かシリウスに必ず報告しなくちゃいけないっていう決まりになってるから。つまり、あなたがその年齢まで、知られずにいたってことは稀なことなのよ、すごく。今まで話に聞いたことがないもの」


 カチュアにはキトの話の半分もわかっていなかった。ランク持ちやシリウスについて、その他にも知らないことが多くある。


「そう言えば、カチュアのランクは?」


 ランクとは魔法の才能のことであると、シナが説明してくれたことを思い出す。


「シナさんにも昨日同じことを聞かれたのですけど、私は自分のランクというものをまだ知らないんです」


「そうなの? じゃあ、今日教えてもらえるかもしれないわね」


「はい」


 壁掛け時計が七時半過ぎを示していた。

 カチュアは、朝食が八時からだというシナの言葉を思い出して、自分がまだ寝巻き姿のままであることに気づく。

 一方のキトは、既に学院のローブに着替えている。

 カチュアの考えていることに気づいたのか、


「ごめんね。私、シナに頼まれてあなたを起こしに来たんだったわ。八時から朝食だから……あと三十分もないけど、それまでに用意をして一階の食堂に来てね」


「わかりました」


「洗面所は部屋を出て右の突き当たり。鏡台の引出しの中に櫛とかがひととおり入ってるから。本当にごめんなさい」


 キトは、二度寝しちゃだめよと言い残して、部屋を出て行った。



*****



 食堂には大勢の生徒がいた。

 円形のテーブルに、四脚の椅子。それのセットが規則正しく並んでいる。昨日カチュアがシナに案内されたときには誰もいなかったので広く思えたが、多くの席が埋まってしまうとやや手狭にさえ感じられた。ほとんどの子どもたちがローブ──制服姿だったが、中には寝巻きを着たまま食事をしている子もいた。


 生徒たちの賑やかな話し声が食堂の隅々までを満たしている。

 男女の比率は四対六くらい。宿舎で働いている者たちを除けば、シリウスへの入学を許された十二歳から十六歳までのランク持ちの子どもだけが、ここで食事を取っている。大人の姿はない。

 カチュアは列に並び、前の生徒と同じようにトレイを手にとる。そして、見よう見真似でパンやスープなどの朝食を載せていく。


「カチュア! こっちこっち!」


 食事を取り終えて空いている席を探していると、キトが大きな声で名前を呼んだ。食事中の何人かの生徒が二人に視線を向けたが、すぐにまた各々の会話に戻る。

 すでにキトは食事の半分を平らげていた。

 カチュアは向かいの席について、スプーンを手にする。湯気の立っているシチューをすくい、一口飲む。


「……おいしい」


「でしょー? シナが作ってるのよ、これ」


 カチュアはあまりの美味しさに一品ごとに感激し、キトに感想を言う。焼きたてのパン、鴨肉のシチューとサラダ、それにピザが一切れ。どれも食べたことのある一般的な食べ物だったが、これまでカチュアが口にしてきたものとはまったく違う味がした。美味しい。誰かにその美味しさを伝えたくなるほどに。


「……」


 だが、そのことは同時に、自分のこれまでの暮らし──いかに貧しい生活をしていたのかをカチュアに思わせた。


「どうしたの、カチュア」


「……お父さんやお母さんにも食べさせてあげたくて」


 スープをすくう手を止め、カチュアは瞳に悲しみを浮かべる。キトはまだ温かいロールパンを手で細かくちぎり、そのひとつを口に運びながら、


「大げさね。たしかに家庭の食事よりは美味しいかもしれないけど、街にいけばもっと美味しいものがたくさんあるわ」


 キトの明るい口調に、カチュアもようやく笑みを返す。


「それにね、ここ頑張って優秀な成績を残して、いい仕事に就いて両親をクライトに呼んであげればいいじゃない。この街ではね、女だって優秀なら男の人と同じくらいのお給料で働くこともできるんだから」


 カチュアは両親と一緒にクライトに住み、美味しい食事を食べ、毎日を幸せに暮らすことを想像してみた。

 それはとても素敵なことに思えた。


 でも、それは、もう叶うことのない願いだった。


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