見覚えのない彼女

平中なごん

一 見覚えのない女

「――ねえ? あたしのこと覚えてる?」


「…う、ううん……」


 見知らぬベッドの上で目を覚ますと、俺を見下ろす一人の女性が囁くようにそう尋ねた。


 ぼやけていた視界が鮮明になってくると、非常灯しか点いていない薄闇の中でも彼女の容姿が見てとれるようになる……。


 白いナース服を着ているのでどうやら看護師のようであるが、どこか妖艶な色気を感じる妙齢の美しい女性だ。


 ということは、ここは病院か?


「ねえ? あたしのこと覚えてる?」


 その美人看護師が、寝ている俺の顔を真上からじっと覗き込み、重ねて同じ質問を投げかけてくる。


「君は……うくっ…!」


 記憶を手繰りながら起き上がろうとすると、頭に激痛が走る……手をやってみれば、まるでミイラ男のように包帯でぐるぐる巻きにされていた。


 俺は、怪我をしているのか? ……でも、なんで……?


「あなた、ビルから落ちて頭を打ったのよ。思い出した?」


 俺の疑問に答えるかの如く、美人看護婦がそう教えてくれる。


 ……だが、思い出せない。どうしてビルなんかから落ちたのだろう?


 それに、彼女は自分のことを「覚えてる?」と尋ねたが、彼女はただの看護師ではなく、俺の知り合いか何かなのだろうか? ……まったく記憶にない。


 ……いや、覚えてないのは怪我や彼女に関してばかりじゃない。もっと根本的なところから記憶を失っている。


「俺は……誰なんだ?」


 ズキズキと痛む頭を押さえながら、俺は愕然とベッドの上でそう呟いた。


「やっぱり医者のいう通りだったわね。頭を強く打ったショックで記憶喪失になったそうよ。その様子だと、あたしのこともすっかり忘れちゃってるのかしら?」


 その疑問にも、やはり美人看護婦が訊いてもいないのに答えてくれる。


 記憶喪失? ……そうか。俺は記憶を失っているのか……。


 薄っすらと覚えている直近の記憶は、頭の怪我の処置をしてもらいながら、朦朧とした意識の中で救急救命士にあれこれ質問されている場面だ。あの時も何も思い出すことができず、まったく答えられぬまま意識を失ったんだった。


 俄かには信じられないが、俺の置かれたこの状況は明らかにその、話にだけは聞いたことのある症状なのだ。


 まさか、自分がその記憶喪失になるとはな……ほんとに自分が誰なのか? まったく以て思い出せない。


「あなたの本名は佐々木ただし。でも、あなたにはもう一つ名前があるわ……その筋での呼び名は〝ヒトキラー〟。人斬りとヒットマンをかけた愛称ね。そう。あなたは殺し屋なのよ」


 だが、続けて看護婦はさらにショッキングな俺の正体をさらっとその口にしてくれる。


「こ、殺し屋!?」


「ええ。それも凄腕のね。でも、ある外国政府高官を暗殺しようとしたところ、公安に邪魔されてビルから落ちたっていうわけ」


 俺が……殺し屋? 記憶喪失以上に信じられない事実だ。


 ……いや待て。仮にそれが本当のことなのだとしても、そんな秘密をどうして彼女は知っているんだ? いくら入院患者だからって、一介の看護師に公安警察がペラペラ事情を喋るとも思えない。


「……君は……誰だ?」


 頭上の薄闇に浮かぶ美しい顔を睨みつけると、俺は徐々に浮かんでくる疑念と警戒心を以ってそう尋ねた。


「ウフフ…怖い顔。でも安心して。あたしは岡田伊代いよ。あなたの恋人よ。仕事のパートナーでもあるわ」


 すると、彼女は可笑しそうに妖艶な笑みを浮かべ返し、またも驚くべき答えを口にしてくれる。


 俺の恋人? ……ダメだ。自分の正体同様にさっぱり思い出せない。


「でね、大怪我負ってこの病院へ担ぎ込まれたあなたを助けるために、看護婦に変装して忍び込んだの。こんな容態じゃさすがに逃げられないだろうとやつらも油断しているわ。警備はゆるゆるよ?」


 大切な人のことまで忘れている自分に少なからず衝撃を受けている俺を他所よそにして、その恋人を名乗る看護婦はさらに話の先を続ける。


「さ、早く! 監視が席を立ってる今がチャンスよ!」


 そう言って俺を急かすと彼女は背中に手を添え、本物の看護師よろしく俺をベッドから起き上がらせた。


「…っつ……」


 起き上がると、頭ばかりでなく体のあちらこちらにも激しい痛みが走る……見れば、入院着を着せられた体のそこここにも包帯やら脱脂綿やらで手当てが施されている。


 まあ、ビルから落ちたんじゃあ、これぐらいの怪我して当然だろう。むしろ、死ななかったことの方が不思議なくらいだ。


「外に車が停めてあるわ。傷が痛むでしょうけど少しの間辛抱して」


「あ、ああ……」


 ともかくも、彼女の話が真実ならば、俺は怪我をして記憶を失った上に公安警察の監視下に置かれていることになる。当然のことながら、このまま捕まるのはまっぴらごめんだ。


 俺は看護婦に肩を貸してもらいながら病室を出ると、静まり返った薄暗い病棟をなるべく足音を立てないよう歩き出した――。

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