第24話 ときめき


「よく来られた。昨日の話で頭の中はいっぱいと思うが、今宵はいくさのことはいったん忘れて寛がれよ」

 武田太郎義信は力強くそう言って、いつもの豪快な笑みを浮かべた。

 軍議の翌日、勝悟は勝頼と共に高遠にある義信の屋敷に招かれた。

 信玄の本拠移動に伴って甲斐を任された義信は、謀反の疑いをかけられぬように、月に一度のペースで信玄に会うために高遠にやって来る。

 それだけではなく、義信の愛妻嶺松院れいしょういんと娘のこうは、人質として高遠に住んでいる。この屋敷は義信の月に一度の来訪時と、義信の妻子が住むために、信玄が用意して与えたものだった。


「兄上こそ月に一度の甲斐と高遠の往復に加え、嶺松院殿と別れて暮らせねばならない不自由、ご苦労が絶えないこととお察しいたします」

 同じ信玄の子でありながら、常に二心ないことを証明し続けねばならない兄に、勝頼は心から同情しているようだ。

「何の、今川と戦わねばならないと思っていた頃に比べれば、今の不自由など苦労の内に入らぬよ。それにわしは一所にじっとしているのが苦手な性格ゆえ、月に一度のこの旅も実は楽しみの一つになっている」

 確かにアグレッシブな性格の義信は、甲斐でじっと政務をしている方が辛そうに思える。

 旅の間、政務から解放されてのびのびとしている義信の姿を想像して、勝悟は思わず笑顔になった。


「ところでわしは時々忍びで駿府に行っておるのだが、街に凄まじい勢いを感じた。駿府の民には自分の生を楽しむ明るさがある。古府中もそうありたいと思っておるのだが」

 元々明るい性格の義信には、駿府の都会的で華やかな雰囲気が余程気に入ったのだろう。

 楽しそうに語る姿に、勝悟は一抹の不安を感じた。

「確かに平和な世であれば駿府の施政は理想的だと思います。しかし今は戦乱の世です。駿府の発展は、武田の兵士たちが流した血の上に成り立っていることを、忘れてはなりません」

 つい、家中の年寄りたちのいうようなセリフを言ってしまった。

 ところが、義信は顔を引き締めて、感銘したかのように頷いた。


「お主の言う通りだ。実は嶺松院れいしょういんも同じことを言ってたよ。今川の発展は武田の犠牲の上にあると。口だけではなく、氏真殿に資金を融通してもらって、戦で夫を失った女たちのためにと、高遠に機織り所を作り始めたようだ。母親が働く間、子供たちの面倒をみる場所も作ると申しておる。やがては甲斐にも同じものを作ると張り切っておるよ」

 単なるお姫様だと思っていた嶺松院の意外な行動力に、勝悟は目を見張った。今川の血筋は戦以上に施政に関しての才能と意欲が、尋常ではなく強いようだ。このようにして育った武田の子供たちが今川に恩を感じ、武田と今川の結びつきを嬉しく思うことで、今後の両国の関係はより強固になる。


「兄上が益々ご壮健で、この勝頼も頼もしく感じます。織田とのいくさも心おきなく命をかけましょうぞ」

 勝頼が今日一番の嬉しそうな顔を見せた。一時不仲と噂され悩んだ時期もあったが、出陣前にこうして屋敷に招かれ、腹蔵なく話せることが余程嬉しいのだろう。

 ところが、義信は少し難しい顔で勝頼を見つめた。


「それなんだが、今度の戦い、お主にはあまり前面で戦って欲しくない」

 意外な言葉だった。弟に手柄を立てさせたくないと思ってではないことは、今迄の会話の流れからしても明らかだ。

「なぜでございますか?」

 戸惑いながら勝頼は理由を訊いた。


「実はお館様のご加減があまりよくないようなのだ。幼いときから父の顔色を窺っていたわしにはよく分かる。あれは単なる疲れなどではなく、間違いなく身体のどこかを患っておられる」

 前の世界の歴史では、信玄は結核でこの時期に世を去っている。結核に過労は良くないというが、今の立場ではゆっくり休むこともままならないだろう。

 そういえば今日の軍議でも、信玄の肌が異様に白かった覚えがある。もしかしたら、あれも結核の症状かもしれない。


「もしこの度の戦陣でお館様に万一のことがあれば、戦は非常に難しい判断が求められる。勝っていても負けていてもだ。だからお主にはできるだけ、前線に立たずにいて欲しい」

「なぜでございます。もし万が一が起きたとしても、兄上がいらっしゃれば問題ないではございませぬか。私などより、兄上こそ御身を大事にしていただきたい」

「そうしたいのはやまやまなのだが、そうもいかぬ事情がある。わしが先頭に立たねば、甲斐の国人衆は激戦地に信濃の兵を送ろうとするだろう。わしはそういう作戦を取りたくない。共に戦う気持ちこそ、犠牲を最小限に抑える近道だと思わぬか」

 戦国では征服された国の兵を犠牲にする力押しはしばしば取られた。甲斐においてはその気風は特に強かった。


「それは……」

 その気持ちは信濃出身の母を持つ勝頼も同じ思いだった。

「だからわしは先頭に立つ。だが、そう易々と討ち取られはせぬぞ」

 義信は男らしく笑った。

 その笑顔はその場の者に勇気を与える英雄のそれだった。

「だがな、わしは織田信長という男に得体の知れない危険を感じる。あの今川義元さえ、大軍を擁しながら敗死したのだ。だから万が一のために、そなたは無闇に前に出るな」

 信頼する弟だからこそ託せる思いだった。

 勝頼は言葉もなく、ただ頷いた。

 勝悟は絶対に義信を死なせないと、心に誓った。



「あら、ずいぶんしんみりとなさっておられるのですね」

 嶺松院が侍女に料理を運ばせて入ってきた。

「少し小腹がお好きかなと思って蕎麦を運ばせました」

 当時はまだそば粉を水や湯で溶いたものを茹でた『そばがき』が一般的だったが、ここ信州ではすでに細く切られた『そば切り』が登場している。

「おお、ちょうどいい頃合いだ。さあ、食おう」

 義信は生来明るい性格なのか、深刻な雰囲気を変えようと、積極的に椀を回す。


 勝悟は氏真によく似た嶺松院の細いおとがいを見ながら、この美しくて気の付く女性を泣かすことにはしたくないと心から思った。

「うん、そこにいるのは光か? そんなところにいないで入ってこい」

 義信は襖の向こうにいる女性に、気軽に声をかける。

「よろしいのですか?」

 鈴の音のような凛とした声がした。

 勝悟は入ってきた女性を見て、思わず口をだらしなく開けたまま硬直してしまった。


「やあ、光殿ではないか。大きく成られたのお」

 勝頼が相好を崩して光を迎え入れる。

「叔父上もご壮健のようで何よりです」

 義信が身体が固まったまま、目だけで光を追っている勝悟に気づく。

「勝悟は初めてだったな。紹介しよう。娘の光だ。光、こちらは真野勝悟殿、お前の母の実家である今川と武田の同盟を守った影の立役者だ」

「光でございます。母を悲しみから救っていただき、ありがとうございました」

 光に見つめられ、勝悟の心臓が早鐘を打つ。


「私からもお礼を言います。兄の愛している駿府の街を戦火から救っていただいた上、兄の働き場所まで用意していただきました。兄からの文で真野殿のお働きは、つぶさにお聞きしております。文の中でまさに今孔明と兄はしたためておりました」

 嶺松院は美しい瞳を真っ直ぐに勝悟に向けて、心のこもった礼を述べた。

「そうか、氏真殿は勝悟を孔明になぞらえたか。そうよのう。勝悟は正に武田の伏龍だ」

 勝頼も嬉しそうに嶺松院の言葉に追従する。

「わしもそう思う。これだけの難局にあってさえ、先の心配を振り払えるのはまさに勝悟の智謀があってこそだ」

 義信まで例の屈託のない笑顔で褒めちぎる。


 ところが、皆の誉め言葉は勝悟の耳に届いてなかった。いや、正確には聞こえてはいるのだが、言葉の意味を頭が理解していなかった。

 目の前の二人の女性の美しさと気品に心奪われて、義信や勝頼の存在は勝悟の頭から消えていた。特に光は美しい上に穢れを知らない気高さを備え、見ている勝悟の心を妖しくかき乱す。

 本当のお姫様はかくあるべきと、勝悟の理想が現実になっていた。

 光が入って来てから、勝悟から何の言葉も出ないのに勝頼が気づく。


「勝悟、どうしたのだ? 酒が回ってしまったか?」

 心配そうに勝悟の顔を覗き見る。

 勝頼の顔を視界に捉え、勝悟の頭にやっと二人の存在が戻って来た。

「はい、もうしわけありません。気がつくとだいぶ酔っておりました」

 勝悟が慌てて取り繕う。

「気にしなくていい。深刻な話が続いたゆえ、気を張ったのであろう。今宵は存分に酔われよ」

 勝悟は心のざわめきの真の理由を、幸いにも義信には気付かれなかったので、少しずつ平静を取り戻していった。勝頼は何か気づいたようだが、野暮なことは口にしない。

 ここに秋山信友がいなくて良かったと、心からそう思った。いれば暗に揺さぶられ、あらぬことを口走ったかもしれない。


 酒宴は進むが、話に集中できない。勝悟の関心の全ては、光の動きに囚われていた。光の視線、口の動き、身体のよじれ、指の動き、全てが勝悟の気持ちを揺らす。

「ところで、光殿も十七才になったのだから、そろそろ嫁入りの話もあるのではないか?」

 勝頼の何気ない問いに、勝悟は胸が苦しくなる。

「それが、母の真似をして、戦いで父を失った子供の世話に夢中で、縁談の話に見向きもしない。最近は子供たちの健康のためにと、道順先生に師事して医の真似事迄しておる」

 道順先生とは山本道順、信玄の掛かり付け医師である。

「私は一人の人の妻として生きるよりも、家の犠牲になった大勢の人たちのために、尽くしたいと思います。嫁ぐなら父上のように、そういうことを認めてくれる方でないと嫌です」

 暗に父のような男がいいと言われて、義信はそれ以上言えなくなる。


「ホホホ、本当に好きな男性ひとができれば、言うことも変わりましょう。お家が許す限りは、好きなことをさせればよろしいではありませんか」

 大名の血筋であるがゆえ、政略結婚の呪縛からは避けられない。自らもこの習いに従った嶺松院だからこそ、自由にできる間はさせてやりたいという親心が見える。


「今は隣国に適当な相手がおらぬゆえ、当分はそういう話もないだろう」

 勝悟の気持ちに気付いてか、勝頼が嶺松陰をフォローする。

 二人の言葉に、光の表情が和らいでいく。

 それを見て、勝悟は幸せな気持ちになる。

 戦乱の世に流れ着いてから、夢中で戦ってきた勝悟の心に、初めてときめきが訪れた瞬間だった。

 生まれて初めて欲望ではなく、側にいることを女性に求めた。

 大人への階段に足をかけ、駆け足で登り始める。


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