第21話 喜悦
曳馬城に近づくと、一面は前が見渡せないほどの土砂降りの雨だった。
それでも騎馬隊は速度を落とすことなく全力で走る。騎馬隊を率いる小助の心中は、何としても
途中で会った伝令の話では、曳馬城を落とした信玄の本隊は、掛川城の落城を心配して既に徳川軍を目指して東に進軍したと言う。
これから全速力で追いかけても、開戦には間に合わず
一つはこのまま戦場に駆け付け、戦いに参加することだが、時間的に戦いは終わっている可能性が高い。そこでもう一つの選択が浮上する。
味方の勝利を信じて曳馬城でいったん身体を休め、落ち延びて来る徳川兵の追撃に参加する案だ。
一見、後者の案が無駄なく合理的に思えるが、難点が二つある。
まず追撃するには、兵の数が圧倒的に足りない上、この戦いの目的は徳川軍を撤退させることで、家康を殺すことではない。
今川への脅威を無力化してしまっては、当初の目標である遠江への軍の駐留ができなくなってしまう。
それ以上に有利な状況とは言え、信玄の安否が心配だった。桶狭間の例もある。
勝悟は小助を総大将とする飛騨攻めに加わっていた。飛騨は山国なので歩兵を中心に二千の兵を編成し、保科正直など若手の将がこれに随行した。
飛騨北部の
飛騨は大軍が往来できる道がほとんどなく、二千の兵でも行軍は縦に長く伸びた。従って、守る側にとっては奇襲をかけるポイントが多く、正に守りやすく攻めにくい土地だと言える。
武田軍は姉小路軍の度重なる奇襲に手を焼いたが、小助の指示を守って各小隊長が冷静に対処し、被害を最小限に抑えながら順調に進軍した。
今回の飛騨侵攻は、あくまでも徳川を遠江に引きずり出すまき餌のようなものだ。だから桜洞城の落城は急がなくても良かったが、城を包囲すると姉小路嗣頼はあっさりと降伏した。越中に上杉軍が侵攻していることから、いずれは大勢力に属さなければならないと、覚悟を決めたのだろう。
今、美濃に戻ってしまっては、徳川の遠江侵攻の可能性は遠のく。かと言って上杉軍のいる越中への侵攻には兵が足りないし、そもそも越中迄進軍してしまっては、徳川軍が遠江に出て来たときに追討軍に加われなくなる。
飛騨に駐留する口実を探していたら、嗣頼の嫡男頼綱が城を出て対武田のゲリラ戦を始めた。頼綱の妻は今は亡き斎藤道三の娘で、織田信長とは相婿の間柄になる。武田より織田の方が心的距離も近かったのだろう。
武田軍は頼綱軍の掃討を理由に飛騨に留まった。
だが、この頼綱軍が手強かった。
地の利を活かしたゲリラ戦に武田軍は何度か小さな被害を受け、探索の手を強化しても頼綱の本拠地が掴めない。
ゲリラ軍の鎮圧の目処がつかないまま、徳川軍の遠江侵攻の報を受けた。
桜洞城が落城する前なら全軍撤退も問題なかったが、この時点で全軍撤退してゲリラ軍に城を奪い返されることは避けたい。
やむなく正直が兵千八百と共に飛騨に残り、小助と勝悟は騎馬二百を率いて、急ぎ信玄の率いる援軍に合流することに決めた。
飛騨から遠江迄二百二十キロを全速で進みながら、勝悟は整備された道のありがたさを再認識した。道が広くて路面が整備されていれば、行軍スピードが上がるだけではなく、兵の疲れも格段に違った。これなら行軍の疲れで士気を損なわずに済む。
軍事でも経済でも、これからの主要戦略は道の整備だと確信する行軍となった。
「右翼が酷い混戦に成ってますね」
勝悟たちは戦場の後方三百メートルのところまでやってきたが、既に激戦になっている
小助は戦人らしく細かく戦況を確認していた。
「どうやら、家康の本陣は右翼を突破して、戦場から離れたようだ。今残っている敵は陣形は整ってないが、死に物狂いで戦っている。被害を抑えるために、お館様は少し手綱を緩められて、敵に逃げ出せると希望を与え、士気を落とすように仕向けられるだろう」
戦は小助の予言通り、武田軍が包囲を緩めた隙をついて、敵が南北に逃走を始めた。信玄は敵が逃げられると、希望を見つけこちらに完全に背を向けた頃合いで、追撃戦の指示を出した。
確かにこちらの方が味方の被害は少なく、敵も討ち取りやすいだろう。敵の総大将はもう戦場にいないのだ。
「鮮やかです」
勝悟は戦況を見ながら、信玄の見事な采配とそれを予言した小助に賞賛を送った。
「だが、まだ生きてる隊が一つだけ残っている」
小助が見つめる先には、たった一騎の騎馬が高い運動能力で、味方の隊と隊の間隙を貫くように駆け抜け、痛撃を与え続けている。
黒馬に乗った騎馬武者は、その槍を振る度に味方の陣に隙間を生んでいた。それは黒い頭の鳥が、大型の獣を相手に飛び回りながら戦っているように見えた。
降り続く雨が、味方の目からその騎馬を隠し、大型の猛獣が飛び回る蠅に翻弄されているように見えた。
「危ういな」
黒馬の武者が信玄本陣の裏に抜けたとき、小助が呟きながら弓を手にした。
大方の味方が逃走に入ったのを見届け、その武者が一人で逃げる味方と離れ、信玄の背後に回り込んだ来たのだ。
勝悟の目にはその黒馬の武者と信玄の間に、突撃の道が開けたように見えた。
間髪入れず勝悟はその黒馬の武者に向かってかけ始めた。頭で考えたのではなく、自然に身体が動いたのだ。
黒馬の武者も信玄までの道が開いたことに気づき、疾走を始めている。このままでは間に合わないと思った瞬間、小助の放った強力な武気を纏った矢が勝悟の横を走った。
豊富な運動量で戦場を席巻していた黒馬の頭が射抜かれた。
馬上の武者が地面に投げ出される。
勝悟は槍を振り上げて、地に落ちた武者を貫こうとした。
勝悟と武者の間に、一頭の騎馬が立ちふさがる。
やむなく間に入った騎馬を一刀両断すると、次の騎馬が駆け寄り、自分の馬をその武者に与えた。
「お逃げください」
目の前で自分の馬を与えた武者が叫び、そのまま自分に向かって突っ込んで来る。
勝悟は止む無くこの武者も槍を振るって斬り倒した。
強力な勝悟の武気に包まれた槍は、高出力のレーザーのように甲冑ごと武者の身体を切り裂いていく。
その間に黒い馬の武者は、馬を乗り換えて走り去って行った。
背後で討ち取れと、信玄の怒声が響く。
何本もの矢がその武者目掛けて放たれたが、どれも当たることなく武者の姿は小さくなっていった。
「華のある武者だったな」
いつの間にか小助が傍まで来ていた。
「はい、敵ながら見事な武者ぶりです」
「しかも、味方だけでなく馬にも愛されている。見ろ。わしが射た馬の死顔を」
確かに黒馬の死顔は、十分に戦って主人を守った誇りに満ちているように見えた。
「はい、このような関係でいたいものです」
勝悟は薄墨を溶かしたような毛色の愛馬の背を撫でた。
「この戦いは徳川の脅威を今川に知らしめて、残しておくことにあったから、戦略的な目的は果たしたのだな」
「そうです。家康が健在であることで、遠江への軍の駐留と駐留費の折衝が可能になりました」
敵の大将を取り逃がし、将来の禍根と成りそうな武者を討ち漏らしたにも関わらず、勝悟は上々の出来だという。
小助は既に自分たちの
目の前の氏素性の分からぬ若者が、武田を導いてくれる神からの贈り物のように思えた。
その勝悟自身は、
描いた絵図通りに進んだ戦ではあったが、その過程はまさに紙一重。もし、信玄が死なないまでも深手を負うようなことがあったら、遠江への軍駐留どころではなくなってしまうところだった。
「人中の呂布か……」
「どうした?」
勝悟の呟きに小助が気づき、すかさず意味を訊いてきた。
「信友殿の教えです。あの武者のような存在が、戦の様相を一変させる。寸でのところで、戦に勝って勝負に負けるところでした」
「だが、とりあえず阻止した。我らは桶狭間の今川とは違うと、今は思おう」
本当にそうなのか――。
勝悟は桶狭間を成し遂げた織田信長という人物に、謙信やあの黒馬の武者とは違う、得体のしれない強さを予感して武者震いした。
この世界に来て七年が過ぎた。
その間、前の世界に戻りたいと思ったことは一度もなかった。
確かに家族や友人のことを思い出すことは多いが、それ以上の人との出会いがあった。
何よりも、この世界は自分の存在によって、確実に前の世界とは別の未来に変わりつつある。
元いた世界の歴史では、三年後に今川が、そして十二年後にはこの武田が滅亡する。信長が築いた天下への道を秀吉が引き継ぎ、最後には今敗走した家康が手に入れる。
それが今少しづつ軌道を変えつつあるのだ。
これほどの満足感が他にあろうか。
今、頭の中に差し込んで来る新たな光を感じる。それは少しずつ勝悟が作り出そうとする新しい世界の形に変り始める。それはまだ光に近くて朧気であるが、確実に形を成そうとしているのが分かる。
(あせるな。ゆっくりと形を成せばいい。まだ知らないことが多すぎる)
勝悟は心の中で何度もそうささやく。
それでも、新しい世界を描こうとする力は、勝悟を新しい出会いと気づきに急き立てる。
頭の中にある光は渦を巻き、発散と縮小を繰り返しながら、何らかの形に成ろうとしているのだが、パーツが足りなくて形に成れないでいる。
もしかしたら、寿命があるうちにそれは形に成りえないかもしれない。
(この命がある限り、形をなすために働き続けろ。この世界に来た幸運は、働き続けなければすぐに色褪せるはずだ)
勝悟は槍を握る手に力を込める。
このときの勝悟の目には、王者の誇りが宿っていた。
それは創造者だけに与えられる孤高の精神の表れだった。
勝悟の心は歓喜に包まれている。
もはや、地位も名誉も人を愛する喜びさえ、心を躍らすことはできない。
ただ、創造する喜びだけが心を揺さぶることができるのだ。
「勝悟、どうしたのだ」
小助の呼ぶ声で現実の世界が広がり始める。
「やりましょう、小助殿。この世界を新しい世に作り替えましょう」
小助は言葉の意味を掴みかねていたが、それでも勝悟に対して築かれた信頼感が、無意識に頷かせていた。
「まだ始まったばかりです。この命尽きるまで止まりませぬぞ」
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