第14話 バカ殿様


 勝悟と正直は小姓の案内で、およそ二十畳程度の広さの部屋に入った。下座に座ろうとしたが、小姓にこちらにどうぞと入り口側を指示され、これが今川の作法かと勝手が分からぬまま着座した。


 小姓は二人が落ち着いたのを見届けると、やおら反対側の障子に向かい、一気に開け放った。

「おおっ」

 思わず声が出た。障子の向こう側には、庭園の木々が紅葉の兆しを見せながら、色鮮やかに美しい風景を織りなしていた。

 隣では正直もその美しさに心を奪われたかのように、まるで痴呆のように隙だらけのていで見つめていた。


「もう少し遅い時期なら、緋色の本格的な紅葉をお見せできましたが、氏真様は最も美しくなる前の今の姿こそ、変身を遂げようとする木の意志が見えるようだとおっしゃいます」


 なるほど、この景観にこれほどまでに惹かれるのは、全てを観る前のチラリズムに、脳が妄想を掻き立てられるからか。勝悟は思わず現代の男性誌などで使われる手法を思い出して、妙に納得した。


 それにしても、氏真の表現力には驚きを禁じ得ない。よほど繊細な感覚が無ければ、単に美しさだけに心奪われて、木の意志などと詩的な表現を思いつくものではない。

 やはり文化面においては当代きっての才人であると認めざるをえない。

 目通り前に、不覚にも一本取られた気がした。


 今川氏真とは一体どんな人物なのか――益々興味が高まる中で、背後の襖が開いた。

 入ってきた男は寿桂尼に一喝されたイメージとはまるで違う、均整の取れたアスリート体形の身体だった。

 少し背を屈め、身体全体から謝罪の意思を発しながら、目の前に着座する。


 駿河の太守が無造作に現れたことに気づき、勝悟たちは慌てて平伏した。

「ああ、いいです。顔を上げてください。今日はあなたたちが私を、問い詰めに来たのでしょう。あの折は真に申し訳ございませんでした」


 いきなりの謝罪に再び意表を突かれ、勝悟は慌てて顔を上げた。

 目の前の氏真は、涼やかな目許と細い鼻梁の細面で、身体とは対照的に顔の小さな男だった。

 信玄、義信と続けさまに押し出しの強い大きな顔を見て来ただけに、目の前の男が本当に東海一の弓取りと謳われた、今川義元の跡取りとは信じられなかった。


 勝悟と正直が顔を上げたのを見て、今度は氏真が深々と頭を下げた。

「この度の一件、今川に敵意を示されたわけでもないのに、勝頼殿の命を狙ったことを深く謝罪いたします」

 謝罪の言葉を述べると、後は何の言い訳もせず、氏真はただ黙って頭を下げ続けた。


 その姿に勝悟は慌てた。

 勝頼の暗殺未遂を問いただすことは、今回の目的ではない。

 それが目的なら自分たちのような身分の者ではなく、武田の親族か宿老クラスが来るはずだった。

 今回の来訪は、あくまでも駿河専売所の開設にあたっての確認が目的だ。

 それにしても自分たちに対して、素直に頭を下げる氏真の真意が読めず、勝悟は同振舞うか迷ってしまった。


 戸惑いながら躊躇している勝悟に代わり、正直が口を開いた。

「頭をお上げください氏真様。我々は決してあなたを責めに来たわけではございません」

「本当に? では何のために参られたのじゃ?」

 氏真は頭を上げて、改めて来訪目的を問い直した。


 その駆け引きの感じられない無邪気な顔に、勝悟は危うさを感じた。これでは信玄と渡り合うなど到底無理だ。他に奪われる前に駿河を手に入れようと、信玄が思っても無理はない。


「我が信濃の名産を、駿河にて販売する許可をいただきに参りました」

 勝悟が他のことに頭の中を囚われている間に、正直がてきぱきと来訪目的を告げてくれた。

「専売所の件か? それは既に許可済みのはずだが……」

 氏真は要領を得ない顔で、再度来訪目的を確認してきた。


「今度の専売所開設にあたっての税と、物品の運搬で駿河国に入国する際の税を無税にして欲しいのです」

 ようやく勝悟が本題を切り出した。今ならこの要求もさしたる抵抗もなく通ると、確信したからだ。


 ところが、今度は氏真が困惑した表情を見せた。

「武田殿は商売をしに来るのであろう。駿府においては、どこの国の商人が来ても自由に商売ができる。そのために二年前に座も廃止させた。今では京、堺、小田原、越後、それに尾張の商人まで、自由にここで商売をしている。関所もとっくに廃止しておる。そなたたちはここに来るまでに気づかなかったのか?」


 隣で正直がはっとしていた。実際に関所を見たことがない勝悟はともかく、正直は常に違和感を感じていた。しかしそれを政策とは考えず、国政の緩みと捉えていたようだ。


「何とも大胆な政策でございます」

 衝撃が大きかったのか、正直はやっとそれだけ口にした。

「何のことはない。おかげで駿府ではいろいろな国の産物が安く手に入るし、人も集まって来るから旅籠や料理屋も繁盛する。駿府に家を構える者も出て来た。それらの住人から少しだけ税をとることで十分じゃ。最近では利が上がった商人が進んで寄付をしてくれる。わしがその金を道路整備や街並みの整備に使うことを知っておるからじゃ」

 誇るわけでもなく、道理を淡々と説明する氏真は経済学者のようであった。


「しかし、他国の者があまり多く集まっては、治安上の不安が尽きませぬ」

 正直は当時としては、常識的な懸念を指摘した。

「そんなことはないぞ。人が集まって仕事が増え民が豊かに成れば、民はわしのことが好きに成る。そうなれば民の方が国を良くしようと思うから、かえって治安は安定する。わしは戦いが嫌いで国を大きくできぬ代わりに、今治めている国は穏やかで豊かにしたいと思っておる」


 しかし今は戦国の世ですぞと正直が言いかけたとき、氏真が何かを思い出したのか、ポンと手を打って話し始めた。

「そう言えば、尾張のうつけ殿も同じようなことをしているらしいぞ」


(関所撤廃に楽市楽座か)

 歴史の教科書には必ず掲載される信長の主要政策だ。

 自由経済の原理を肌で知った男だからこそ取れる政策と言える。

 それにしても、氏真の「うつけ殿」という呼び方には悪意が感じられない。むしろ仲の良い悪友の名を呼ぶような響きが感じられた。


「氏真様は織田信長が憎くないのですか?」

 勝悟は思わずこの場には相応しくない問いかけをしてしまった。

 氏真は一転して困ったような風に、端正な顔を歪めた。

「もちろん、父の仇であることは間違いない」

 それだけ言って、押し黙ってしまった。


 勝悟は自分が、触れてはならない領域に踏み込んだことに気づいた。

 氏真の大名らしからぬ気さくな雰囲気に馴染んでしまっていた。

「これは申し訳ございません。他人が触れることではありませんでした。話は変わりますが、氏真様はそのお身体を見ている限り、武芸も相当鍛錬されているようにお見受けしますが、何をされておられるのですか?」


 勝悟は素直に自分の不調法を謝り、最初に感じた疑問を口にした。

 これには氏真も破顔して答えた。

「いや、わしは武芸は嗜まぬ。ただ蹴鞠が好きで、いろいろな技を身につけるうちに、このような身体になってしまった」


 確かに言われてみれば、武術よりもスポーツ選手の体形だ。勝悟は元いた学校の県内でも有名なサッカー選手の身体を思い出した。

「なるほど、蹴鞠で鍛えたのでございますか」

「わしの技は自分でもなかなかのものと思うぞ。戦ではなく毬で国同士が戦うのであれば、わしが天下を取れるものを」


 決して皮肉ではなく、氏真の目は真剣だった。

 全国蹴鞠選手権――思わず甲子園を連想して勝悟は愉快になった。太平の世であれば、それも可能だったかもしれない。


「氏真様、この戦乱の世が平定されれば、戦いも無くなり、全国の代表者による蹴鞠日本一を決める大会の開催も可能でござります。我が武田は最終的に天下を一つにまとめ、戦国を終わらせようと考えておりますが、大事なのはその後と成ります。氏真様にはそれまで息災でいただき、一つになった日ノ本の文化振興に力を振るっていただければと存じます」

 心からの言葉だった。

 氏真ならそれもできると思った。

「おお、わしの蹴鞠の技が役に立つ世が来るのだな。今後今川は、武田への協力に骨惜しみすることはないと約束しよう。蹴鞠の日ノ本一を決める大会、楽しみにしておるぞ」



 氏真との謁見が終わり、勝悟たちは控えの間に通された。そこも謁見した部屋に負けず立派な造りの部屋だった。

 大役を終えた安堵感と、氏真の本来持つイメージと異なる一面を知って、勝悟は自分の政策に確かな手応えを感じた。


 ただ一つ疑問に残っている。

 氏真がなぜ勝頼の暗殺というような愚策を指示したのかということだった。

 今日会った限りでは、氏真は決して勢いを増す武田に嫉妬したようには見えない。

 氏真の価値観は別のところにあることははっきりしている。

 何か飲み込めない肉を無理やり飲み込もうとするかのように、勝悟はモヤモヤとする気持ちを持て余していた。

 そこへ、白装束に身を包んだ初老の男が入ってきた。

 その異様な出で立ちと、死を覚悟したような厳しい表情に、二人は思わず身構えた。


 その男は二人に正対する位置に座り、安倍元真と名乗った。

 元真は今川家の重臣中の重臣であり、勝頼暗殺の直接指示をした男だ。

 勝悟と正直は自分たちに害意があるのではと警戒し、思わず身構えた。


「害意はござらぬ。この衣装は事の次第によっては、わしの命をもって収めようと用意したものじゃ」

 元真の目に嘘は感じられなかった。

 勝悟と正直は警戒を解いて、話を聞く体勢をとった。


「それで今川のご重臣が我々二人に何用でございましょうか?」

 勝悟の問いに元真はカッと目を見開いて二人を見た。

「先ほどの殿との会見、不躾ながら隣の間にて聞いておった。殿があのように楽しそうに話されるのを久しぶりに聞き、たいへん嬉しく思う。ただ、勝頼殿の暗殺の件だけ、殿が言葉を失われていたので、殿に代わって真相を告げるために参った次第だ」


 元真の鬼気迫る表情から、信用しても良さそうだった。勝悟は正直と目を合わせ、同じ思いであることを感じ取った。

「承知しました。お聞きしましょう」

 元真の顔に少しだけ生気が戻る。


「殿は勝頼殿の暗殺を何もご存じではなかった。全てこのわしの独断で行ったことなのだ。それを殿は一人で責を負われた。全てはわしの命を救うためじゃ」

 ようやく、勝悟はことの全貌が見え始めた。


「元真殿は何のために暗殺を指示されたのですか?」

 勝悟は最後の疑問を口にした。この思慮深そうな老臣が、なぜこの軽挙に及んだのか、それを知らねばならないと思った。

 この問いに対し、元真は一瞬口籠った。

 やはりのっぴきならない事情があるようだ。


「殿は、殿は織田信長のことを恨みに思っておらぬ。戦いを仕掛けていったのはこちら側、むしろ織田は命がけで降りかかる火の粉を払っただけのこと。恨むのであればこの戦国の世だと思っておいでじゃ」

「あっ!」

 勝悟がやっと先ほどの氏真の反応に対し、違和感を感じた理由に気づいた。


「それで、家中の方は納得しておられるのか?」

「もちろん、反発しております。戦国の世の当主として器にあらずと、去って行く者も多数出ました。今、残っておる者は殿の民を愛する姿勢に共感する者だけです。為政者として殿は悪くはない」

 確かに両国経営に関する氏真の手腕は革新的ともいえる。豊かな国を作る才能があることは認めざるを得ない。


「だが武田の目が駿河に向いていることは、義信殿に嫁いだ妹君の従者たちによって、知らされておりました。ここで武田に攻められたら、今川は持たない。なんとか武田の目を織田、徳川に向けたかった。それだけでござる」

 全ての謎が解けた気がした。義信は奥方の従者が伝えた情報が、この件の引き鉄になったことを察していたのだ。

 だからこそ、あの夜礼を述べに来たのだ。


「そこでお願いがござる。何とか殿の領国経営術を武田の戦略の中に入れ、殿を活用していただけないか。戦はできないが、為政者としての手腕は抜け出ておる。そして先ほど話した蹴鞠の全国大会の夢を実現させて欲しい。そのためなら、信玄殿に真実を話してもらい、その証としてこの老人の首を差し出されれば良い」

 幾多の戦場を駆けた歴戦の強者が、命をかけて下げた頭だ。むげにはできない。しかし命の使い方を間違っている。


 ふいに義信が最後に残した言葉を思い出した。良い国を作るために力を尽くせと。

 それはきっと氏真を活かすことも含んでいたのに違いない。義信は氏真の領国経営の才を見抜いていたのだ。

 そして、勝悟を信じるから任すと言われた。

 今この場で、自分が思い通りの取り計らいをしても責任を持つと告げたに違いない。


「元真殿、命の捨て場所が違います。ご家中に残られた方の中には、氏真様の施政に共感を感じても、桶狭間での屈辱を捨てきれぬ方も多いのではございませぬか。特に朝比奈信置殿あたりか」


 朝比奈信置は冬左たちの本来の雇い主だと聞いている。信置が織田、徳川の隆盛が許せず、暴発しかねない様子を見かねて、元真はこの計画を持ち掛けたのだろう。

 だから信置は冬左たちを貸したのだと思う。


「ふっ、良い目をしておられる。ご推察のとおりだ」

「では、いずれは不満が再発するでしょう。下手すると氏真様の命が危うくなるかもしれません。元真殿がいなくて、誰が氏真様を守るのですか」

「だが、それでは信玄殿は納得されないだろう」

「大丈夫です。お館様は利に敏いお方。氏真殿を活かすことが武田の利につながることを、実際に証明しながら納得してもらいます。ですから専売所の運営に元真殿のお力もお貸しください」


 武田の専売所に力を貸すことは、家中の不満分子の怒りの矛先に成りかねない。

 下手すると命を狙われる危険が伴う。

 先ほどの話の内容から察するに、氏真がその矛先となる可能性もある。勝悟の要請は、それを元真が代わりに受けろというものだった。

 敵ならともかく、味方の手にかかるのは、重臣として屈辱的なできごとだ。それをあえて要請する勝悟の申し出は、元真も受け難いに違いなかった。

 ところが……


「うーむ、それも悪くない。この老骨の最期の仕事として、氏真様の身代わりを務めもうそう」

 元真の顔には、思わず声を上げたくなるほど、潔い表情が浮かんでいた。


「申し訳ございません」

 勝悟は声を低くして詫びた。

「何の、ことが発覚してから今まで、もやもやとした悔恨する気分が、一気に晴れた気がする。こちらが礼を言いたいぐらいだ」

 心なしか元真の眼が濡れているように感じた。

 隣の正直は既にはらはらと涙を流していた。

 勝悟も意図せず瞼が熱くなるのを感じていた。

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