第9話 信濃へ
信友は訝し気な表情をしていた。いくら大器と言っても、経験豊富な自分を上回る戦略を、この若者が持っているとは思えなかったからだ。
それでも信玄の言葉が耳にリフレインする――真の革新者は年に関係なく、
「お主の考えを申してみよ」
勝悟は待ってましたとばかりに説明を始めた。
「武田の軍事拠点である古府中は、三国同盟によってどこからも攻められる心配のない安全地帯となっております。そこに兵力を集中しても無駄が多い。ですから古府中は誰か信頼のおける政務の得意な方に任せ、お館様には家臣団を率いて、ここ高遠に移ってもらうのです」
「甲斐を離れるのか……」
信友は絶句した。そんな発想は信友はおろか、家中の誰にもない。
「はい。そうすれば兵站の心配は消えます」
「しかし、甲斐には重臣たちの領地がある。それはどうする?」
「移転される方については、農作など領地の監督者を決めて経営を任せます。人を雇うのに余分にかかる費用は、武田の
「だが、土地は代々続いた神聖なものだ。それを人任せにするのは誰も良しとはすまい」
まだ信友は移転に疑問を抱いていた。
「その発想は今後捨てねばならぬでしょう。戦国の世は急速に動きつつあります。守護として与えられた国ではなく、自分の力で一国を従え、更に周辺の国を加えた戦国大名が生まれています。やがてそうして生まれた戦国大名の中から、今川義元のように上洛して天下に号令を掛けようという者が現れます。そのとき武田は徹底抗戦するか、降伏してその傘下に入るか岐路に立たされます」
「領土が広がれば、それだけ集中して戦う場所が増えてくる。本拠移転だけでは追い付かなくなるぞ」
「そのときは軍団を作るのです。例えば義信様、あるいは勝頼様、そして家臣の中からも適正者をみつけ、国とその国にある兵力を委任するのです。もちろん領国経営だけでなく戦争の裁量も与えます。そうすれば拠点が任意の場所でたくさん生まれます」
「領地の拡大に伴ってそうたびたび移転させられては、動かされる方も困ろう。郎党たちも自分の土地を持っておる」
やはり、この時代の人間は土地が全てなのだ。家計が土地から上がる農作物に依存しているからだ。
「もう農作物に頼る考えは捨てましょう。これからの世は銭が中心です。国を挙げて商売を行います。そこから上がる収益を家臣に分配し、土地ではなく銭で忠誠を買うのです」
「国を任せて謀反の心配はないのか?」
「軍団に国を任せても、土地からあがる収穫は武田に属する商人に卸し、その代金は本国つまり武田家に支払います。武田家は軍団長に支払う軍団運営資金を、そこから調達します。さらに軍団長の働きに応じて渡す金に差をつけます。それならば土地に縛られず、思い切って移転できるではないですか」
それは武田家中では、まだ誰も持っていない発想だった。信友と小助は大きく目を見張り、信じられないという顔つきで勝悟を見た。
さらに勝悟が言いかけたとき、左の襖が開いた。隣の間から出てきたのは、見覚えがある勝頼の顔だった。
「これは勝頼様、どうしてここにおられるのですか?」
勝頼の登場は予想してなかったのか、小助が驚いて口走った。
その驚いた顔を見て、信友はニヤリと笑った。
「黙っていてすまぬ。今日お主らが来ると聞いて、勝頼様にお主らの素の意見を聴かせたいと思い、秘かにお呼びして隣の間に隠れていただいた。まさか勝悟からこのように大胆な意見が出るとは思ってもみなかったが」
信友の弁明を聞きながら、勝頼が会心の笑みを見せた。相変わらず人の心を溶かす爽やかな笑顔だった。
「信友、すまぬ。もう少し隣で聴いていたかったが、あまりにも刺激的な意見ゆえに、私も話したくなって思わず出てきてしまった」
勝悟は信友のざっくばらんな雰囲気に打ち解けて、思わず本音を話し勝頼に聞かれた。勝頼に戦国の世に適さぬ危険思想の持ち主として警戒されたら、これからの仕事がやりにくくなる。
心配顔に変わった勝悟に反して、勝頼は満面に笑みを拡げて小助の方を向いた。
「勝悟の今の話は、勝資殿が普段語っておることか?」
「いいえ違います」
「では、お主の考えか?」
「それも違います。私も今日初めて聞きました」
「ふーむ、では勝悟が自分で考えたことで間違いないな」
「はい、そうだと思います」
勝頼が勝悟に対し向き直った。
顔からは笑みが消え、気迫が目に籠っていた。
勝悟は勝頼に飲まれた。
「では勝悟に訊く。利だけではなく、自らが生まれ育った土地に愛着を持つ者もおろう。その気持ちにはどう決着をつける?」
勝悟は勝頼の鋭い着眼点に驚いた。そして同時に勇気を得た。
「それが一番大事なことでございます」
「一番大事とは?」
「本当にいい働きをする人は、利だけでは動きません。モチベーションが最も大きな鍵を握ります」
「モチベーションとは何だ?」
聞き慣れぬ言葉に勝頼だけでなく、信友と小助も首を捻った。
「これは申し訳ありません。南蛮の言葉で、人が何かしなければならないとき、それを進んでしたい気持ちに成る理由のことです。進んでしたいときには、モチベーションが強いと言います」
「なるほど、ではなぜモチベーションが大事なのじゃ」
封建主義のこの時代では、主命とあればモチベーションなど、あまり気にしないのだろう。確かに全ての行動に生き死にが直接関わるこの時代であれば、モチベーションなど無視してしまっても不思議ではない。
「はい、人は進んでやりたいことと、やらねばならないことが一致するとき、その人の持てる最高の力以上のものを発揮します。逆にやりたくないことをやらねばならぬときは、普段の半分から七分の力しか出せません」
「うむ、道理だ。だが今お館様の旗下にいる大半の将は、甲斐を捨てたくないと考えておるのではないか」
「その通りです。ですから、その方たちには抑え役として甲斐に残ってもらい、自分たちの土地の監督をしてもらえば良いと思います。抑え役としては強面の義信様が適任かと」
「では、お館様のみ高遠に移ることになるではないか」
いくら強固な団結を見せる武田軍団といえども、当主が不在では義信を担ぎ上げて、不穏な動きを見せる者も現れるかもしれない。勝頼の眉根がぎゅっと寄った。
「いえ、その者たちの兵力の半分以上はお館様に従います」
勝悟の言葉が勝頼たちには理解できずに、表情に不信と戸惑いの色が浮かんだ。
それを見て、勝悟はすぐに言葉を続けた。
「お忘れですか? 諸将には家督を継げない次男や三男がおりましょう。その郎党にもいるはずです。そういう者を中心に高遠に集めればいいのです。その中には嫡男でありながらも、新しい世界に魅力を感じて甲斐を飛び出す者も現れましょう」
「なるほど」
勝頼は自分自身が嫡男ではなく、分家としてこの高遠の地に立っただけに、勝悟の話が素直に頭に入った。確かにそういう者を集めると大した兵力に成る。
「だがその者たちに新しく与える土地はどうする?」
さすがに信友はいたずらに勝悟の話を鵜呑みにしなかった。そもそも与える土地がないから、彼らは独立できないのだ。
「土地などいりません」
またも他の三人が言葉を無くした。
「先ほど言ったではありませんか。これからは土地ではなく銭を与えるのです。それならば、農耕作業に従事する必要が無く、戦も季節を選ばずできる」
「その銭をどうやって生むのだ。土地が無くては売るものがないだろう」
「信濃には養蚕農家が多くあります。そこから上質の
「そんな大量に買い付けて、誰に売ると言うのだ?」
「駿河や都の商人に売ります。彼らは売れる物さえあれば、千里の道もやって来る者たちです。ただ、高遠はそういう商人を集めるには、いささか地の利が悪い。だから専売所は駿河に作ります」
「駿河は今川領ではないか?」
信友は依然として腑に落ちない顔をしている。
「そうか、この謀略を利用するのか」
小助がようやく勝悟の言いたいことに気づいたようだ。勝悟の発案に感心して笑みが広がる。
「そうです。謀略の正体を私たちで暴きます。そして戦も辞さんとばかりに氏真を脅すのです。戦いには自信がない氏真は、自分の仕掛けたことに震えあがります。そのタイミングで専売所のオープンと、商売における無税処置を持ち掛ければすぐに承諾するでしょう」
思わず勝頼が噴き出した。勝悟は持ち掛けるなどと穏便な言葉を使っているが、これは武力を笠に着た紛れもない脅しだ。だが、土地を割譲させるわけでも、人質を取るわけでもなく、周囲には穏便な落としどころと映るだろう。
「では、何としても謀略の証拠を掴まねばならぬな」
信友はついに勝悟の政策を肯定した。
「おお、賛同していただけますか」
小助が我がことのように喜色の色を浮かべる。
「証拠を掴み次第、父と兄には私から話そう」
勝頼が力強く宣言した。やはり兄義信のことを心配していたのだろう。
「わしは古府中で変な動きが出ないように、勝資様と連携しよう」
小助もやる気に溢れていた。
昼に来たというのに夕闇が辺りを包み、一日の終わりを告げていた。
勝頼は既に高遠城に帰城し、小助と勝悟も信友と細かい打ち合わせを終えて帰路に着いた。
もうすっかり暗くなった夜道を歩いていると、小助が不思議そうに訊いてきた。
「勝悟殿はどこであのような知識を得たのだ?」
勝悟はどう答えればいいのか迷った。
勝悟の発想のベースは、歴史好きだった光一との会話で得た知識である。それは現代の歴史学者が当時の社会状況や経済状況を、膨大な量の史書を分析した上で、様々な角度から検証を加えたものだ。
そこにはこの時代だけではなく、その後の人類の歴史も加えられていて、いわば五百年以上にわたり全世界で行われた、試行錯誤の結果が反映されているわけだ。
「私の僅かに残った記憶の中で、光り輝く師の記憶があります。その方は非常に博学な上、人々がこの先向かうべき方向をいつも私に説いていました」
「おお、その方はどのようにしてそのような知識を身につけられたのだろう。会えることならわしも会って、ぜひ教えを請いたいものじゃ」
「その方は既に無くなったような記憶が薄っすらと残っております」
「それは残念だな。してその方の名は覚えておられるか?」
「確か坂本だった記憶があります」
坂本は光一の苗字だ。実在の人物をモデルにした方が、話はしやすいと思ったからだ。
「駿河や越後のような港があって人の流れが多い場所では、そのような方もおられるのだろうな」
それは誰に話しかけたわけでもなく、小助自身の海への憧れがつい口に出た言葉であった。小助だけではなく、甲斐の国の民の総意とも言えた。
「今日、私が述べたことは特別なことではございませぬ。既に一部実行している大名家もあるようです」
「なんと、そのような先進的な大名がどこにおるのだ?」
「三河の徳川家康と同盟し東の憂いを解消した尾張の織田信長は、美濃攻略に専念するために、本拠を清州から尾張北部の小牧山に移しました。織田家は父信秀の代からそういう気風があり、津島の商業圏を確保するために
「織田家とは恐ろしい家だな」
「そういう先進的な考えと実現する実行力、それがあるからこそ信長が今川義元を討てたとも言えます」
「今川が織田に対するために三河に拠点を移動するなど、想像すらできんな」
「その時点で、今川は織田に勝てぬとも言えます。義元がもし拠点を三河に移しておけば、ああも鮮やかにあの奇襲を受けることもなかったでしょう」
「そう考えるならば、今川の謀略は何としても未然に防いだ上で、御屋形様に本拠移転構想を申し上げる必要があるな」
小助はきっぱりとそう言った。小助の良いところは決めたら迷わぬところだ。策の実行者として、これほどの適任者はいない。その点を勝資は大きく買っていた。
「まずは高遠城内でしょう。謀略を仕掛けるには中からの方が効果的ですから」
小助は厳しい目で深く頷いた。
上天には満月が覗いている。心なしか黄色にくすんで見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます