第8話 信友の苦悩


 目の前の男は、押し黙ったまま少しだけ笑みを浮かべて、勝悟をじっと見ていた。

 小助はその視線に気づきながらも、何も言わずに男の言葉を待っている。

 ついに勝悟が男の視線と沈黙に耐え切れずに言葉を発した。

「秋山殿、私の顔に何かついておりますでしょうか?」

 その男、秋山信友は大きく笑い声をあげ、勝悟への返事とした。


 勝宝の話を聞いた翌日、勝悟は小助に伴われて信友の屋敷に向かった。

 信友は来訪理由を確かめたりせず、すぐに会ってくれたが、目の前に現れた信友は褌の上に着物をかけただけのラフな姿だった。


「何かおかしいでしょうか?」

 あまりにも楽しそうに信友が笑うので、ついムキに成って勝悟は理由を尋ねた。その様子に小助まで、信友に誘われたように失笑している。

「いや悪いな。あまりにも思った通りになったんで、思わず笑ってしまった。勝資殿から英才と聞いていたが、勝悟殿はまだまだ若いな」

「人が悪うございますぞ。秋山殿」

 小助は信友の意図に気づいたようだ。勝悟はわけが分からず、呆然として打ち解け合う二人を見ていた。

 信友は武田家中では数少ない勝資と親交が深い男だ。確かに二人とも食えぬところがあると勝悟は思った。


「お主の負けだよ、勝悟。対面とて立ち合いと同じ、相手の意図が分からない中で、正直に何ですかなどと訊いては、立ち合いでは先に手を出して返り討ちにあったようなものだ」

 勝悟はこの沈黙の意図を悟って、ハッとした。次に恥ずかしそうに頭を掻いた。

 その姿を見て、秋山は「ホウ」と声を出して感心した。

「やはり勝資殿の言う通り、なかなかの麒麟児よ」

「分かりますか!」

 小助が信友の言葉に嬉しそうに追従する。

 勝悟だけが要領を得ない顔だが、今度はうかつに訊いたりしない。

 信友はそんな勝悟の様子に、楽しそうにうんうんと頷いてから話し始めた。


「これはお館様の言葉だが、わしやお館様のような人間は、致命的な失敗をせずに立ち回れる。経験を積んでいくに従って、それは益々確実に成る」

 ここで信友は言葉を切り、ニヤリと笑った。

 勝悟はその笑いには特に反応せず、信友の次の言葉を待った。

「しかし、お館様やわしのような人間は、鮮やかな勝ちにつながる発想が出ぬ。お館様はそういう自分を知っておられるからこそ、五分の勝ちを最上と自分を戒められておられる」

 この言葉は勝悟も知っていた。大勝に浮かれぬための戒めかと思っていたが、まさかそんな裏の意味があるとは思ってもみなかった。


「お主が今わしに見せた姿こそ、鮮やかな発想を出す者だと示している。普通は怒る、取り繕うなどこっちのペースに乗るものだが、お主は自然体でわしの話を単なる教えとしてしまった。このまま死なずに育っていけば、良き大将に成るだろう」

「死なずにですか?」

 勝悟は良き大将という言葉より、わざわざ死という言葉を使ったことに引っかかった。

「うむ。お主は箕輪にて勝頼様の急襲に従い、見事に手柄を上げたが、実はこれは死と紙一重なのじゃ。戦陣には思いもよらない猛者がごろごろしている。お主は人中の呂布という言葉を知っておるか?」


「はい、知っております。人中の呂布、馬中の赤兎、三国時代の英雄の一人で、武においては並ぶ者がいないとされた強者でございます」

「そうだ。わしは上杉政虎を始めて見たとき、この男こそ人中の呂布と思った。そういう者といたずらに戦ってはいかん。攻めるなら謀略だ。戦術レベルでどう繕ってみても、あの圧倒的な武の前には打ち砕かれてしまう」

「上杉政虎の戦いとはどのようなものでございますか?」

「弓隊、歩兵隊、全てが政虎の騎馬隊の進路を作るためだけに戦う。騎馬隊の向かう先は敵総大将のいる本陣で、道が開けた瞬間に騎馬が本陣に殺到して、敵総大将を討ち取るという単純なものだ。だが、政虎の率いる騎馬隊が恐ろしく強い。総大将が討たれなければ運が良かったというしかない」

「それ程の強さですか」

 勝悟は驚いた。それはゲームで言えばチートの世界だ。

「うむ、だからだ。お主もよく知らぬ相手に武を挑むことは、今後控える方が良い。人中の呂布は政虎だけとは限らぬからな」

 またも、勝悟の脳裏に箕輪で戦った郎党の姿が思い出された。政虎ほどではないにしても、相当の強さであったことは間違いない。


「秋山殿、勝悟に対しありがたい助言をいただき、感謝いたします。それで、そろそろ今日参った本題を話してもよろしいでしょうか?」

 信友の顔から笑顔が消えて、苦い表情が現われた。小助の要件を大方察しており、しかもあまり話したくなさそうに見えた。

「その話についてはわしも動いておる」

「もう、何の話かお分かりですか?」

 小助はわざとらしく驚き、信友に話の続きを促した。

「高遠城下に武田の統治を妨害しようと、謀略を行っている者がいるという話であろう」

「さすがにご明察ですな。ところで謀略は本当に行われているのですか?」

「行われている」

 信友は憮然としている。

「して、秋山殿は既に黒幕の正体を掴まれておりますか?」

 小助が畳みかけるように問う。

 信友の顔はますます苦味ばしった。


「まだ後ろにおる者は分かっていない。ただ、金丸殿の話では信濃を武田支配から独立させ、徳川をこの地に引き込もうと、信濃国人衆に働きかけがあるようだ」

「徳川に、まさか黒幕は織田信長……」

 徳川家康は織田信長の同盟者だ。

「いや、これは織田や徳川がしかけたものではないと、わしは思っている」

「では、誰でございますか?」

「それは分からぬが、織田の調略の主力は美濃斎藤に向いている。徳川は西三河で一向一揆が勃発して、他国にちょっかいを出す余裕などなくなった」

「なるほど。とすると北条、上杉あたりか……」

「ところが、北条と上杉は上野で熾烈な争いを続けている。氏康は上杉への牽制として、武田が信濃方面から圧力を加えて欲しいのは明白、一方相手の政虎は他国に調略ができる男ではない」

「では他国ではなく、内部の者が」

 小助の言葉で、勝悟の頭の中に勝宝の言葉が蘇った。

 勝悟は源四郎の屋敷に招かれたときに、一度だけ飯富虎昌に会ったことがある。そのときの印象では、虎昌もいくら義信のためとはいえ、味方の不利になることをするようには見えなかった。

 勝悟の思いが伝わったかのように、信虎は小助に向かって大きく首を振った。


「太郎様ではない。忘れておらぬか? 謀略が大好きな隣国のことを」

 小助が「あっ」と声をあげた。

「もしかして、駿河でございますか? だが今川こそ徳川の攻勢の前に東三河の離反が相次ぎ、その防衛で他国に手を回す余裕はないのでは」

 小助があり得ないという風に首を捻り、次に信虎の顔を仰ぎ見た。

「世の中には今成さねばならないことを後回しにして、感情から来る衝動に身を任せて無駄をする者は多いものよ。お主は今川氏真の武田に対する気持ちを考えたことがあるか?」


「少し整理してもよろしいですか?」

 勝悟は、自身の見解を纏めたくて、状況の整理を二人に申し出た。

 小助と信友は異議なく、頷いて話を促した。

「まず武田の一番の大敵である上杉の一番の関心は関東にあります。領土欲を持たない政虎にとって、自身の関東管領職を名実共に意味を持たせることが、唯一の悲願でありましょう。その裏付けとして新潟港の上げる莫大な収入が、領土拡大の野心を持たなくても膨大な軍費を支えられます」

「その通りだ」

 小助が勝悟の卓越した見解に目を細める。


「次に相模、伊豆、武蔵の三国を治める大国北条ですが、北条氏康の領土的野心は小さくはないです。ただその目は関東に向けられ、関東を平定し地盤を固める方針です。その意味では信虎殿がおっしゃる通り、対上杉の牽制として武田には強くあって欲しいはずです。それに、北条氏康は信義を重んじる人ですから、同盟相手に戦略的価値のない謀略を仕掛けるとは考えにくい」

 今度は信虎が感心する。

「氏康のことをよく見切っておるな。確かにあの家は人の道から外れないことを、家訓としておる」

「織田と徳川については、今は武田を刺激したくないはずです。織田は美濃、徳川は遠江が戦略目標です。そんな時期に武田とことを構えるのは無駄でしかありません。織田信長は無駄を嫌い、徳川家康は危険を回避する方針と思います。となると残るのは」

 そこまで聞いて、二人の将の目が光った。明らかに勝悟の分析に気持ちが入っている。


「三国同盟の盟主であった今川は、義元を信長に討たれ現当主と成った氏真は明らかに器量不足、主だった重臣も桶狭間で討たれ国力は確実に落ちています。既に徳川は三河の独立を確実なものとし、遠江に向かって攻め込む勢いです。冷静に戦略を練れる者であれば、ここは武田と北条に頭を垂れて、領土防衛に協力を申し出るものですが……」

 そこまで言ったところで、信友が目を閉じていることに気づいた。

「続けられよ」

 勝悟の言葉が途切れたので、信友は自分には構わず話すように促した。


「名門の誇りがそれを妨げます。氏真は生まれついての大国の王子、その自負心の高さは冷静な判断を妨げます。加えて他の二国は同盟の利を活かし、着実に領土を拡大している。おそらく、敵よりも味方に対しての嫉妬の方が激しいのではないかと思われます」

 そこで信虎が口を開いた。

「三国同盟こそ結んでおるが、今川は武田を自分より格下とする意識が強い。その武田が自分たち以上の大きな勢力になることは、許しがたいのだろう。お主の言う通り、この謀略は戦略から生じるものではなく、嫌がらせだとわしは思っておる」

「だがこれが今川の手によるものだと判明したら、その後の波紋が大きすぎます」

「そうだ。そのときこそ、国の行く末が大きく変わる」


「海でございますか」

 二人のやり取りを聞きながら、小助がポツリと呟いた。

 港を支配下に置くことは、武田にとって悲願に等しい。周囲を見渡しても、織田、上杉、北条、今川など、海に面した国は、港から上がる莫大な収入によって、一国にも相当する財を得ている。

 港からもたらされる利は富だけではない。それ以上に大きいのが情報だ。それは都の熟成した文化だけでなく、南蛮や東アジアの新しい技術、そして国を活性化させる思想などを運んでくれる。


「海は欲しい。武田は戦略的に行き詰っておる。三国同盟によって、南への進出は閉ざされている。かと言って北には謙信という大敵が存在する。現時点では攻め込むところがどこにもない。西には北条、東には織田と両者ともに盛況で、第一この二者に攻め込んでも、海にたどり着くまでに時間がかかりすぎる。信濃がほぼ平定された今となっては、中長期視点での戦略目標が立てにくくなっているのだ」

 信友はなぜか辛そうに自身の見解を述べた。


 これに対し勝悟が恐ろしい言葉を口にする。

「だが、今川が反武田色を示してくれれば話は変わります。これを大々的に取り上げ、駿河侵攻の名目にすれば、戦略は大きく展開するでしょう。描きようによっては上洛迄視野が開けてくる」

 小助が慌てて反論する。

「それでは太郎様が納得されまい。太郎様の妻嶺松院様は今川義元の娘であり、氏真の妹にあたる。同盟のための政略結婚であるが、太郎様は嶺松院様を深く愛している。駿河は甲斐に比べれば、何倍も都会であり、文化も洗練され教育レベルも高い。しかも嶺松院は祖母寿桂尼に似て聡明な方だ。太郎様が大事に思われるのも無理はない」

「そうです。武田が矛を駿河に向ければ、太郎様が反発するのは目に見えています。家中には、太郎様の剛毅で裏表のない性格を、好ましく思う者も少なくありません。そうなると絶対的当主として君臨する、信玄様の統治体制にひび割れが入るでしょう」

 義信の武将らしい面を好ましく感じている小助は、勝悟の想定を聞いて目を伏せた。


「だが、駿河は手に入る。そこから遠江も視野に入るぞ」

 信虎は試すように武田の利を口にした。

「今川を攻めれば、信義に厚い氏康は反武田に方針を切り替えるでしょう。駿河を手中にする代わりに、上杉と北条の手を組ませる結果が待っています。やがて美濃を加えた織田と、国内整備を整えた徳川も敵に回り、武田は四面楚歌と成ります」

「織田、徳川との関係を強化すれば良いのではないか?」

「北条、上杉は大国です。この戦いは一進一退となって、勢力拡大には結びつきません。一方、織田は豊かとは言え尾張一国、徳川はようやく三河を制圧したばかり、さらに武田は同盟によって、西と南を憂うことなく戦えます。ここは海への憧憬は抑えて、東に馬を進め、織田より先に美濃攻略を目指すのが戦略的な正解だと思いますが」

「だが、美濃は甲斐から遠い。出兵の度に兵と金がかかりすぎる」

 信友もそこまでは考えたのだろう。

 しかし、距離の問題がネックになって思考が止まったのだ。

「それには妙案がございます」

 勝悟の顔には、歴史を知る者だけが持つ自信に輝いていた。


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