第5話 転機


「大きな城ですね」

 勝悟は川向うに広がる巨城の威容に、思わず感嘆の声が漏れた。

「既に五年間、我らの進行を妨げておるからな」

 小助も難攻不落の城を前にして、威勢のいい言葉は出さなかった。


 西上を目指す晴信改め信玄にとって、東の安定を図ると共に肥沃な関東平野への入り口となる、上野こうづけへの進出は不可欠であった。

 眼前に威容を誇る箕輪城は、その悲願を既に五年も阻み続けている。だが、信玄の侵攻を阻み続けていた一代の名将長野業正は、一昨年この世を去った。跡を継いでこの城を守るのは、この年十六才に成ったばかりの嫡子業盛だ。

 信玄は得意の外交を駆使し、関東の雄北条氏と利根川を挟んで東西に上野二分し、西側を支配する密約を結んだ。更に、箕輪城の南に勢力を張る和田氏を調略によって取り込み、満を持して箕輪城攻めを再開した。


「あの城を落とせますかね」

「まだ無理だろう。長野業正がいなくとも、上州の多くの勢力は長野との縁が深い。今回は和田氏を足掛かりに、甘楽かんら、多野の諸勢力の取り込みが目的だろう」

「ずいぶん慎重ですね」

「最近の信玄様は力押しの無駄を悟られたようだ。川中島で信濃の覇権は確立したものの、失うものも多かった」

 小助は信玄の変化を望ましく捉えていたが、前の世界の歴史を知る勝悟には、信玄の慎重さには不安を感じていた。前の世界では、信玄は十年後に西上途中で亡くなっている。この世界でも同じようになるか分からないが、信玄存命中に西上せしめて織田、徳川を滅ぼさなければ、逆に武田が滅亡の道を突き進むことになる。


「勝資殿はおられるか?」

 背後からの声に反応して振り向くと、武将と言うには線の細い優し気な風貌の若者の姿があった。

「これは勝頼様、この度は初陣おめでとうございます」

 小助は諏訪勝頼と顔見知りらしく、うやうやしく頭を下げた。

「小助殿か。お役目とは言え上野への参陣、ご苦労様です」

 これが諏訪勝頼、後の武田勝頼かと勝悟は意外に思った。

 現代に通じるイメージでは父信玄が策謀の人であったのに対し、戦いに逸る猪武者タイプなのだが、見た目は本や音楽に興じる文学青年に見える。


「勝資様は急なお召しで、ただいまお館様のところに出向いております」

「そうですか、それは残念ですが出直しましょう。ところで、そこにおられる方は小助殿のご子息ですか?」

「いえ、私が道で拾った家人でございます。名は勝悟と申します。我が息子栄太は、さきの川中島の大戦にて討死しました」

「それは失礼しました。前の大戦は我が叔父信繁殿をはじめ、多くの方が犠牲になられた。小助殿の心情お察しします」

 勝頼は申し訳なさそうに、頭を下げた。

「武門の倣いでございますから、お気にされますな。代わりと言ってはなんですが、この勝悟が栄太にそっくりで、こうやって一緒に戦陣におりますと、なんだか栄太と共におりますように錯覚いたします」


 小助の話を聞いて、勝頼ははっとしたように勝悟を見た。

「思い出した。源四郎殿が小助殿の家人で、初めての戦いにも関わらず夜盗を十人斬った剛の者がいると申していた。お主がその者か?」

 勝悟は勝頼の耳にも、先日の戦いの話が入っていることに驚いた。

「恥ずかしながら、夢中で槍を振るったら、いつの間にかそうなっておりました」

「さもあらん。わが父も日常よく申しておる。戦いの前には十分に考え、いざ敵の刃の前に立ったときは、考えるのではなく感じろと」

「まったくお館様らしい言葉ですな」

 小助が含みのある言い方をした。

「そうですね。実はその境地に達するのが難しい。その点でも勝悟殿は素晴らしい」

 勝悟は何か言えばますます褒められそうで、恐縮して何も言えなくなった。

「勝悟殿の年はいくつですか?」

「十六に成ります」

「ほう、私の一つ下ですね。今後は生ある限り、兄弟として交わりましょう」

「ありがとうございます。生ある限り、勝頼様と共にあります」

 思いもかけぬ勝頼の申し出だった。あの武田信玄の息子が、氏素性の分からない自分に兄弟なんて、もしかしたら勝頼は寂しいのかもしれないと思った。



 夜になって勝資が帰ってくると、勝頼の来訪があったことを告げるために、小助は勝資の部屋に向かった。

「勝頼様がいらっしゃったのか。あの方も気が早いな」

「勝資様は勝頼様のご用件が分かっておられるのですか?」

 勝頼の来訪を聞いてもさして驚かぬ勝資の態度に、小助は何らかの動きがあると察して、不躾と思いながらも主に訳を尋ねた。

「勝頼様は川中島のいくさの後で、諏訪の名跡を継いで信濃高遠城の城主と成られたのは知っておろう」

「はい、お館様は弟の五郎様も仁科家の後を継がせて、姻戚関係で信濃支配を進めていらっしゃいますね」

「うむ、占領地であるので、諏訪家の血筋を引いているとは言え、勝頼様も苦労は絶えないようだ」

「さようでございますか。やはり占領される方は不安も大きいですから、血縁のある勝頼様でも簡単にいかないことは合点がいきます」

「血縁があるだけに難しいこともあるのであろう。こういうときは、真偽の分からん話で有象無象の輩が集まって来るものだ」

「真っ直ぐなご気性の方ですから、勝頼様もどうしたらいいかお困りでしょう」

 小助が気の毒そうに顔をしかめた。

 勝資は小助と打って変わって、にんまりと苦笑いをした。

 微妙な間が空く。


「実はな、勝頼様からお館様にわしを家老として高遠に迎えたいと、願いが出された」

「あっ」

 小助は驚いて思わず声を上げた。

 現在勝資は信玄の腹心として、武田家全体の政務を取り仕切っている。その上三ツ者を仕切る諜報機関の長として、謀略を得意とする信玄には欠かせない存在だ。とても一領地の政務官として赴くわけにはいかない。

 しかも勝資は、元はと言えば信玄の正室三条の方につき従って京から甲斐に下向した者だ。それが嫡子の太郎義信ではなく、側室である諏訪御料人の息子の家老になっては、元の主筋に当たる三条の方も気分が悪いだろう。


「それでお館様は何と……」

「うむ、わしを行かせることはできないが、わしの家中から誰か出せないかと言われた」

(家中からとなると、現在台所方をしている信三しんぞうか、誰を出すにしても勝資様もお辛いところだ)

 小助は勝資の心中を察して、気の毒に思った。

「どなたに任されるのですか?」

「お主だよ。小助」

「私?」

 聞き違いかと小助は思った。

 武辺者の自分には、占領地の政務のような難しい仕事ができるわけがない。

「私には無理でございます」

 小助は正直に気持ちを表した。確かに勝頼の補佐となれば、今の身分からは大出世と言えよう。だが、能力的に問題があるし、何より勝資の側を離れるのが辛かった。


 にやにやとして黙っている勝資に小助は重ねて異議を唱えた。

「政務とあらば、私より信三の方が向いております」

「信三ではダメだ」

 勝資は小助の提案をピシャリと退けた。

「私よりは適任です。なぜ信三ではダメなのですか?」

 勝資の顔から笑いが消え、厳しい表情に変わった。

「小助、この度の役目は政務と言っても、帳簿を計算するような事務仕事ではない。まだ政体が整ってない国において、有力者の利害を調整する周旋が最も重要となる。それを巧く成すには、戦のような気合が必要だ。お主こそうってつけであろう」

「私には学がございません」

 小助は残念そうに言った。

 だが、勝資はフフンと鼻で笑った。

「そんなものはやってるうちに後からついて来る。必要なのはお主の胆力と依怙贔屓のない誠実さだ。それにお主には勝悟がおるではないか?」

「勝悟ですか?」

「そうだ。あれはなかなかの才の持ち主だぞ。話していて感じぬか? 勝悟が持つ教養の深さを」

 小助は勝資の人を見る目は信用している。だが、勝悟にまで目をやっているとは、思いもよらなかった。確かに勝悟の理解の速さと、先を見通したような発言には驚くことは多々ある。

「だがまだ年も若く経験が足りませぬ」

「わしはそうは思わぬ。どうやったのかは分からぬが、勝悟はとてつもなく幅広い情報を集めて、それを応用して知恵としているように思える。その情報量は我らが一生かかっても得られない量のように感じる」

「それほどのものですか」

「そうだ。それほどのものだ」


 小助は黙って下を向いて考えた。

 勝資の言うことは分かる。自分の強面こわもての部分が占領地の経営には不可欠なのだろう。それに勝悟のことは言われて初めて気がついた。活かせる力があるのなら、活かせる場を与えてやりたい。それは親にも通じる気持ちだった。

「分かりました。お引き受けいたします」

 小助の神妙な言い方に覚悟の重さを感じたのか、勝資も重々しく応えた。

「何にしても、この戦いで生き残らなければ何にもなるまい。ここは戦場だ。よけいなことは頭の中からいったん外しておこう」

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