第十章 大宮事件

 翌日一月二十二日日曜日、埼玉県さいたま市の浦和駅前に二人の男……すなわち、榊原と橋本のコンビが降り立っていた。

「まさか埼玉まで来ることになるとはな」

「付き合わせて悪い。だが、こうなった以上とことんまで調べるだけだ。私は一度受けた依頼に関しては徹底的に追及する」

「それは重々承知しているが、しかし、こう言っては何だが埼玉に何かあるのか?」

 その問いに対し、榊原はこう答えた。

「奴は埼玉の検察に出向していた。出向組とはいえ、検察にいた以上は現場の捜査、言ってしまえば犯罪捜査にも多少なり関わっているはずだ。奴がどんな形であれ犯罪と結びつくのはここしかない。ここでの何かが、羽本鉄治郎という男に何か大きな影響を与えた可能性は充分にある」

「それはそうだが……」

「ひとまず、埼玉県警に行こう。県警なら問題の期間にどんな事件があったのかがわかるはず。捜査段階で検察が関わっている事件となれば数はそう多くないはずだ。県警への連絡はとれたのか?」

「あぁ。警視庁の一課長の俺が行くという事で『何かあったのか!』と散々聞かれたが、今回の事件の捜査の一環という事で押し切った。これが広域手配事件で助かったよ。一般事件なら管轄だのなんだのでややこしい事になっている。少しは感謝してほしいものだ」

「恩に着る。では、行くとするか」

 そう言いながら、二人は埼玉県警本部へと向かった。県警本部は埼玉県庁の第二庁舎にあり、本部長に警視監がつく数少ない大規模警察の一つでもある。建物の前に到着し、中に入ると、そこには二人の県警職員が緊張した表情で待ち構えていた。

「警視庁の橋本捜査一課長ですね。埼玉県警刑事部捜査一課課長の倉山田くらやまだです。こちらは捜査一課係長の鈴木章弘すずきあきひろ警部。聞いた話では、かつて一緒に捜査をした事があるとか」

「その通りです。お久しぶりです、鈴木警部」

 橋本はそう言うと、その警部に軽く会釈した。橋本や榊原と同年代のこの警部は、榊原たちが沖田班として前線で活躍していた頃によく一緒に合同捜査をした縁である。向こうもそれを知っているのか軽く微笑んでこう答えた。

「捜査一課長就任、おめでとうございます。かつて寝食を共にして一緒に捜査した仲間が出世したと聞いて、大変嬉しく思っています」

「堅苦しい挨拶は無しにしましょう。改めまして、今回の捜査協力の件、受けて頂いてありがとうございます。それでこっちが……」

「榊原です。鈴木さん、お久しぶりです」

 榊原が頭を下げる。鈴木にとって、榊原も見知った仲である。

「榊原さんもご無沙汰しています。またこのコンビを見る事ができるとは思いませんでした。しかし、榊原さんを切り札として動員しているとなると、そちらの捜査本部も相当追い詰められていると見ましたが」

「恥ずかしながら、その通りです。時間もありません。早速本題に入りましょう」

 橋本の言葉に、鈴木と倉山田の表情も引き締まった。ひとまず四人は県警本部内の小会議室に移動し、そこで事件の話に入ってく。

「羽本の件については先日お知らせしたとおりです。奴は確かに埼玉県の旧大宮市の出身ですが、調べた限り参考になりそうな話は一切確認できません。良くも悪くも普通の一般市民という感じで、前科もなし。正直、これ以上調べられる事は……」

「それについて、榊原が少し聞きたい事があると言っているんです。聞いてもらえますか?」

「もちろん。榊原さんには昔何度も助けてもらっていますからね。意見があるというのなら喜んでお聞きします」

 鈴木にそう促されて、榊原は質問に入った。

「では、早速。被疑者と思われている羽本鉄治郎ですが、彼は一九九九年から二〇〇〇年にかけて当時の浦和地方検察庁へ出向という形で在籍しています。そこで質問なんですが、一九九九年から二〇〇〇年にかけて埼玉県下で発生した事件の中で浦和地検が捜査段階から関与している事件はありませんか? 今のところ奴と犯罪を結び付ける要素がこれくらいしかないのですが……いかがでしょうか?」

 その質問に対し、鈴木と倉山田は顔を見合わせてしばし考え込んだ。

「難しい質問ですね。その頃は埼玉県警全体が大混乱に陥っていた時期ですから……」

「と言うと?」

「ほら、一九九九年に起こったあの桶川の事件で……」

 それで橋本や榊原の表情も暗くなる。警察の歴史に汚点を作ったある事件の名前が嫌でも浮かんできたからだ。

 一九九九年、埼玉県桶川市で起こったストーカー殺人事件に関し、県警側の捜査怠慢や事件前に被害者から受理していた告訴状の改竄などの警察不祥事が発覚し、防げたはずの事件を警察が防がなかったどころかすべての非を被害者に押し付けようとしていたという事で大規模な警察バッシングが発生。県警本部長や刑事部長が減給処分になり、直接告訴状改竄などに携わった警察官が有罪判決を受けるなど、県警全体が日本中から大批判を受けていた。いわゆる「桶川ストーカー殺人事件」と呼ばれる事件で、ストーカー規制法の成立、警察批判を受けた警察による検挙率の増大など、日本の治安制度に多大な影響を与えた日本の犯罪学史上に名を残す大事件である。

「あの事件で、当時の県警は混乱状態でしてね。当然、警察内部の捜査には監査だけじゃなくて検察もかかわっていましたから、考えられるとすればそれくらいかと……」

「おい、ちょっと待て」

 と、ここで倉山田がふと思い出したかのようにこんな事を言った。

「ストーカーで思い出したんだが……桶川の事件の陰に隠れてはいたが、あの頃もう一つでかいストーカー殺人事件があっただろう。確か、ストーカー規制法が成立した直後に起きた……」

「え……あっ、そう言えば! あれは確か……」

「ストーカー規制法が成立したのは桶川ストーカー殺人事件の翌年である二〇〇〇年の十一月。それより後、という事ですか?」

 榊原がそう言うと、鈴木はようやく思い出したようだった。

「そうです! そうか、あの事件があったか……」

「一体どんな事件なんですか?」

「ちょっと待ってください」

 鈴木はいったん席を外し、五分くらいして分厚いファイルを持って戻ってきた。

「これがその事件の捜査ファイルです。どうぞ、ご覧ください」

 榊原はそれを黙って受け取る。そのファイルの背には『大宮女優連続殺害事件』という文字が躍っていた。改めて倉山田が解説をする。

「事件が起きたのは二〇〇〇年の十二月上旬、二十世紀の終わる間際です。当時の埼玉県大宮市……現在のさいたま市大宮区にある一軒家で人が殺されているという通報があり、大宮署の警察官が現場に向かってこの家に住む女性の死亡を確認しました。死亡したのは野菊薺のぎくなずなという女優で、事件当時は三十八歳。通報者は旦那の栗川春樹くりかわはるきで、栗川が仕事から自宅に帰宅したところで妻の遺体を発見したという事です」

「名字が違いますが、野菊薺というのは芸名ですか?」

「いえ、本名です。ただ、仕事に差し支えるという事で夫婦別姓にしていたようですね。夫の栗川もそれを了承していました」

 その言葉に、榊原はファイルを一枚めくる。そこには現場の見取り図や遺体の写った現場写真などがくっきりと写し出されていた。

「死因は背中から複数回刺された事による失血死。遺体は家のリビングに倒れていましたが、玄関口から血の跡があったため、被害者は玄関で襲われた後に室内に逃げ込んで事切れたものと思われました。事件当時、被害者はドラマの撮影が終わったばかりで休暇を取っており、そのため自宅に一人だったという事です。調べた結果、旦那の栗川には完璧なアリバイがあった上に、周囲の人々からの聞き込みでも夫婦仲は円満だったという事から容疑者圏外。ただ、被害者が女優という職業で、事務所にも脅迫めいた手紙などが届けられていた事から、県警はストーカーによる殺人も視野に入れて大宮署に捜査本部を設置しました。ただ……」

 そこで苦々しい表情をする倉山田に代わって鈴木が解説をバトンタッチした。

「何しろ桶川の事件で大失態を起こしたばかりの埼玉県警です。そんな埼玉県警がストーカー規制法の成立したこの段階で再びストーカーに対する捜査で何かを起こせば、県警どころか警察そのものに対する国民の信頼が揺らぐ事となる。そのため、上層部と政府の判断から、この捜査本部には警察の捜査に対する目付け役として検察が入る事になったんです。まことにお恥ずかしい話ですが……」

「つまり、その捜査本部の中に当時浦和地検に出向中だった羽本がいた可能性がある、と」

 榊原は納得したように頷きながら先を促した。

「榊原さんに説明するまでもなく、このような事件ではまず身内を疑うのが鉄則ですが、当初から栗川への容疑が晴れていたので捜査本部は犯人像をめぐってもめる事になりました。すなわち、彼女を脅迫していたストーカーの犯行か、もしくは仕事上のもめごとに端を発する犯行かという点です。前者に関してはしばらく容疑者が出ませんでしたが、後者に関してはそれらしい人物が一人浮上しました」

 そう言うと、鈴木は次のページを見るように促した。そこには別の女性の写真が載っていた。被害者の野菊に比べるとかなり若い。

紅城妙子べにしろたえこ。事件当時二十三歳で、被害者同様に女優です。被害者が出演していたドラマで共演していた人物ですが、この二人の仲はかなり悪く、撮影現場はいつもピリピリしていたと言います。また、事件の数日前に友人と居酒屋で飲んだ際に、酔いながらではありますが被害者の事を『ぶっ殺してやる!』と言っていた事実も確認されています。しかも彼女の自宅は同じ埼玉県内の川越市で、事件当時のアリバイはありません」

「第一級容疑者、というわけか」

「そうです。しかし、時期が時期だけによほどの確証がない限り逮捕する事は難しく、捜査本部も慎重に捜査を続けていました。ところが……」

 鈴木がここで顔を暗くする。

「何かあったんですか?」

「事件発生から一週間が経過した頃でした。紅城妙子は、何者かに殺害されてしまったんです」

 予想外の話に、榊原たちの表情も難しくなる。

「状況を教えてください」

「事件の容疑者と浮上して以降、捜査本部は紅城妙子の監視を行っていました。ところが、それが問題になりましてね。紅城側からの正式な抗議が警察に行われたんです。犯人でもない人間を付け回して、県警はあれだけの不祥事を起こしておきながらまだ懲りないのか、と。残念ながら、桶川事件直後の県警にはこれに対抗できるだけの反論ができませんでした」

「監視を外したんですね」

「えぇ。上層部の判断でやむなく。監視役の検察も含めて相当に抵抗はしたんですが、どうにもなりませんでした。そして、その三日後に悲劇は起こったんです。時間は深夜十一時頃。彼女の住むマンション近くの空き地に誰か倒れているという通報があり、警察が駆け付けたところそこから紅城妙子の刺殺体が発見されました。全身数ヶ所を刺されて、ほぼ即死だったという事です」

 ファイルの次のページをめくると、そこに発見当時の写真などが載せられていた。全身を滅多刺しにされ、現場は血の海と化している。検視記録を見ると刺傷以外にも暴行の痕跡もあったようだ。

「この日は遺体の解剖などで大きく遅れていた野菊薺の通夜が執り行われていて、紅城妙子はそれに出席しています。そして、その通夜の帰り道に事件に遭遇したと考えられました。死亡推定時刻は遺体発見の一時間前で、第一の事件同様に全身を滅多刺しにした犯行です。この一件で、捜査は振出しに戻る事になってしまいました」

「……結局、この事件はどうなったんですか?」

 榊原の問いに、鈴木は重い口調で答える。

「紅城妙子が殺された事で、捜査本部はこの事件が女優を狙った連続殺人であるという見方を示すようになりました。実際、両者の犯行には殺し方などで似通った点も多く、別々の事件とみるには無理があったんです。そこで改めてストーカー方面で捜査を進めたところ、紅城殺害の五日後にようやくそちら方面での容疑者が浮かび上がってきたんです。名前は室生厚むろうあつし。事件当時はコンビニの店員をしていましたが、同時に野菊薺のファンクラブのメンバーでもあり、その過激なファン活動から同じファンクラブの人間からも嫌悪されているというような人物でした。調べた結果、二つの事件に関するアリバイは存在せず、さらに第一の事件で使用されたナイフを自宅近所の雑貨屋で購入した事も判明。これらの証拠から県警は室生を一連の事件の犯人と断定し、紅城の事件の一週間後に自宅を強襲して逮捕しました」

「取り調べの結果は?」

「自宅を捜索した結果、凶器のナイフや、衣服に付着した野菊薺の毛髪なども発見され、これらの証拠を突き付けた結果、室生は野菊殺害を全面自供しました。動機は一種のストーカー心理に近いもので、野菊薺を自分のものにするために彼女自身を殺したという理解できないものでした」

 だが、ここで榊原は眉をひそめた。

「野菊殺害は全面自供したと言いましたが、では紅城殺害に関してはどうだったんですか?」

「そこなんです。室生は野菊殺害に関しては認めたものの、紅城殺害については断固として否認したんです。動機については、野菊のライバルで日頃から仲の悪かった紅城を許せなかったためという仮説が捜査本部では成立していましたし、何よりこの事件が連続殺人であるという点と、室生に紅城殺害時のアリバイがない事から限りなく黒に近い状態でした。が、結局本人の自白を引き出せなかった事と、直接的な証拠が発見できなかった事で、検察も紅城殺害の関しては起訴を見送っています。最終的に検察は証拠のはっきりしていた野菊殺害の容疑のみで室生を起訴し、裁判の結果、室生には無期懲役の判決が下される事になりました。現在も服役中です」

「なるほど、ね」

 榊原はそう言うと改めて事件ファイルをめくりながら事件の情報を吟味する。

「あの頃に検察が捜査段階から関与していた事件の中で一番大きかったのはこの事件が最大です。どうでしょうか?」

「そうですね……少し気になる事はあります」

 榊原はそんな事を言った。橋本がそれを聞きとがめる。

「気になる事? 何だ?」

「この写真、だ」

 榊原が見せたのは、第二の被害者・紅城妙子の写真だった。

「これがどうした」

「よく見ろ。この紅城という女優の髪形を。黒い長髪だ」

 そう言われて、橋本はハッとしたようにその写真を見る。確かに、第二の被害者である紅城妙子は腰まで届こうかという黒い長髪の女性だった。しかもこの時の年齢は二十三歳と若い。今回の事件の被害者たちの条件と合致するのである。

「だが、それだけではな。こう言っては何だが、黒い長髪の若い女性が被害者の事件はこれに限った話じゃないぞ」

「もちろんわかっている。だが、気になる点はもう一つある」

「もう一つ?」

 そこで榊原は鈴木にこう問いかけた。

「この第一の被害者である野菊薺という女優ですが、出身地も大宮ですか?」

「えぇ、そうです」

「では、彼女が通っていた学校はどこでしょうか?」

「確か……大宮第三高校だったかと」

 それを聞いて、橋本の表情が少し厳しくなった。

「その高校は確か……」

「あぁ、羽本が通っていた高校だ。しかも、この事件当時三十八歳だった野菊薺は、生きていれば今年四十四歳。今の羽本の年齢と同じだ」

 榊原の言葉に、橋本も彼が何を言いたいのか気付いたようだ。

「つまり……野菊と羽本は同じ高校の同級生だというのか?」

「そのようだ。詳しく調べれば同じクラスかどうかもわかるはずだ。そして、同級生の野菊が殺された事件の捜査本部に、羽本がいたかもしれないという事実。なかなか興味深い話だ」

「だが、肝心の野菊薺の髪形は黒の長髪じゃないぞ。第二の被害者である紅城は確かに長髪だが……紅城と羽本の間に直接的なつながりはない。第一、この事件の犯人はもう捕まっているはずだ」

 橋本はそう言いながら野菊の写真を指さす。確かに、野菊の髪形はどちらかといえばショートヘアで、お世辞にも長髪とは言えない。

 だが、榊原はあくまでもこの事件にこだわった。

「とにかく、野菊と羽本のつながりについて調べてみよう。そこから何かが見えてくるかもしれない」

「……そうだな。手掛かりがこれしかない以上、やってみるしかないか」

 橋本の言葉に、榊原も黙って頷いたのだった。


「野菊さんの事について聞きたい、ですか? 何で今さら?」

 榊原と橋本の問いに対し、質問相手の大宮第三高校数学教師・塚平鳴美つかひらなるみは怪訝そうな表情でそう答えた。

 ここは大宮第三高校の職員室。当時、野菊と同級生だった人物が現在偶然にもこの学校で教師をしているという情報を聞き、早速学校を訪れた榊原と橋本である。日曜日ではあるが、幸い部活のためにその人物……塚平は出勤していた。

「昨日もいきなり警察から羽本君について聞かせてほしいって連絡があったばかりなのに、今度は野菊さんの話ですか? 何かあったんですか?」

「ある事件の調査、とだけ答えさせて頂きます。それで?」

 榊原のはぐらかすような言い方に、塚平は不審そうな表情を崩さないままではあったが、やがて肩をすくめて答えた。

「まぁ、私たちの同級生で野菊さんの事を知らない人なんていないと思いますよ。当時の生徒会副会長で、学業優先とはいえあの頃から芸能活動もしていた子ですから。いわゆる、学園のアイドルってやつだったと思います」

「アイドル、ですか……」

「えぇ。美人で清楚で誰にでも優しい理想的なアイドルって感じですかね。もっともそれは男子側の評価で、本人はどこにでもいる普通の子でしたけど。とはいえ、卒業後にそのまま女優になったって聞いたときは、納得でしたね。だから……六年前に殺されたって聞いた時はショックでした」

 そこだけはさすがに沈んだような表情をする。だが、榊原としてはここからが本番だった。

「では、彼女と羽本さんの関係についてはどうだったでしょうか? 何か接点があったとか?」

「あの二人が? いえ、そんな話聞いた事がないですよ。羽本君はこう言っては何だけど地味なタイプで、人気のあった野菊さんとじゃ釣り合わなかったと思います。そりゃ、確かに一年の頃は同じクラスだったはずですけど、あの二人の間に何かあったら学校中の大スキャンダルになっていたはずですし」

「では、羽本さんが野菊さんに一方的に片思いだったとか?」

「それもどうかなぁ。羽本君、勉強ばっかりで恋愛とかには興味なさそうなタイプだったし……。それに、地味ではあったけど暗いタイプでもなかったから、粘着質に付きまとうような人間じゃなかったはずですよ」

「そうですか」

 どうもしっくりこない。内心、橋本は「これは外れかもしれない」と密かに思ったりしていた。だが、榊原はなおもしつこく質問を重ねる。

「では、在学中、野菊さんと羽本さんには本当に一度も接触はなかったという事ですか?」

「え、いや……そこまでは言いませんけど。何だかんだで一年の時は同じクラスだったわけだし、クラス行事とか日直とか掃除当番とかで話す事くらいはあったはずです。ほらあの二人、名字が『の』と『は』だから出席番号が近くて、一緒に日直をやる事も多かったみたいですし」

「日直……という事は、当然日直日誌を書くわけですよね?」

「まぁ、そりゃ……」

「その日誌、今も残っていませんか?」

 榊原の思わぬ問いに、塚平は困惑した表情を浮かべる。

「ど、どうでしょう……。一応、日誌は全部保管する事にはなっていますけど、何しろもう二十八年前の日誌ですから……」

「保管場所に案内してもらえますか?」

 数分後、二人は職員室近くにある図書室の準備室の中にいた。図書室に並べられない学校の記録や卒業アルバムなどが多く保管されていて、普段使う人がいないせいかかなり埃っぽい。塚平はその奥の方を探っていた。

「ええっと……あるとしたらこの辺りのはずなんですが……」

 そう言いながらいくつかの古びた段ボールをチェックしていく。しばらくして、一つの段ボールが引っ張り出された。

「あった、あった。これですね。へぇ、まだ残っていたんだ」

 塚平はそう言いながら段ボールをテーブルの上に乗せると、それを開いて中身を取り出す。中には古びた紙が大量に挟まれたファイルがいくつも入れられていた。

「ええっと……一年生の時の日誌はこれですね」

 塚平が渡したファイルを榊原は受け取る。表紙には『一九七八年 1-C』と筆文字で書かれている。榊原は手袋をして紙を一枚一枚めくりながら慎重にチェックをしていたが、やがてあるページでその手が止まった。

「これだな」

 そのページには、確かに日直担当欄に「野菊薺」「羽本鉄治郎」の名前が記されている。日付は一学期の中頃だろうか。榊原はさっそく内容……特に最後のコメント欄を確認し始めた。

『今日から体育でバレーボールの授業が始まりました。一度やってみたいと思っていたのでとても楽しみ! 現代文は「山月記」の朗読に入りました。日直の仕事も羽本君が手伝ってくれたおかげで早めに終わってよかったです。 野菊』

『全員出席。特に異常なし。 羽本』

 表現豊かな野菊に対し、羽本は簡素で必要最低限の事しか書いていないようだ。

「ううん、さすがに公的な日誌だからというか何というか……個人的な事は書かれていないな」

「何しろ先生が見るものだし、それに日直になったら結局みんな見る事になりますからね。そんな事は書けませんよ」

 橋本の言葉に塚平はそう答える。それでも榊原は丁寧にページをめくっていった。だが、しばらくして不意にその手が止まった。橋本は日直の欄を見るが、そこに書かれていた名前は二人のものではなかった。

「どうした?」

「いや、これが気になってな」

 榊原が指差したのは遅刻・早退・欠席などが書かれている場所だった。そこにはこう書かれていた。

『羽本鉄治郎君 早退 怪我』

 橋本は当惑したような表情を浮かべる。

「羽本が怪我で早退したというだけの話に見えるが……」

「いや、ただの早退というわけでもなかったようだ。下の欄を見ろ」

 そう言うと榊原は下のコメント欄を指さす。見ると、日直のうち一人が事の詳細を簡単に書いていた。

『羽本君が先輩と殴り合って怪我をした。普段おとなしい彼が喧嘩するなんて珍しい。目撃した野菊さんと掛川さんの話だと二人が急に殴り合いを始めたそうだけど、何でなんだろう? 山北』

「どうやら、この殴り合いの現場に野菊がいたらしいな」

 榊原はそう呟くと、塚平に問いかけた。

「すみません。この事件の事は覚えていますか?」

 塚平は訝しげに日誌の記述を見たが、少し考えた後「あぁ」と何か思い当たる節があったかのような反応を示した。

「これね。そう言えばそんな事があったわねぇ」

「どんな事件だったんですか?」

「確か、天木とかいう先輩と羽本君が殴り合ったって聞いたけど、詳しい話は何も。結局その後、羽本君も何も話さなかったし」

「この野菊さんと一緒にいた掛川さんというのは?」

 塚平は日誌の記述をちらりと見てすぐに答える。

「あぁ、掛川天子かけがわてんこさん。野菊さんの友達で、確か小学校の頃からの幼馴染だったかな。今は結婚して結婚式場で働いているはずですけど」

「なるほど……」

 そう言うと、榊原は日誌を閉じてこう尋ねた。

「これ、お借りしても?」

「は、はぁ。構いませんが……」

「それともう一つ。その掛川さんという方と会うにはどこに行けば?」

 塚平は目を白黒させていたが、やがてある結婚式場の名前を言ったのだった。


「その日誌、そんなに気になるのか?」

 タクシーで移動しながら、橋本が隣の榊原に尋ねる。榊原は小さく頷いた。

「まぁな。実際の所、二人の関係がどうだったのかが気になる。果たして本当に赤の他人だったのか、それとも何か隠された関係があったのか」

「その答えが、その日誌にあると?」

「そうだ」

「しかしなぁ。こう言っては何だが、ただの日誌だろう。書いてあることも当たり障りのない事ばかりだし……」

「そうとは限らないぞ」

 榊原はそう言うと、ファイルの後半のページを指し示した。三学期における野菊と羽本の日直の回である。コメントは以下のようなものだった。

『卒業式の予行練習がありました。生徒会役員だと仕事も多くて大変! そのせいで日直の仕事を鉄治郎君一人に全部押し付ける形になってしまいました。次何かあったら私が優先してやるからね! 野菊』

『卒業式の予行演習を予定通り行う。異常なし。 羽本』

 橋本は訝しげな表情で榊原を見やる。

「これのどこが変なんだ? さっきと同じ、当たり障りのない表現ばかりだが……」

 だが、榊原は淡々とこう告げた。

「内容はどうでもいい。問題は名前の呼び方だ」

「呼び方?」

「さっきの日誌では、野菊は羽本の事を『羽本君』と書いている。ところが、この最後の方の記述ではその呼称が『鉄治郎君』と名前の方に変わっているんだ」

「ん?」

 橋本は難しそうな表情で先程の文面を思い出していた。

「言われてみれば確かに……」

「微妙な変化ではあるが、普通高校生の女子が何の関係もないクラスメイトの男子の事を名前で呼んだりする事は少ないはず。微妙過ぎて誰も気づいていなかったようだが、少なくともこの時点で野菊側には羽本に対する他人以上の感情はあったはずだ。問題は、それが一体何なのかだが……」

 そうこうしているうちに、タクシーは問題の結婚式場の前に到着した。中に入り、フロントに声をかける。

「あの……」

「いらっしゃいませ! 式の御予約ですか?」

「いや、我々はこういうものだが」

 橋本が警察手帳を指し示すと、フロントの女性は不安そうな表情になった。

「警察が何か?」

「いえ、話を聞きたい方がいまして。掛川天子さんという方ですが」

「掛川は私ですけど……」

 フロントの女性……否、掛川はそう答えた。

「ちょっと聞きたい事がありまして。お時間よろしいですか?」

「えぇ、大丈夫ですが……」

 掛川は別の職員に声をかけてフロントに代わってもらうと、二人をロビー横のソファに案内した。

「それで、私に何を聞きたいんですか?」

 この問いに対し、橋本は榊原にこの場のすべてを一任する姿勢を見せた。榊原が咳払いして早速質問を開始する。

「実は野菊薺さんの事について聞きたい事がありまして」

「薺の事って……薺の事件はもう犯人は逮捕されたはずじゃないんですか?」

「えぇ、そうです。ただ、今回はそれとは別件でしてね」

「よくわかりませんが……」

「彼女の高校時代の話なんです。あなたは彼女とは幼馴染の友人だったそうですが」

「えぇ、まぁ、そうです。自分で言うのもなんですけど、普段は取り繕ってばかりいた彼女が素顔を見せてくれる数少ない人間だったと思っています」

「取り繕っていた?」

 いきなりの聞き捨てならない言葉に、榊原も反応する。

「ほら、彼女ってあの当時から芸能活動もしていましたから、何というかみんなの中でイメージが固まってしまっていたんです。いわゆるアイドルとしてのイメージですね。だから、普段からそのイメージを崩さないようにするのが大変だったみたいで、二人っきりの時は結構愚痴っていました」

「美人で清楚で誰にでも優しい理想的なアイドル、ですか?」

「そうそう。誰も彼女のうわべだけしか見ていなくて、本当の彼女を知っている人は数が少なかったですね」

 掛川はしんみりとした口調で言う。

「それでですがね……高校一年生の時、同級生の羽本鉄治郎という人物が先輩と殴り合いになったという事件があったと思うんです。あなたと野菊さんが目撃者になっていたそうですが、この事件の事は覚えていますか?」

「ん? あの事が聞きたいんですか?」

 掛川は拍子抜けしたように言う。

「ちょっと彼女の人間関係を調べていましてね。日誌ではいまいち殴り合った理由がわからなかったんですが、本当のところはどうなんですか?」

「……まぁ、もう薺が死んでから六年も経つし、時効でいいかな」

 掛川はそう独り言を呟くと、直後にとんでもない事を言った。

「あの喧嘩は単なる殴り合いじゃないんですよ。あれは、羽本君が薺の事を守った事件なんです」

「守った、ですか?」

 思わぬ話に榊原も身を乗り出す。

「そうです。あの時の相手……天木って先輩なんですけど、彼って女たらしで有名で、薺にも目をつけていたみたいなんです。学校一のアイドルの薺を手に入れれば自分の株も上がるみたいな馬鹿馬鹿しい事を考えていたんだと思いますけど、とにかくしつこく言い寄ってきて、ついにあの日になって無理やり彼女に迫って来たんです。もちろん私たちは拒否したんですけど、女子二人ではどうしようもなくて……。でも、もう駄目だって思ったその時、たまたま廊下を歩いてきていた羽本君が止めようとしてくれて、そのまま先輩と殴り合いの大喧嘩になったんです。それからだったかなぁ、薺が羽本君に惚れたのは」

「惚れた?」

 想定外の言葉に榊原は思わず問い返す。

「そう。あの二人、実は高校時代の間密かに付き合っていたんですよ。知っていたのは当人たち以外だと私だけですけど」

「そんな話どこからも出てきていませんが……」

「そりゃそうでしょう。学年一のアイドルが付き合っているなんて噂が流れたら大変な事になるし、芸能活動にも支障が出るかもしれませんから。しかも相手があの堅物の羽本君だから、万が一ばれたら怒りの矛先が羽本君に向くかもしれない。だから、二人の付き合いは細心の注意を払った極秘の状態になっていました。実際、本当に高校在籍中隠し通しましたからね」

「……」

 衝撃的な話だった。野菊と羽本。性格も立場も全く違うこの二人が付き合っていたという事実がいきなり飛び出してきたのである。

「それで、その後二人はどうなったんですか? 二人が結婚したという事実はないようですが」

「そりゃね。卒業した後、薺は本格的に芸能活動に身を投じていく事になって、そのためには羽本君との付き合いはトラブルになりかねないものだった。だから、羽本君から身を引いたんです。恋愛よりも夢を取ったって事ですかね。その後、薺は栗川さんっていう別の人との結婚に踏み切り、羽本君もそれをきっかけに別の女性と結婚したはず」

「もめなかったんですか?」

「まったく。そもそも薺の旦那さんはこの事を知っているはずだから」

「え?」

「結婚前に薺が旦那さんに全部打ち明けて、実際に栗川さんと羽本君も会ったみたいですよ。聞いた話だと、羽本君が栗川さんに『あなたなら彼女を任せられる。彼女の事を幸せにしてあげてください』って頭を下げて、友好的な雰囲気で終わったらしいけど。羽本君も栗川さんの事を彼女にふさわしい相手だと認めたって事かしらね」

「そうですか……」

 実際、結婚後十数年何事もなかったのだからこの件に関してトラブルはなかったのだろう。だが、この話が本当なら、その後に起きた野菊の殺害事件における羽本の立ち位置ががらりと変わってくる。彼にしてみれば、初恋の相手を殺されたという事件になってしまうからだ。

「薺さんの事件に関して羽本さんは何か?」

「さぁ……羽本君とは彼が結婚してから何年も会っていませんから。今はどこで何をしているのか」

 掛川はそう言って首をかしげる。嘘はついていないようだ。

「では、もう一つ。紅城妙子という女性に心当たりは?」

「紅城? それって確か、薺と一緒に殺された女優さんですよね。特には知りませんけど……」

「そうですか。わかりました、お忙しいところありがとうございます。もう戻って頂いて結構です」

「はぁ……」

 掛川は怪訝そうな表情を浮かべながらその場を後にした。本当に何が何だかわからないのだろう。

「行くぞ」

 榊原たちはそのまま結婚式場を出て、再びタクシーに乗った。重苦しい空気が車内を包む。

「榊原、お前何を考えている?」

「……多分、お前と同じような事だ」

 榊原の答えに、橋本は険しい表情を浮かべる。

「なら、次に向かう先は?」

「……栗川春樹の家」

「同感だ」

 両者同時に頷くと、榊原たちは次の行き先……栗川宅の住所を運転手に告げた。運転手は黙ってタクシーをスタートさせ、それから十分もしないうちに目的となる住宅地に到着する。料金を払って下りると、二人はまっすぐ栗川の自宅へ向かった。

「栗川の職業は……」

「埼玉県警の資料では、映画のプロデューサーという事になっていた。さて、家にいてくれれば万々歳なんだが……」

 そう言いながら榊原はチャイムを押す。幸い、応答はすぐにあった。

『はい?』

「すみません。栗川春樹さんですか?」

『そうですが、あなた方は?』

「実は、警察の者でして」

 橋本が警察手帳をインターホンのカメラに見せる。そのとたんに、インターホンの向こうから警戒するような気配が伝わってきた。

『警察が今頃何の用ですか? 妻の事件の事ならもう解決したはずです』

「いえ、それとはまた別の事件について調べています。ただ、その中で奥様の事件の事が浮かんできましてね。こうしてお邪魔したわけです。お話を聞かせて頂いても?」

 榊原が丁寧に告げる。が、相手の反応はあまりいいものではなかった。

『そうは言いましてもね……正直、警察に真っ昼間から来られるのは迷惑なんですよ。ご近所から変な噂が流れるかもしれませんし』

「お時間は取らせません。ただ、一つ確認したい事があるだけです。お願いします」

『……わかりました。一つだけくらいなら質問に答えますけど、何ですか?』

 しぶしぶと言ったその言葉に、榊原はズバリ切り込んだ。

「第二の事件の被害者、紅城妙子について、あなたは事件前から何か知っていましたか?」

 その質問に対し、インターホンの向こうからは怪訝な声で返事が返ってくる。

『何でそんな質問をするのかはわかりませんが……まぁ、私も映画プロデューサーですし、妻と彼女の確執についてはかなり噂になっていましたから、それなりには知っていましたよ。というか、だからこそあの時の事をおかしいと思ってわざわざお知らせしたわけですが……』

「ちょっと待ってください!」

 その時、榊原らが相手の声を遮った。

『な、何ですか?』

「今、『あの時の事を知らせた』と言いましたが、それは五年前の事件の時に紅城妙子に関する何かの情報を警察に知らせた、という事ですか?」

『そうです。というか、だからこそ警察は最初の頃に紅城妙子を容疑者としてマークしたんじゃないんですか?』

 二人の表情が緊張する。さっき埼玉県警で資料を見た限り、栗川は捜査の初期段階で早々と容疑者から外れ、その後はこれと言った証言は記録されていないはずだった。つまり、ここに捜査陣営に報告されていない『幻の証言』が現れたのである。

「一体、あなたは何を見たんですか?」

『何って……妻が殺される数日前の夜に紅城妙子が自宅の周辺をうろついていたっていう話ですよ。生前の妻の話だと何か撮影でトラブルがあって、抗議するために来ていたみたいですけどね。え、記録に残っていないんですか?』

 そんな話は初耳である。というより、そんな情報があったらただでさえ当初紅城を疑っていた当時の埼玉県警が黙っているはずがない。いくら本人が抗議していても事情聴取くらいには即座に踏み切れたはずだ。

「あなたは、それの情報を捜査本部に知らせた。間違いありませんか?」

『そうです。実は、当時の捜査本部に私の知り合いがいまして、彼に電話をして本部に知らせてもらえるように頼んでおいたんです。だから、伝わっていないのはおかしいはずなんですけどねぇ』

 その瞬間、榊原はすべてを理解したように天を仰ぐと、押し殺した声で最後の問いを発した。

「その知り合いというのは誰ですか?」

 栗川の答えは明確だった。

『羽本鉄治郎という検察の職員です。妻の昔の恋人で、当時は法務省から出向しているとか言っていましたけどね。今はどこで何をしているのやら。……もういいですか? 仕事があるのでこれで失礼します』

 通話が切れた後も、榊原と橋本はしばらくその場で固まっていた。やがて、榊原は重苦しい口調で呟いた。

「これで……つながった」


「状況を確認しよう。五年前の事件、殺害された野菊薺と当時浦和地検に出向中だった羽本は元恋人同士だった。そして、栗川は事件の数日前に紅城妙子が自宅周辺をうろついていたという証言を友人である羽本を通じて捜査本部に伝えたが、この事実は結局捜査本部に伝わる事はなかった。紅城が捜査対象になったのは別方面からの捜査の結果だったはずだからな」

 道路を歩きながら、榊原は橋本に推理を告げていた。橋本は黙って聞いている。

「ここまでの状況から見て、考えられる事は一つ。羽本が栗川の証言を握りつぶした。理論的に可能性はこれしかありえない」

「その動機は……紅城妙子に対する復讐か?」

 橋本の言葉に榊原は頷いた。

「問題の紅城妙子殺害事件は犯人として逮捕された室生厚自身犯行を否定していて、野菊薺殺しと違って明確な証拠もなかった事から検察も立件を見送っている。警察の見解としては犯行形態などから同一犯による連続殺人とされていたが……もし、これが本当に室生の自供通り彼の犯行ではなく別人の犯行だったとすればどうだ」

「その場合……犯人の可能性があるのは、第一の事件の犯行形態を知っていて事件を連続殺人に偽装できる人間、すなわち捜査本部の人間だ。そして、その中で動機があり、なおかつ紅城が怪しいという証言そのものを握りつぶしているとなれば……十中八九、犯人は復讐に燃える羽本という事になってくるだろうな」

 橋本が重い口調で答えを述べる。榊原も頷いた。

「同感だ。おそらく羽本は栗川からの情報と捜査本部内で主流になりつつあった紅城犯行説から、紅城妙子こそが野菊薺を殺した犯人だと判断してしまった。そして、かつての恋人を殺された事で復讐に燃えていた羽本は暴走し、結果羽本は紅城妙子を連続殺人に偽装して殺害してしまった。現段階ではまだ私の推測に過ぎないが、これが五年前の事件の真実だったと思う」

 と、ここで橋本が反論した。

「だが、実際に野菊薺を殺したのは室生厚だぞ。この件に関しては本人がはっきり自白しているし、捜査記録や裁判記録を確認した限りでも証拠は完璧だ。これが間違っているようには俺には思えないんだが……」

「あぁ、確かに野菊薺殺害事件の犯人が室生厚だという点に関して否定するつもりは私にもない。肝心なのは、諸々の条件から羽本が紅城こそが野菊薺殺しの犯人だと『思い込んで』しまった事だ」

「……すべては、羽本の独断と暴走による独りよがりな思い違い、という事か?」

 榊原は無言で頷くと、こう続けた。

「これは完全に想像になってくるが、室生が逮捕された後も、奴は紅城妙子が野菊を殺した犯人だと信じて疑っていないと思う。そして、だからこそ今回の犯行が起こったと私は考える」

「どういう事だ?」

「奴にとって紅城妙子は今でも自分の初恋の相手を殺した殺人犯のままだという事だ。つまり、奴にとって紅城妙子と同じ黒髪の若い女性は憎悪の対象となっている可能性が高い」

「それが……奴が黒髪の若い女性ばかりを狙う理由か。しかし、どうして今になって?」

「五年前は紅城妙子を殺害した事で一度は憎悪が収まったんだろう。だが、最近になって奴の心のスイッチが切り替わる……具体的には奴の憎悪を復活させる何かがあったはずだ。おそらくは、第一の被害者である井浦鮎奈がそのきっかけになっていて、そこからもう歯止めが効かなくなっていったというのが真相だろうが……」

「スイッチ、か。何だろうな? 奴の狂気が復活するきっかけのようなものか……」

 橋本が考え込む。

「第一の被害者の井浦鮎奈と紅城妙子に共通する何かだろう」

「若い黒髪の女性……だけではないだろうな。もしそれがスイッチだったら、五年も抑えておく事なんか無理だ」

「となると、他に共通点があるという事だが……」

 そこで、榊原は何かに気付いたように足を止めた。

「確か、紅城妙子は野菊薺の通夜からの帰宅途中に殺害されていたな」

「あぁ、そうだったな」

「通夜帰りという事は、その服装は当然、喪服のはずだな」

「そりゃそうだろう。ただでさえ仲が悪くて疑われている状態だったというのに私服なんか着ていったらますます状況がおかしくなるのは本人だってわかっていたはずだ」

「つまり、羽本が紅城を殺害したのだとすれば、その時羽本は喪服姿の長髪の女性を殺害した、という事になるはずだな?」

「……ちょっと待て」

 そこで橋本も何かに気付いた様子だ。

「確か、第一の被害者の井浦鮎奈は葬儀に出席するために台湾に出かけたんだったな。王美麗に見せてもらった写真に写っていた彼女の服装は……」

「黒い喪服だ。当然、帰国時もこれを着ていたはずだろう」

「だとすれば……」

 嫌な予感が浮かんでくる。

「いくら成田でも、喪服で外国から帰ってくる人間というのはそう多くないはずだ。ましてそれが若い女性となればなおさらだろう。もし、紅城を殺害した時に彼女が来ていた『喪服』が奴の目に焼き付いていて、数年後に同じような姿格好をしていた井浦鮎奈を見た事で、奴の記憶がフラッシュバックしたとすれば……」

「それが奴の狂気を引き起こしたスイッチか!」

 橋本は信じられないというような表情を浮かべた。

「じゃあ、二件目以降の被害者も喪服を着ていたと?」

「いや、さすがにそれはないと思うが……さっきも言ったように、一度タガが外れてしまった結果、奴自身殺人衝動に対する歯止めが効かなくなっている可能性は高い。となれば、喪服の事は無視するか、あるいは喪服ではなくともそれなりに黒っぽい服さえきていればいいという風に判断してしまっている可能性はある」

「……要するに、井浦鮎奈が『喪服』という引き金を引いてしまったのが事の発端だったわけか」

 あまりの話に、橋本は首を振った。

「これでひとまず、奴の動機に関する部分は推察できたと思う。実際のところは本人に聞いてみる他ないがな。後は決定的な証拠が挙がるかどうかだが……」

 榊原がそう言って思案していると、不意に橋本の携帯電話が鳴った。橋本はしばらく何やら話をしていたが、やがて電話を切って榊原に告げた。

「千葉県警の捜査本部からだ。その物的証拠とやらをとうとう掴んだらしいぞ」


 その日の夕方。千葉県警本部の捜査本部に榊原や橋本を含めた捜査員たちが全員集結していた。榊原たちが埼玉へ行っている間に、他の刑事たちは全力で証拠の収集にあたっていたのである。

「散髪?」

「はい。今日、羽本の周囲を見張っていたところ、奴は自宅最寄りの理髪店で散髪をしていました。そして散髪が終わって奴が店を出た後で、我々は理髪店から散髪の際に使用したくしを押収しました」

 中司が告げる。それだけで、橋本はピンと来たようだった。

「DNAが出たのか?」

「毛髪は毛根が残っていないとDNA鑑定はできませんが、くしに残っていた髪の毛の一本に運よく毛根が残っていました。それと第四の事件の際に現場から押収された犯人の血痕を先程DNA鑑定したところ、見事に一致したそうです」

 その報告に本部の刑事たちは拳を握りしめていた。DNAの一致……これ以上ない最高の証拠である。少なくともこれで、第四の事件に羽本が関わっていて、現場で血を流した事は客観的にも証明されたのである。

 さらに、続いて土井も立ち上がった。

「第一の事件に関し、榊原さんが指摘したコインパーキングに事件当日停車していた車両の特定、及びその証言の収集を行いました。その結果、事件発生時刻付近にあのコインパーキングを利用した際に、コインパーキングを出ようとしようとしている黒い車と接触したという車の持ち主を発見しました。幸いにも車についた傷はかすり傷で、相手がその場で修理費一万円を出した事でその場は収まったそうですが、その人物は相手の顔をはっきりと覚えていました。複数の写真を見せて確認したところ、その目撃者が指摘したのは羽本の写真でした。この証言から、少なくとも事件発生時刻に羽本が現場周辺にいた事は間違いのない事実だと断定できます」

「第一の事件もつながったか……」

 まるで連鎖反応のように羽本に関する証拠が次々と浮き彫りになっていっていた。ここで県警本部長が高科検事に向き直った。

「検事、これだけの証拠があれば、奴に対する逮捕状を請求する事は可能かと思います。少なくとも、第四の事件に関してはDNAという直接的な証拠がありますので、これだけでも充分に引っ張る事はできます。他の事件については、それから証拠を集めても遅くはない。とにかく、今は奴に次の犯行を起こさせない事が第一です」

「……」

 高科は真剣な表情で考え込んでいた。本部の誰もが固唾を飲んで彼を見つめている。

 それからしばらくして、高科はゆっくりと顔を上げると、決然とした表情ではっきりと告げた。

「いいでしょう。これから千葉地裁に対して羽本鉄治郎の逮捕状を請求します」

「お願いします」

 橋本ら上層部が頭を下げる。が、ここでさらに捜査本部の電話が鳴り響いた。橋本が代表してそれに出る。

「はい」

『埼玉県警の倉山田です』

 相手は埼玉県警の倉山田捜査一課長だった。

「どうでしたか?」

『お昼にお聞きしたあなた方の推理を受けて、県警の精鋭で再捜査を行いました。その結果、五年前の紅城妙子殺しに関し、その犯罪を立証できるかもしれない可能性が出てきました。今、県警とさいたま地検が総力を結集して事実関係の洗い直しを行っているところです』

 榊原たちはこちらへ戻る前に、五年前の事件に対する自分たちの見解を鈴木たちに伝えていた。県警はそれを受け即座に動いたようである。

「こちらは千葉地検がこれから逮捕状を請求する予定です」

『わかりました。逮捕はそちらにお任せしますが、さいたま地検は証拠が固まり次第、こちらからも羽本鉄治郎に対する逮捕状を請求する構えです。容疑は五年前の紅城妙子殺害容疑となります』

「しかし、五年前の事件は室生厚の逮捕ですでに決着しているはず。今さら逮捕状を請求できるのですか?」

 橋本が心配したのは憲法三十九条に定められた「一事不再理」の原則だった。裁判において一度判決が確定した事件を裁く事は、冤罪が発覚でもしない限りは二度と出来ない。戦後刑事法の大原則で、同じ人間を同一の事件で何度も裁判にかけないための決まりである。問題の五年前の事件はすでに判決が下されており、なおかつ野菊薺殺しに関して室生は間違いなく有罪であるので、同一犯による連続殺人として判断されていた五年前の事件がこれに該当しないのかを橋本は懸念したのである。

 だが、これに対する倉山田の解答は明確だった。

『できます。説明した通り、五年前の事件では野菊薺殺しについては立証できたものの、紅城妙子殺しについては証拠が足りずに結局検察は起訴を断念しています。つまり、建前上は連続殺人として扱われていましたが、裁判で裁かれたのは野菊薺殺しだけで、紅城妙子殺しは公式的には未解決の扱いなんです。ですから、紅城妙子殺しに対して一事不再理の原則は適用されません』

「そうですか……」

 五年前に検察が無理せずに紅城事件の起訴を断念した事が、ここにきて吉と出た形である。

『とにかく、再逮捕の際は協力をお願いします。これからも情報の連携を密にしていきましょう』

「同感です。ご協力に感謝します。では」

 橋本は電話を切り、内容を本部の刑事たちに伝えた。

「五年前の件に関し埼玉県警も本腰を入れ始めた。ここまで来たら後には引けない。今、奴の動向は?」

「新庄と竹村が張り込んでいます。何かあればすぐに連絡する手はずです。なお、先程東京地検からも連絡があって、今後の捜査状況次第では五件目の森浜涼子殺しに関して逮捕状を請求する用意があるという事です」

 橋本の問いに斎藤がしっかりとした口調で答える。ここへきて、羽本鉄治郎に対し三つの都県から逮捕状が請求される事になったのである。

「いいだろう。ここが正念場だ。明日中には奴を逮捕して、この事件を終わらせるぞ! いいな!」

 刑事たちが一斉に頷く。その様子を、すでに事件の真相解明という仕事を終えた榊原は、部屋の隅で腕を組みながら黙って見つめていたのだった。


 その数時間後、千葉地検の要請により、千葉地方裁判所は羽本鉄治郎に対する逮捕状を発行した。容疑は明確な証拠がある井浦鮎奈と高畑伊奈子に対する殺害容疑に限定されたが、今後の捜査状況いかんでは残りの三件も発行できるという条件付きである。

 かくして、この長かった事件は、いよいよ終局へと突き進んでいく事になる。

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